源 義朝の墓
大御堂寺 野間大坊 源 義朝の墓
愛知県知多郡美浜町 野間
大御堂寺 大門〜伝、源頼朝寄進
尾張地方、知多半島の古刹 大御堂寺は、天武天皇治世の飛鳥時代後期の673~686年頃、阿弥陀寺として創建しました。
平安時代初期に弘法大師 空海が護摩業を行い、国家と庶民の安寧を祈願し、白河天皇治世時代には、皇家繁栄を祈願する大御堂寺と称されます。
1159年 平治元年、源 義朝が平治の乱で敗れ、郎党 鎌田正清の舅、長田忠致が住む野間まで落ち延びたものの、義朝を売って恩賞を得ようと変心した長田忠致の裏切りによって殺されます。
血洗い池
長田忠致は義朝の首を大御堂寺近くの池で洗って上洛しました。
義朝の首は京で獄門に晒され、平治の乱を収束させた平家が権勢を謳歌する時代を迎えました。
鐘楼堂
義朝の墓がある大御堂寺は、平家権勢下で放置され、荒れ果てましたが、尾張守として新たに赴任した平 康頼が源氏棟梁の墓の現状を忍びなく思い、小堂を建て、僧を招いて供養を続けました。
後年、鎌倉幕府を開府した源 頼朝が義朝の墓を墓参した際、平 康頼の行いに感謝し、康頼を幕府の阿波国の天領を託して恩に酬いました。
頼朝は父の菩提寺として寄進と奉納をして弔いました。
義朝の墓には、義朝の最期、せめて木太刀の一つもあればと無念の思いを残していたことから、大量の木刀を模した卒塔婆が今も奉納されています。