わたしの好きな言葉に「足るを知る」がある。
語源は分からなかったが、
自らの貧しい心を慰める時、思い起こしていたように思う。
意味は、「足る」=「満足」を知るということである。
「現状でも、十分とせよ」と認識している。
調べてみると、語源は、老子の
「禍は足るを知らざるより大なるは無い」
(最大の災厄は足るを知らぬ心に起因している)
「足るを知るの足るは恒に足る」
(足るを知るとはあるがままの現実に常に満足すること)
「足るを知る者は富む」
(満足することを知る者は、心豊かである)
によるらしい。
また、仏教(禅)の教えにも、「吾唯足知(われ ただ たるを しる)」があるらしい。
京都の竜安寺の石庭には、「吾唯足知」をモチーフにしたつくばい〔手洗鉢〕がある。(写真)
これは、満足しない心を慰める、ほどほどで満足せよという意味かと思えば、そうでもない解釈もあるようだ。
ある人に言わせれば、それは、「感謝できる心」に通じるということだそうだ。
満足すれば、そこから先の進歩に意味を見出しにくくなる。
目標に向かって前進していく過程での、一つ一つの達成に、一歩一歩の前進に感謝すると言うことだ。
勝つということより、自らの力を出し切ることを目標にすることによって、荒川静香選手は、栄冠を勝ち得た。
栄冠は結果であって、必ずしも最終目的ではなかった。
荒川選手のようにうまくはいかないことがほとんどだが、
それでも、その過程を楽しむ心が大切ということかもしれない。
努力に対する成果が常にあるとは限らない。
無い場合も多い。
少しでも成果があるときには、心の余裕が少しでもあり、
「知足」は納得できるが、
成果が無いときにこそ、「知足」は、次の目標に向けての新たな力を生み出す底力になるのかもしれない。
「現実の一つ一つを受入れ、それに満足する心」と「感謝する心」の融合体としての
「知足」を考えたいものである。
また、あいだみつをの書にもある。
「奪いあえば足らぬ 分けあえばあまる」
ニュアンスは少し違うが、心したい言葉である。
語源は分からなかったが、
自らの貧しい心を慰める時、思い起こしていたように思う。
意味は、「足る」=「満足」を知るということである。
「現状でも、十分とせよ」と認識している。
調べてみると、語源は、老子の
「禍は足るを知らざるより大なるは無い」
(最大の災厄は足るを知らぬ心に起因している)
「足るを知るの足るは恒に足る」
(足るを知るとはあるがままの現実に常に満足すること)
「足るを知る者は富む」
(満足することを知る者は、心豊かである)
によるらしい。
また、仏教(禅)の教えにも、「吾唯足知(われ ただ たるを しる)」があるらしい。
京都の竜安寺の石庭には、「吾唯足知」をモチーフにしたつくばい〔手洗鉢〕がある。(写真)
これは、満足しない心を慰める、ほどほどで満足せよという意味かと思えば、そうでもない解釈もあるようだ。
ある人に言わせれば、それは、「感謝できる心」に通じるということだそうだ。
満足すれば、そこから先の進歩に意味を見出しにくくなる。
目標に向かって前進していく過程での、一つ一つの達成に、一歩一歩の前進に感謝すると言うことだ。
勝つということより、自らの力を出し切ることを目標にすることによって、荒川静香選手は、栄冠を勝ち得た。
栄冠は結果であって、必ずしも最終目的ではなかった。
荒川選手のようにうまくはいかないことがほとんどだが、
それでも、その過程を楽しむ心が大切ということかもしれない。
努力に対する成果が常にあるとは限らない。
無い場合も多い。
少しでも成果があるときには、心の余裕が少しでもあり、
「知足」は納得できるが、
成果が無いときにこそ、「知足」は、次の目標に向けての新たな力を生み出す底力になるのかもしれない。
「現実の一つ一つを受入れ、それに満足する心」と「感謝する心」の融合体としての
「知足」を考えたいものである。
また、あいだみつをの書にもある。
「奪いあえば足らぬ 分けあえばあまる」
ニュアンスは少し違うが、心したい言葉である。
「つくばい」は水戸黄門さんの寄進らしいです。
「知足安分」、足を知り分を安んじる。
と言う言葉もあるらしいです。
ありがとうございました。