人間が
仏罰
や
神罰
を
受けることは
ありません。
あるのは
自業自得の法則
による
”自罰”
だけです。
自らの
行いに
よって
苦しみを
受ける
のです。
他のだれをも
責めることは
できません。
でも、
”自罰”
だからこそ、
自分を
変えること
によって
苦しみから
解放される
ことが
可能と
なるのです。
その
可能性は
無限です。
人間が
仏罰
や
神罰
を
受けることは
ありません。
あるのは
自業自得の法則
による
”自罰”
だけです。
自らの
行いに
よって
苦しみを
受ける
のです。
他のだれをも
責めることは
できません。
でも、
”自罰”
だからこそ、
自分を
変えること
によって
苦しみから
解放される
ことが
可能と
なるのです。
その
可能性は
無限です。
眠っている
夜は
”夢”の世界”
で
眠っていない
昼は
”現実”の世界
に
人は住む
と言います。
でも、
眠っても
眠らなくても
見聞きする
世界も人生も
すべて
脳の働き
に
よるものです。
だから
ほんとうは
”現実”と
”夢”の
区別は
つきません。
やはり、
世界の”現実”
も
人生の”現実”
も
かげろう
であり、
まやかし、
なのです。
「覚者」
とは
”現実”
という名の
夢から
覚めた
人を
いうのかも
知れません。
人間
どうせ
最後は
死ぬのだから、
やりたいこと
やって
好きなように
楽しく
生きたほうが
いい、
と
考えたく
なって
しまいます。
死んでしまえば
すべて
終わり
であれば
それも
いいのですが、
死んだら
また
生まれて
しまうのです。
しかも、
生きていた
ときの
心や
口や
体の
行いの
”後遺症”
が
出る
のです。
そのことを
しっかりと
肝に銘じて
いまを
生きなければ
なりません。
どんな人も
最期は
家族も財産も
地位も名誉も
捨てなければ
なりません。
だとしたら、
今から
それらを
「捨てた気分」
で
生きることも
できます。
人間、
執着を
捨てたほうが、
むしろ
家族や財産、
地位や名誉
と
正しく
そして
賢く
向き合える
でしょう。
前世の
カルマが
熟して
今世
人間
として
生まれたり、
動物や鳥、
魚や昆虫
として
生まれて
きたのです。
したがって
今世は
人間
であっても、
来世は
動物や鳥、
魚や昆虫
として
生まれるかも
知れません。
その逆も
あるのです。
だから、
生命あるものの
食欲や性欲に
もとづく
営みは
みんな
同じ
なのです。
人間として
生まれた
”千載一遇”
どころか、
”億載一遇”
”兆載一遇”
の
チャンスを
活かさなければ
なりません。
つぎに
人間として
生まれることが
できるのは
いつになるのか
分からない
のですから。
自分の
好きな人
にも
嫌いな人
にも
未練を
もたない。
好きな過去
にも
嫌いな過去
にも
未練を
もたない。
未練は
あなたの
自由を
奪う
人生最大の執着
の
ひとつ
です。
一つの
扉(とびら)
は
入口
でもあり、
出口
でもあります。
”入口即出口”
です。
人間の
生死も、
生は
死の
入口
で、
死は
生の
出口
です。
”生即死”
で、
生を
喜んで
死を
悲しむ
のは
不合理
です。
炎に
手を
出せば
ヤケド
します。
とげに
手を
かければ
ケガ
します。
あなたの
心に
現われては
消えていく
怒りや
憎しみは
炎やとげ
と
同じで、
「自分のもの」
として
つかんで
放さないと
苦しみや
悩みに
なってしまう
のです。
怒りや憎しみ
が
心に
生じても、
つかむ人
と
つかまない人
では
雲泥の差
です。
世界の
数も
人生の
数も
人の
数だけ
存在
します。
考え方、
見方、
感じ方
が
違えば、
世界も
人生も
違って
くるのです。
あなたが
住んでいる
世界も
あなたが
生きている
人生も
ただ
ひとつ
だけのもの
です。
世界も
人生も
あなたの
創作
なのです。
過去のこと
は
どうにも
できません。
また、
未来のこと
も
どうなるか
わかりません。
大切なのは
現在
です。
人間
何十年生きても、
人生とは
現在という
一こま一こま
の
連続に
過ぎません。
だから、
「今がよければ
すべてよし」
なのです。
現在を
幸せに
生きることが
「幸せな人生」
なのです。