名古屋城
名古屋市中区本丸
1600年 慶長5年、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、自らと対決の立場をとった西国諸大名を改易、大減封を課し、味方した外様大名には領地の配置に加え、召し上げた土地を与えました。
名古屋城大天守
名古屋城は、徳川家康が来るべき豊臣氏との対決を想定して、主に西国の外様大名達に普請を命じ築城させた城です。
尾張 清洲藩主に据えた四男の松平忠吉の没後、
かつて織田信長が幼少の頃に城主を務めた那古野城跡に目をつけた徳川家康は、この台地の西にある清洲が五條川の氾濫の被害に遭うことも憂慮。
1609年 慶長14年、徳川家康は名古屋城築城を決定し、清洲から城下町ごと移転を決めます。
1610年 慶長15年、名古屋城築城を天下普請として加藤清正、福島正則ら西国大名に普請を命じました。
伊勢と尾張の国境になる木曽川、尾張西部を流れる庄内川を防衛線に想定し、西部の低湿地帯は敵の侵入を防ぎ、福島正則に開削を命じた運河、堀川沿いに那古野城跡付近の台地、約20万坪を確保、西側から三の丸、西の丸、深井丸と分かれ、深井丸と西の丸には空堀が掘られていて鉄壁の防御を確保しました。
大天守からは遠く濃尾平野を一望でき、徳川家康は、日本中の勢力を以て攻めたとしても不可落と古事談を引用し語りました。
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