ライフスタイル&パッチワークの部屋

日々の暮らしと、作ったパッチワークを御紹介します。

放射能は長期戦

2011-03-30 19:51:12 | Weblog
アノ忌まわしい巨大地震から既に20日も過ぎた、がその後の福島県の原発 放射能騒動もまだ収束する気配も無く、長期戦になるらしい。
されとてこれだけはどうする事も出来ない。
当初急いで避難した人たちも我が家が心配で戻ってきてる人も多いらしい。

ガソリンの不足も相変わらずでスタンドの通りは車の大行列で、
順番が来るのを待って待って、根気そのものである。

我が家は
昔の職場の後輩が他県でスタンドを経営していたのを思い出し お伺いすると、
「どうぞ!」と快く調達してもらったのは実にラッキーであった。
長いこと人間やっていると
何処にどんな人にお世話になるかかわからないものだ。
無駄な走りはしないで大切に使おう。

当座しのぎでもガソリンの心配から解放される。胸の支え取れた感じがした。
帰路店を覗いたら、
すっかりほこりを被っていた。
そして店の前の公園には人っ子ひとりの姿も無い。
無理も無い今の現状。
数年前 まだ活気があって、店主もやる気満々だった頃の画像が出てきた。
3、11日を境に環境も人も憔悴してしまっているようだ。
ラジオを聞いていたら
「がんばれ東北」と皆はエールを送ってくれるが
もう頑張れない人もいっぱいいるのだと聞かされた。
そういわれると 言葉が見つからない。



省エネに励む

2011-03-29 13:16:10 | Weblog
少しずつ少しずつ 暖かくなってきた。
今朝は外の方が暖かい。
今日こそお墓参りに行こうと言う気分になってきた。

車のガソリンの残量考えると、最短距離で能率的に走ろうと計画した。
が所々道が陥没していて回り道になってしまう。
墓地の駐車場の桜の木も蕾が膨らんで、土手沿いには水仙の花が咲き誇っていた。
青空の下、あの11日の惨事を思い出さなければうそのような日である。

被災地はまぁだ手付かずのところもいっぱいあるらしい。
福島県の太平洋側の住民は放射能の危険圏で遠くに避難しているらしいが、
避難先では身は安全であっても、残した家や動物、田畑を案じているだろうが、
近寄れない我が家にジレンマでいっぱいに違いない。
放射能で汚染され復旧するには30年の歳月が掛かると聞いた。
30年は長すぎる。
今私に出来ることは無駄を少なく省エネに励むしか能がないようだ。



巨大地震ー11

2011-03-27 21:14:02 | Weblog
今住んでいるわが町も
ライフラインが殆ど回復しつつあるが、しかし 時折前触れも無く揺れる。
そして又不安が募る。
地震当初、これは並みの揺れではないと、直感したのだったが、
 津波の猛威、これほど多くの犠牲者や まして今は隣県の原発の放射能の不気味なニュースに怯えて暮らす昨今、

何時まで続くのだろうか?放射能の数字を並べられて報道されても
理解に苦しむ。

ただ普通に呼吸していっぱい太陽を浴び 春雨に濡れ、当たり前に暮らしたい。
正直
福島県に原子発電所がこんな大量に立ち並んでいたことさえ知らなかった。
地図を広げキロ数を測ればわずか80kmの近くだったとは。

戦後総てのものに不足して、裕福になりたいと必至に頑張って来たことは確かであるが、
それ故に  経済を最優先にして・果して?

人は
空気 水 山 川 海と自然を粗末に扱ってきたのではないかと思うのは私ばかりだろうか?
大きな課題が残されたのだと思う、

この素晴しい地球と言えば口幅ったいが、
それでも今、生かされている自分に何が出来るか
問うてみようと思えてならない。
遅まきながら 一老女が出来ることは何かを・

巨大地震ー10

2011-03-26 10:30:29 | Weblog
ライフラインが繋がってきて、やっと辺りのことが気に出し始まった。
あの人は?
親友で50年来もお付き合いしている仙北に住んでいるMちゃんが気になってしょうがない。
いくら電話をしても通じない。
彼女ご夫婦はよく海沿いの「松島簡保の宿」を利用しているので、
自宅の電話 携帯が通じないので、気が気ではなくなってきた。
何日も携帯を押した。
ある日「もしもし?」と一声だけ彼女の声が聞こえた。
あぁ、、生きているようだ。
数日後先方から「もしもし?」とだけ携帯がなったがそれ以上の声は聞こえないが
なんせ生きていることだけは確かだった。

後々わかったのだが自宅がすこし壊れ、ライフラインの総てが断ち切られ、揺れが続くので隣町の避難所に避難していたのだと知らされた。
声はしっかりしていたから元気の様子、
その知らせを聞いた時、初めて涙がとめどなく流れた。

すぐにも合いたい、
何か不足している物があったら送ってあげたいと思うばかり、
しかし所々道が寸断されていて行くにいけない。
宅急便もダメらしい。
資源豊かな東北地方、人情に厚い東北地方はこれから先は?、
日増しにどん底に陥ったような気持ちになった。




巨大地震ー9

2011-03-25 15:00:18 | Weblog
1週間も過ぎてきたら揺れの回数もすこし減ってきたが、油断していると又大きく揺れる。
何度揺れても気持ちいいものではないがスイッチを切るようなわけに行かないから、時間の過ぎるのをただ待つしかない。
我身内でだれも命を落としたり、家が壊れたりすることがなかったから、
少々の辛抱は出来ると思う。
湯に浸かり自分の布団に入ったときにありがたいと今の生活に感謝せずにはいられない。
備蓄の食糧も10日位経つと流石残り少なくなって心細くなってきた。
友達の友達の家は大酪農家で、
今の状況で牛乳を集配に来てもらえず、畑に毎日60万圓分の牛乳を畑に捨てているとのこと、
友達の家に毎日捨てるよりはと
友達んちに届くのだと聞いた。
「我が家も飲みたい」と願って4、5日2Lの牛乳を戴いて呑むことができた。
何んとありがたいことか・
しかし、ライフラインがすこしづつ復活してきたら、ピッタ!と届かなくなってしまった。

田舎町のスーパーにも箱に入った牛乳が市販され始まった。

巨大地震ー8

2011-03-24 18:03:36 | Weblog
地震 津波発生 原発騒動と 心休まる暇が無いほど、 今度の地震は
史上に残る大惨事なってしまった。
まして、福島県の原子力発電には体にはすぐ感じられないから、
最も不安でいっぱいである。
我が家から測っても7、80kmの距離と言っても、
住処を離れることも出来ない。
弟は「いつでも避難出来るようにしていたほうがいいよ」というので車に布団
下着類 水 わずかな食料を詰め込んだ。
さぁて、いざと言うときは何処に避難したらいいのかも見当が付かない。

毎日モンモンと暮らしていたある日、
相馬のお得意様ご一行がニコニコと笑顔で遊びに来た。

「大丈夫だったか?」と言ってお互いの無事を喜んだ。
いつものメンバーより一人が足りない。
「○ちゃんはどうしたの?」まさか?
「○はなぁ、婆より外出禁止令が出て外に出てはいけないと言われて、
遊びに来れないだってよ。マスクして家で篭っていたよ。
なぁに おらぁ放射線を浴びたからってその前に何かで死ぬんだからさすけねぇ(なんってことない)・」と口々にいうのである。
80~90代の人生卓越した大先輩、流石その台詞には重さがある。
「んだぁんだぁ!」と言ってお茶を呑んでる。
気持ちが大きいと言うか器が大きいと言うのか
このお得意様には教えていただくことはいっぱいある。

炭火を起すときは冬は種火を上にすると
「寒い寒いといって種火は下に潜っていって火がおこりやすいのだ」そうな、
夕方になって、「又来るからナァ」と力強く帰って行った。
これこそが老人パワァだと思えてならない楽しい力強い1日であった。


巨大地震ー7

2011-03-23 10:06:29 | Weblog
親しい友達でありパッチワークの仲間であるFさんは
一人暮らしで 薪風呂で井戸水もあるらしい。
彼女が私たちを迎えにきてくれた。
「さぁお風呂に入りに来らいんよ!暗くならないうちによ!」
そういえば久しく入っていないので体がどこか臭くなってきたのを我慢していたときだったからとても嬉しく夫と二人ですぐ貰いに行った。

昔のお風呂なので懐かしい匂いを感じる。
「ぬるかったら焚くよ」というと湯船の下から湯がコンコンと湧いてきた。
髪を洗い肩まで沈んだ湯加減に至福のときを感じ、友人のありがたさに感謝した。

やがて待望の電気が通り 水が流れるようになってきた。
我が家でもお風呂を沸かそうと思うが石油風呂で油に限りがある。
今はその石油が入手困難なのだが、少ないお湯を沸かし入ることが出来るようになった。
隣町で同級生宅で炭を焼いていると聞き、いっぱいの炭を買って来た。
当分 炭火を使い湯を沸かしたり、即席炭炬燵を作り暖を取ることができる。

夫は小枝を集めてきてうちわで扇ぎ炭火を起す。
それが結構楽しそうで、幼少時代を懐かしんでいるようだ。

唯 難点なのは突然の地震の襲来で危険なのと、炭火を家に入れると
ガスが発生するのが怖い。
家を留守するときは誰かが一人家に残らないといけない。

「暑さ寒さも彼岸まで」
冷え込むのももう一寸だろうと思うと 又少し希望が湧いてくるのは
私ばかりではないだろう・

巨大地震ー6

2011-03-22 10:14:50 | Weblog
停電が続き 夜が長い。
はやり大きな揺れが何度もあったが、少々の揺れには驚かなくなってきた。
明かりは神棚のお灯明を焚いていたが、30分しか持たない。
手持ちも少なくなってきた。
近くの友人お年寄り(一人暮らし)の家を訪ねたら大きなろうそくが2本準備されていた。
「少し分けて欲しい!」と言い出せなかった。

少し頭を冷やしたら、我が家には大きなランプがあったではないか!
数年前に青森のランプの宿「青荷温泉」に行った時に
夫がこれを買ったのであった。
小さいランプだったら安くっていいのに・・と思ったが夫はこれでなければだめだの一点張り。
その後このランプを使ったのは確か、孫達が遊びに来ていたとき
雷がなって、一度点けた記憶があったが、その後そのままでほこりを被り
ブラブラ茶の間にぶらさげていたのであった。

夫は早速磨きをかけ 夜になるのを待って点けた。

明るい!
なんという優れものだろうか!
燃料はわずかな灯油で済む。
あぁ・・あの時 夫がどうしても欲しいといったとき、文句を言わず我慢したのが
正解だったと今更ながらにんまりした。
これでまたひとつ希望が湧いてきた。

巨大地震ー5

2011-03-21 20:19:21 | Weblog
山間に住んでいる長女の家は殆ど被害が無かった様子でホッとした。
「こんにちわ 大変な地震だったね」と外から声を掛けると
茶の間に孫が一人増えている。ゲームをしていた。
友達が遊びに来ているのかな?と思った。娘が外に出てきて
頭を振るのである。

私に小声で「地震の話ししないでほしい」というのである。
「水貰いにきたのよ」というと少し離れたところに私たちを連れ出した。

「高校生の男の子が2人いるね。」
と言うと、
海沿いに住んでいた「その子の家と親兄弟も津波が飲み込んでしまった」というではないか?学校に残ってたらその子は助かったらしい。
が帰る家も親も行方不明らしい。

なんという残酷なことだろう!

この子はこれからどうしたらいいのだろうか?
胸がいっぱいになってきた。

天災は残酷だ。
まだ善悪もつかない歳だろうに。

我が家に戻ってきても余震がひっきりなしに揺れている。
が私たちは戻る家がある。家族がいる。
その夜も余震で眠れないばかりではなく、
天災を恨み眠れない長い夜だった。


巨大地震ー4

2011-03-21 09:15:37 | Weblog
近くの甥が水をいっぱい運んでくれた。
ありがたい、
しかし限りある水も少なくなってきたので、隣町に住んでる長女の家は
井戸水が出るらしいと聞き、夫と出かけた。
小高い山を越えて太平洋側の集落の前を通ると、何処の家の瓦も粉々に砕けていて、
被害の大きさをまざまざと思い知らされた。
又車を進めると目の前の風景が代わって見えた。
有るべきはずの集落が無く、広く海がぼんやり見えてきた。
国道6号線に出ると、
「日本赤十字車名古屋支部」の車が列を組んで何台も並んでくるのに遭遇した。
道はあっちこっち痛んでいたがどうにか通うれた。
電信柱に大きな木が引っかかっていて、あったはずの家並みが瓦礫の山と汐水が引かず
そのままになっていた。
これでは娘婿が話しているのは本当だと思った。
山手に住んでいる長女に家に行こうとしたが、小道もどこもかしこも瓦礫や
ヘドロで思うように勧めない。
この辺りは海よりもはるか離れているのに、
津波が押し寄せて来たのだろう。
ラジオだけからしか情報が聞けなかったが、これでは東北地方は悲惨な地震だったと思い知らされた。