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日本歴史紀行

葵の国 紀行 1 駿府城公園 ~静岡市


駿府城公園 巽櫓~東御門


このカテゴリーでは、静岡に限った掲載を展開します。


駿府(駿河府中)が駿河国(するがのくに)の重要な位置を占める様になったのは、室町時代になってからのことです。


足利将軍家の親族に連なる今川氏が駿河守護として入り、現在の駿府城公園付近に政庁でもある今川館を築いたのが始まりで、やがて足利将軍家が弱体化、本格的な戦国時代が到来しますが、駿河国は今川氏の支配に治世は比較的安定しました。

京の都では応仁の乱が起こり、戦乱が都中に広まり長期化する中、駿河は今川仮名目録など、独自の法体系を用いて堅実な領国経営で安定し、今川氏は義元の時代に有力な戦国大名として君臨しました。

今川氏が衰退の道をたどったのは、1560年 永禄3年、当主 今川義元が桶狭間の戦いで敗れ、討死して以降でした。

後継者の氏真は、蹴鞠や和歌といった公家文化を好み、戦場を疾駆する武将ではないため、氏真を見限った人質の徳川家康は故郷の三河 岡崎で独立し、家臣らが離れる今川家中を虎視眈々と狙いを定めた甲斐の武田信玄が雪崩れこみ、氏真は義父にあたる相模の小田原 北条氏を頼り駿河を明け渡しました。

駿河国は武田信玄が支配しますが、1573年 元亀4年に病没して武田の支配は10年と持たず、織田信長と共に武田氏を滅ぼした徳川家康が駿河を手にしました。

家康は織田信長が本能寺の変で倒れた後、跡目争いを制し、織田家に触手を伸ばした豊臣秀吉と小牧 長久手の戦いで激突、局地戦で勝利するも国力の差もあり、最終的には家康は秀吉と和解。

秀吉が関白職を得た1585年 天正13年、家康は今川館跡地に駿府城を築城し、拠点を浜松から駿府に移します。

豊臣政権下、家康は江戸へ移封となり、駿府城には中村一氏が入り駿府城を改築するも、秀吉死後に勃発した関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開き、武家の頂点に立ちます。

ただ、将軍家の職をわずか2年で三男の秀忠に譲り、家康は隠居の地を駿府として戻ってきます。
家康は駿府城を大改装し、本多正純、板倉重昌、成瀬正成らの譜代家臣に加え、天海、崇伝、林羅山といった僧侶などブレインを周囲に集め、江戸と並ぶ巨大な二元政治の舞台として君臨します。

1611年 慶長16年 二条城で成長した豊臣秀頼と会見して豊臣家の討伐を決意した家康は、豊臣家が行う方広寺大仏の開眼供養に着目し、梵鐘に記載される鐘銘に記載された【国家安康】【 君臣豊楽】の二句に家康の名を分断して呪詛し、豊臣を君として楽しむと難癖をつけて中止を命じ、豊臣方は大量の浪人を召し抱えて戦に備えます。

豊臣を大坂冬、夏の陣で戦い滅ぼし、戦乱の根と後顧の憂いを絶った家康は、翌年の1616年 元和2年、その役割りを終えた様に死の床に着きます。
1616年 元和2年4月17日、家康は75年の忍耐と激動の生涯を閉じました。

家康の死後、駿府城は将軍 徳川秀忠の次男、忠長が駿河55万石の大守として継ぎますが、父の不興を買って謹慎となり、以降は城主を置かず、幕府により城代を置いて幕末を迎えました。

駿府城 巽櫓(たつみやぐら)

東御門



坤櫓(ひつじさるやぐら)

静岡県花のツツジと坤櫓

発掘調査中の天守石垣


本丸跡に立つ徳川家康公像









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