歴史めぐり 街物語 静岡市葵区 3
静岡浅間神社
静岡県静岡市葵区宮ヶ崎
静岡浅間神社は、静岡県の名前の由来ともなった賎機山(しずはたやま)の丘陵南端に鎮座する駿河国総社で、神部神社、浅間神社(二社同殿)、大歳御祖神社(おおとしみおやじんじゃ)の三本社、四摂社の総称で、地元の参拝者は【せんげんさま、せんげんさん】と通称で呼ぶこともあります。
浅間神社は、平安時代の901年(延喜元年)醍醐天皇の勅願により富士山本宮浅間大社から勧請したもので、主祭神は天孫、瓊瓊杵命(ににぎのみこと)の妻と伝わる木花咲耶姫(このはなさくやひめの)命です。
古来から朝廷をはじめ国司が度々参詣し、平安時代以降は歴代のあらゆる武将等の崇敬も篤く、浅間神社は、今年の大河ドラマの主人公〜徳川家康(松平竹千代)が浅間神社で元服、駿河国太守の今川義元が烏帽子親として務めました。
増善寺 今川氏親 墓所
静岡市 葵区 慈悲尾(しいのお)
今川中興の祖 氏親
わずか6歳の時に父、義忠が凱旋途中に敵の残党の手にかかり討死し、後継者争いの争乱に巻き込まれた今川氏親。
伯父にあたる伊勢新九郎盛時(北条早雲)の尽力により、家中の敵である小鹿範満を廃除し、今川家当主の座に就きました。
藤原北家の中御門家出身の寿桂尼を妻に迎えたことがきっかけで、文化の流入が起こり、また京を参考に町作りが行われる様になって駿府の町は華やかに栄えるようになります。
1508年 永正5年、足利義澄が足利義稙に将軍職を奪われると、正式に幕府と将軍家から遠江守護に任じられ、遠江支配の大義名分を得た氏親は遠江支配に乗り出します。
増善寺 本堂
増善寺
7世紀後半に法相宗の宗祖 道昭が開いた保檀院が始まりとされ、一時荒廃するも、1455年 享徳4年、曹洞宗 中本山、石雲院の七哲 辰応性寅(しんのうしょういん)が曹洞宗 増善寺と改め再興します。
今川氏は代々 臨済宗を宗派とし、駿河で寺院を厚く崇敬、庇護してきましたが、氏親は幼い頃の後継者争いで身の危険にあった頃に永く保護してくれた小川城主、長谷川正宣が曹洞宗に深く帰依していることに影響を受けました。
家の宗派である臨済宗寺院に加え、氏親自身は曹洞宗院も崇敬、庇護し、増善寺の性寅から禅の手ほどきを受け、深く帰依します。
今川館から約一里、氏親は馬を駆けて増善寺に度々詣でたといいます。
今川氏 系図
町は繁栄し、7人の子宝にも恵まれた氏親ですが、50代を迎えた頃から中風に苦しみ、病は次第に重くなります。
今川仮名目録
病床に伏す日が多くなった氏親は、父、義忠の死から家中が後継者争いで分裂した経緯と領国の安定経営を続けたいという思いから氏親は細やかな分国法~仮名目録を書き記します。
1526年 大永6年 4月、氏親は33ヶ条からなる家法である今川仮名目録を制定します。
今川仮名目録 (現代語訳)
第一条 名田の没収の禁止、年責増を条件とする名田の競望
1.譜代の家臣の所領たる名田を地頭が正当な理由もなく没収することは禁止してある。
但し、年貢等が未納の場合はやむを得ざる場合として没収できる。
かねてまた、その名田よりの年貢を増やして地頭に納めるからその名田を占有したいと望むと申し出る者があるなら、現在の権利者の本百姓( 本名主、この場合はもとからの権利者の譜代の家臣)に対して地頭から、申し出人と同額の年貢増分を受け入れるか否かを糾したうえ、不承知なら名田を没収して申し出人に与えることができる。
但し、地頭が本名主を取り換えるために、新名主と共謀して、年貢増の虚言を靖えるならば、地頭に対しては領地を没収し、共謀の新名主に対してはしかるべき罪科に處するものである。
第二条 土地境界線の争論
1.田畑ならびに山林原野の境界に関する争論について、もとからの正しい境界をよくよく究明したうえで、原告あるいは被告の道理のない不当な訴訟であると判定された場合、その者の所領の三分の一が没収される。
このことはすでに先年に定めおいたことである。
第三条 荒廃地の再開墾の境界争論
1.もともと田畑であった土地が荒廃して河原や浜辺になっている土地を再度開望するについて、旧名主同志で填界の争いが生じた場合、その土地が年月を経てもとの境界が判定し難くなっているときは、双方が主張する境界の中間を新規の境界と定めるべきであるが、双方が不承知ならば、権利を没収して各々別の給人別の名主、家臣に与える。
第四条 訴訟係属中の土地への私的強制執行
1.訴訟中は権利が凍結されている土地を訴訟の半ばで実力行使して耕作し、あるいは他人の耕作を妨害することは、道理の有無に関わらず違法であることは旧法よりの定めである。
しかしながら、道理が明らかになって判決が確定した後にも、実力行使による答が子孫にまでおよぶことは不憫であろう 今より後は、判決後三ヶ年を経て、裁判をやりなおして、正当な権利者の権利を落着させるべきである。
第五条 譜代家臣の主人鞍替え
1.譜代の家臣を他の主人が本の主人に断りなく召し抱え使うことは、すでに先法により禁止してある。
その場合は、かならず道理にまかせ、裁判によって身柄を引き受けるべきである。
かねてまた、当の主人がそのことを知って新主人に抗議した場合、家臣が懲罰を恐れて逐電したならば、新主人は別の被官人一人を代人として当主人に弁済すべきである。
第六条 逃亡した家臣の追求権の時効
1.譜代の家臣以外で自由に召し使っている被官人が逃亡した場合、二十年を経た後は・本主人は捜索し連れ戻しをしてはならない。
但し、過失を犯して逃亡した者についてはこの定めにはよらない。~現代法律でいう時効~
第七条 不法住居侵入者の処理
1.夜中に他人の屋敷の門より中に入り独りで佇むなどの輩は、知人でもなく、かねての約束による来訪でもないならば、とりあえず逮捕し、あるいは抵抗を受けてはからずも殺害したとしても、屋敷の主人の罪にはならない。
かねてまた、他人の屋敷の下女と婚姻した下人が、下女の主人に届け出せず、また同僚にも知らせずに、下女のもとに夜中に通ってくる場合、星敷の者が逮捕あるいは殺害におよんでも罪にはならない。
但し、逮捕して究明のうえ、下女に通婚のことが明らかになるならば、その者を分国( 今川家の領地)から追放すべきである。
第八条 喧嘩の法理と処罰
1.喧嘩におよぶ輩は理非を論ぜず双方とも死罪に處すべきである。はたまた、相手から喧嘩を仕掛けられても堪忍してこらえ、その結果疵を受けるにおよんだ場合、喧嘩の原因を作ったことは非難すべきであるが、とりあえず穏便に振る舞ったことは道理にしたがった幸運として罪を免ぜられるべきである。
かねてまた、双方の与力
( 同心、寄騎、家臣、あるいは喧嘩の味方)
の者が喧嘩の現場にいて疵を受けあるいは死亡したとしても、加害者に対して訴訟をおこすことができないことは先年に定めおいたところである。
次に喧嘩人の成敗( 死刑 )はとりあえず本人一人のみにかかることで、妻子家族にはかかわるべきものではない。
但し、本人が喧嘩の現場から逃亡した後は妻子等に咎がかかることもあり得るであろう。
しかしながら、その場合には死罪にまてすべきではなかろう。
( 本人逃亡により家族等が身代わりで罰せられる場合のことと思われ、なお、原典の(しば)は現場の意味、しばを踏むとも言う。芝居の語源です。)
第九条 喧嘩の加担者の処罰
1.喧嘩の相手の吟味について、双方の方人( 味方の証人関孫者)からさまざまに申し立てて、噂嘩の双方の張本人が明らかにならないことがある。
その場合、つまるところは喧嘩の現場にいて各々の一方に味方して走り回り、疵を受けたとしても、その者の罪科は張本人と同様に死罪におよぶべきである。
以後において張本人が露見した場合、その主人たる者の覚悟により処分すべきである。
( 本人自らが張本人を匿ったのではないことを証明するために張本人を自ら処刑すべきである。~けんか両成敗の語源~)
第十条 家臣の不法行為の主人の責任
1.被官人( 家臣 )の喧嘩ならびに盗賊行為の罪は主人には関わらないことは勿論である。
しかしながら、喧嘩の子細が未だ明らかにならず、子細を詮議すべきなどと称してそのまま保護して抱えおくうちにその被官人が逃亡した場合は、主人の所領の一力所を没収すべきである。
所領が無い場合はしかるベき罪科に處するべきである。
第十一条 子供の喧嘩
1.子供の喧嘩の事、子供のことであるから是非の詮議におよばない。
但し、両方の親が制止すべきところ、喧嘩をけしかけ、あまつさえ鬱憤ばらしの行為におよぶなら、父子ともに同罪として処刑すべきである。
第十二条 子供の刑事責任年齢
1.子供が誤って友人を殺害した場合、もともと意趣あってのことではないから処刑にはおよばない。
ただし、十五歳以後については咎を免れ難いであろう。~現代の少年法にも通じる考え~
第十三条 知行地の売貫の禁止と許可の特例
1.主人より地行を許された田畑の無思慮身勝手な売却はすでに禁止されている。
但し、やむを得ざる必要で売却したいならば、その子細を言上させ、買戻し特約の年期を定めて許可すべであろう。今より以後、わがまま勝手な売却は罪科に処す。
( 今川家の場合、土地の売買は〈買戻し持約付き本銭返し)とよばれる契約が慣行で、数年の期限を定めて元利弁済の時に買い戻すという質権設定契約に近いものであったという。
第十四条 売却された土地に対する検地の禁止
第十五条 井戸・溝用地の借地契約
第十六条 他国人の家臣の知行の保護
1.他国人の非官人に許した知行地をいわれなく奪って売却することは、頗る理不尽の次第である。今より今後これを禁止する。
( 他国人という理由での差別の禁止の意味で。)
第十七条 古文書を根拠とする知行権の主張の禁止
1.正当な理由もなく古文書を根拠として名田の知行権を望むことは皆々に禁止してある。但し、正当な譲状が存在する場合は格別のことである。
第十八条 借米債権の利息と弁済
1.借米の事、利息はその年一年間は契約によって定めた利率によるべし。
次の年から本米許り( 単利計算での意味 )で一石につき利米一石、五ヶ年の間に本米、利米合わせて六石と定めるべし。
同様に、本来十石の借米には利米十石、五ヶ年の問に本米・利米合わせて六十石と定めるべし。
( 倍米の利息は初年度のみ当事者間の契約で定め、次年度から一年で二倍になる利息を法定利息とするということ。つまり、当時の債権債務契約は期限一年が原則だったらしく、この条文は期限切れ以後の利息についての定め。)
六年におよんでも元利弁済の沙汰が無い場合は、契約時の奉行( 斡旋仲介、調停をする第三者 )ならびに領主に断って譴責(註・実力による差押)を行うべきである。
( 現代法では強制執行は裁判所が命じた公権力に限るが、近世以前は債権者が私的な実力で行う.そのため、無制限な暴力的な実力行使にならないようにこのような規定がおかれている。)
第十九条 借銭債権の利息と弁済
1.借銭の事、元利合計が元本の二倍になって後、二年間は貸し主は弁済猶予を承知すべし。
六ヶ年におよんでも元利弁済がない場合は、契約時の奉行(註・斡碇仲介、調停をする第三者)ならびに領主に断って譴責(註・実力による差押)を行うべきである。
その場合は米銭ともに利息のことは双方の契約次第で定めるべし。
( ここでいう利息は前項に言う初年度のみの契約時の利息である。つまり六ヶ年以上の延滞の場合の利息は法定利息が適用されず、契約利息によるべしということ。このことから、当時の契約利息は一年で二倍を越す高利だったと推定できる)
第二十条 困窮した家臣の債権の特例強要の禁止
1.借金の質に知行を入れ置き、進退極まった末にあるいは出家遁世と称し、あるいは逃亡と称して大名(註・領主・この場合は今川家)に詫言を入れて救済を要求する者がある。
先年は庵原周防守がそのことを求め、譜代の忠功も黙視し難く捨て置けずとして、一旦は求めに応じて今川家が借金を肩代わりした。
〔割注・但し、今川家の直轄領地のうち焼津の郷を銭主(債権者)に遣わした。〕
今年〔割注・大永五年乙酉〕は安房守(注・名字は不明の安房守)がしきりに救済を言上しており、聞き入れられなければ御前を去り難くと申すので、一応は救済の下知をくだしたところである。
一家といい面々といい、一度はこの種の願いは聞き届けてきたが、今後はこのような覚悟をなす輩は所帯(領地・家屋敷)を没収するであろう。
(一家は今川家の縁戚、面々は父祖以来の家臣の名家というような今川家中の家臣の序列のため。)
第二十一条 他人の知行地の差押
1.他人の知行地の百姓に譴責( 実力行使による借米銭の債務の差押 )を行うことは、あらかじめ領主と奉行人(註・斡碇仲介、調停の第三者)に断りの届け出がなければ、たとえ正当の権利があっても不法行為として処罰する。
第二十二条 守護不入特権(省略)
第二十三条 駿府の守護不入特権の解消(省略)
第二十四条 海上・陸上の商品の運搬税の統制
1.駿河、遠江の両国の港の津料( 海上鵜輸送の商品の運搬税)また遠江の駄のロ(荷駄の通行税、すなわち陸上輸送の税の関所 )は廃止した。
これに異議を唱える輩は罪科に處する。
(従来 港や街道の関所の所在地の領王が徴収していた税を強制的に廃止させ、今川家が新たな方法で徴収するという意味。)
第二十五条 国質の私的取立の禁止(省略)
第二十六条 難破船の所有権の帰属
1.駿河、遠江の海岸に流れついた難破船は異議異論をはさまずに船主(註・所有者)に返還せよ。もし船主が不明の場合は、船の材木を大破した神社仏閣の造宮の資材として寄進すべきである。
(船材を私物化してはならないということ。次の項の流木に比べて扱いが違うのは、船は大きな財産であるということばかりでなく、船魂という神霊の宿る神聖なものであるという意味から。)
第二十七条 河川の流木の所有権の帰属
1.河川の流木は知行にかかわりなく、流れついた土地の者の所有とする。(現代にもこの慣行が普及している。)
第二十八条 宗派の論争の禁止
1.諸宗派間の宗教論争は今川家の領国内では禁止のことはすでに定めてある。
第二十九条 寺浣の住職の相続
1.譜宗の僧侶が法系を継がせる弟子と称して、智恵の器量を糾さずに寺を譲り与えることは今より以後は禁止する。但し弟子の器量次第のことである。
第三十条 他国との婚姻の禁止
1.駿河、遠江の者は私事として他国より嫁を取り、あるいは婿に取り、また嫁に出すことは、今より以後は禁止する。
(敵国との通謀を防ぐ意味での私約な婚姻の規制。政略結婚などは私事ではないからあてはまらない。)
第三十一条 他国人の軍陣参加の禁止
1.今川家の許可なしに他国の者が一度なりとも戦闘行為およびその他の軍事行動にくわわることも同様に禁止してある。
第三十二条 今川館内での家臣の席次
1.三浦二郎左衛門尉、朝比奈又太郎(共に今川家家臣の筆頭者)の出仕の座敷が定まったうえは、他の面々(面々も殿中の座敷に出仕を許される家臣の家格の一つであろう。)は無理に席次を定めるにおよばず、それぞれが互いに判断してよいように計らうべきである。
総じて、弓矢のことでなくして遺恨を持ち合い、座敷の席次のことなどを気にする者は卑怯というべきである。
なおまた、神仏勧進の猿楽、田楽、曲舞などの見物の桟敷の席次は、今より後はくじ引きで定めて沙汰すべきである。
第三十三条 他囲商人を家臣とすることの禁止
1.他国の商人をとりあえずの被官人として契約することはすべて禁止してある。
(他国から入り込む商人は敵方にも通謀する危険があるので、この種の禁止規定は他の大名にも見られる。)
以上三十三ヶ条 右各条、次々と思い付くに従って今川領国のためにひそかに記しおいたものである。
最近は人々が小賢しくなり、思いもよらない争論も生まれているので、これらの条目を構えて、この適用により争いを落着させようとするものである。
したがって、条目の運用に依悟贔屓のそしりがあってはならない。
この条目にあるような事件が起こったときは、箱の中から取り出してよく参照して裁決せよ。
このほかに天下の大法として広く世問に行われている慣習法や、また、私的に今川家がすでに定めてきた個別の法規による規制は(すべて有勃であるので)ここに載せるにはおよばない。
大永六丙戊年四月十四日 紹喜
花押(紹書または沙弥紹書は今川氏親の出家名)
増善寺墓園 今川氏親の墓
甲斐 武田家にも影響を与えた分国法~今川仮名目録~を制定した氏親ですが、病には勝てず、制定の二月後、この世を去りました。
葬儀は自身が深く帰依した増善寺で盛大に営まれました。
後に今川氏への人質として松平竹千代(後の徳川家康)が駿府で住み始めます。
竹千代は供回りを連れ度々 参詣します。
そして生涯通しての趣味だった鷹狩りを行おうとするのですが…。この逸話については、またの機会に記します。