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神奈川県川崎市のセレクトショップAmie(エイミー)の代表が綴る徒然日記です。

Amieの仕事のことや趣味、綿の栽培日記など多岐にわたり投稿しております。Instagram→amie_inc.2016

四十九日

2025-03-09 21:16:00 | 日記
本日は1年ぶりにInstagramに投稿しました。その投稿の文章をこちらにも載せようと思います。Instagram(アカウント:amie_inc.2016)にはストーリーズという機能で動画でも私の心境を語っています。



祖母が他界してから、先月は香川県、そして今月は沖縄県に行きました。少しずつ気持ちの整理をつけながら、会社と共に私も成長できたらと思います。


以下、Instagramと同文

祖母が今年1月に永眠し、本日、四十九日を迎えました。14ヶ月の在宅介護でしたので、突然、介護がなくなってしまったとき、ものすごい寂しさと絶望に襲われました。介護中、祖母の容体が悪くなることが何度もありましたが、その度に這い上がってきてくれる祖母でした。だから「今回もまた」と思っていましたが、祖母の体は限界だったようです。

医療関係者からも、

これ以上、良くなることはない。
夏を越せないかもしれない。
厳しいかもしれない。

とずっと言われていました。それでも、何度も何度も奇跡を見せてくれる祖母でした。桜を見るために福祉車両を借りてドライブを楽しんだり、夏にはノンアルコールビールを飲んだり、私の8月の誕生日にはケーキを食べながらお祝いしてくれたり、祖母の12月の91歳の誕生日も迎えることができたりしました。祖母の得意な手芸も春頃まではしていて、秋頃まではトランプやオセロでも遊んでいました。

在宅介護というのは、病状が悪くなる姿を見つづけること、孤独を感じたり、追い込まれたような気持ちになったりすること、各所と折り合いをつけたりする精神面での大変さ、さらに睡眠不足や24時間体制での介護という体力的な過酷さがありました。祖母自身も重度の間質性肺炎で酸素吸入をしながら、認知症や薬の副作用によるせん妄で攻撃的になり、私に対しても液体の入ったコップを投げたり、噛んだり、爪を立てたり、髪の毛を引っ張ったり、大声で叫んだりして、私の知る祖母ではないと感じるときも多々ありました。でも、特に怖かったのは誤嚥性窒息でした。顔が真っ赤になるので、必死で吐き出させました。色々とあった介護生活でしたが、今は祖母と人生のなかでも一番といっていいほど、濃厚な時間を過ごせて良かったなと思っております。たくさん話して、たくさん笑いました。

一方で、身内の死に直面したあと、追いうちをかけるかのように辛かったのは、2箇所ある川崎市の火葬場が混んでいてしばらくの間、ドライアイスを使った保冷で狭い引き出しのような空間で保存されたことです。途中、葬儀屋さんを通して遺体安置所へ母と会いに行きました。母は、祖母が綺麗な姿のまま安置されていてホッとしたと言っていました。人口過密地帯(川崎市は全国的にも珍しく人口が増えている都市)において、火葬場が不足している問題を肌で感じた一幕でもありました。

身内のことなので、ここで伝えることではないのでは?とも思います。しかし、Instagramに時々、祖母のことをストーリーズであげていて、あたたかなDMもいただいていました。このような経緯があるので、本日は祖母が生きた証をここに記して、ご挨拶に代えさせていただきたいと思います。

ありがとうございました。


*鼻のカニューラが抜けてしまうのと祖母自身が抜けても気がつくことができなかったので、テープで留めざるを得ませんでした。


#おばあちゃん
#祖母
#孫
#香川県
#沖縄県
#神奈川県
#たくさんの思い出をありがとう
#楽しかった
#天国では耳が聞こえて脚があってお友達とお喋りしたり舞ったりコシのある讃岐うどんを食べたりして楽しんでね
#必ずまた会おうね
#在宅介護
#介護
#要介護5
#間質性肺炎
#酸素吸入
#オキシマイザー
#急性下肢動脈閉塞症
#中途失聴
#認知症
#令和7年3月9日 

コメント (6)
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祖母と共に香川県へ。

2025-02-20 21:10:00 | 日記
祖母が亡くなってから1ヶ月が経ちました。とてつもなく長く感じる1ヶ月でした。

祖母が病と闘っている間、ずっとお母さんのところ(故郷の香川県)に「連れて行って」と言っていました。そこで、2泊3日の行程で祖母の遺影と共に母と行ってきました。祖母は、最期の方は、お母さんの名前を呼んだり、「おかあさーん」と言ったりしていました。


高松空港に降り立った一昨日も昨日も雪花が散り、時にみぞれが降り、冷たい風が強く吹いていました。「おばあちゃん、寒いな」と言いながら、西へ西へと進みました。そして、祖母の念願の場所に着いたら、次第に太陽が出てきました。



2018年9月に亡くなった祖父に晩年、「ばあちゃんのことをよろしく頼むぞ」と直々に言われていました。そして、祖母の介護をして、看取って、香川県に祖母と行きました。これで、「祖父と祖母との約束を果たせたかな」と先ほど帰宅して、今は少しホッとしています。香川県でのことや心境は改めて書けたらなと思います。


とりあえず、孫の私から一言🙋‍♀️

天国で、もし再会しとんのなら、
喧嘩せんと仲ようしてな!!!
頼むで。


【写真】
2018年11月 祖父の四十九日で訪れたとき。高松空港にて。


2025年2月20日 高松空港にて。



ありがとう、おじいちゃん、おばあちゃん。
お世話になりました、香川県。
またいつの日にか。

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祖母が自宅に帰ってきました。

2025-02-03 20:10:00 | 日記
祖母は、とてもいいお天気の日に天に昇り、お骨になって自宅に帰ってきました。火葬場での最期の別れ、辛すぎました。あと何回、生きているうえで、この経験をしないとならないのだろうと思うと、なんだか人生が空虚に感じました。
(暗くてごめんなさい)

ところで、小さなことから大きなことまで、母と私は祖母の死後も考え方や過ごし方が違います。摩擦が生じて口論になってもおかしくないくらいです。母も我慢しているでしょうが、私もかなり我慢しています。普段、仲はいいのですが、単純に考え方や行動様式が異なる時があるという。。。

祖母が亡くなった後、一週間も経たないうちにレンタルしていた車椅子や介護ベッド、テーブルの返却をしました。つづけて役所での手続きなどもほぼ終わらせました。

私は祖母の痕跡がなくなってしまうのが寂しくて、もう少し長くレンタル品を置いておきたかったです。一方で、母はすぐに返して骨つぼを置くスペースをつくりたい人でした。

私は祖母のベッドの上でたくさん喋って、オセロやトランプで遊び、手芸もして、毎日ごはんを一緒に食べていたので、思い出がたくさん詰まっていました。そんな私は、祖母がいた証をまだしっかりと噛み締めながら静かに過ごしたい人です。

友達と会う元気もないし、旅に出る気力もない。日常生活においても、悲しみで食が喉を通らない日もあるし、遺影の前で涙が止まらず、音楽を聴きながら浅い眠りにつく日も。介護が終わって楽になったという気持ちはなく、ただただ寂しいです。

一方で、母は動いて気を紛らわせているように見えます。母に自覚はないそうですが、仕事に役所周り(これは私も同行)とものすごく動いています。私は時期尚早と嫌悪感がありますが、トイレの工事も2月に入って早々、予定通り行っています。音も含めて、バタバタと落ち着かない感じがすごく嫌です。
(業者さんや大工さんはいい方たちです)

昨日はお世話になった施設へご挨拶にも行きました。祖母は施設が嫌で、抵抗して、ご迷惑をおかけしました。それでも、今となってはその抵抗する元気さがあったことに懐かしさを覚えました。そして、「この(施設の)駐車場でもなんだかんだと声をあげていたな」と、敷地にいるだけで切なくなりました。

施設には、ちょうど看取りのときに来てくださっていたスキルが高く、最期2日間お世話になった所長さん(看護師)、最初から最後まで嫌な顔ひとつせず常にあたたかく祖母に対応してくださっていた介護士さんがいらっしゃりました。

「(祖母がいなくなって)あみさん、大丈夫ですか?」と声をかけていただいた時は、涙がこぼれました。本当に、本当にお世話になりました。

要介護5でも受け入れてくださったこと、しかも陰気くさくない綺麗な施設、コロナウイルスを理由に外部と遮断して何が中で行われているか分からない施設が多いなか、透明性の高い施設、仕事に対して真摯な方が多い施設、家族と施設の意思疎通がはかりやすかったこと、一人ひとりの要望になるべく沿うように臨機応変に対応してくださる姿勢。母と施設をいくつか見学に行きましたが、「絶対にここがいい!」という理由がたくさんある施設でした。

まだまだ祖母の死を乗り越えられてはいません。特に夜になると辛さが増します。入院してから18ヶ月、自宅に帰ってきてから14ヶ月。祖母とこれまでとは比べものにならないくらいたくさんの濃厚な時間を過ごしてきました。ここから少しの間、私自身の体を休めて、これから生きていく力を溜めようと思います。

さいごに。祖母が晩年の晩年、ずっと「故郷の◯◯に連れて行って」と言っていました。その希望を叶えようと航空券とホテルを予約しました。

遺影とともに香川県に行く予定です。航空券を取る際、きちんとその旨を航空会社にお伝えして了承を得ました。祖母と母と私の親子三世代で香川県の地に久しぶりに行けそうです。そこでも、私は静かに過ごしたいので、あまり人に会わずに香川県の空気を吸ってエネルギーに変えようと思います。

長文にもかかわらず、読んでいただきありがとうございました。寒さ厳しき折、どうか皆さま、お体を大事にお過ごしください。乾燥しているので湿度も大事です。



写真:ストックとデンファレ
お花屋さんで買ったお花。私たちは信仰する宗教はないので、祖母が好きだった紫色のお花や好きなお花を飾っています。
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祖母が旅立ちました。

2025-01-21 16:38:00 | 日記
1月20日、15時30分に医師の確認のもと祖母の死亡が確認されました。年が明けてから、あまり良くない状態でした。特に食事はほとんど摂れなくなっていました。命をつないでいたのは、メイバランスミニのヨーグルト味でした。


それでも、17日の金曜日にはお風呂にも行くことができました。そして、その日はほぼ一日中、私はベッド下に座って祖母と2人で戯れていました。メイバランスも飲みながら、穏やかでとても楽しい時間でした。


18日の土曜日。朝6時ごろから痰の絡まったひどい咳が始まり、背中をさすって痰を吐き出させました。そして、午後は滲出液の処置や口腔ケアを看護師さん2人がやってくださりました。医師の往診もありました。


そして、19日の日曜日。意識はあるものの、頻脈がすごく息もハアハアしていました。リットマンの聴診器で私も聴きましたが、ものすごく心臓が速く鼓動を鳴らしていました。看護師が測った血圧は上が88しかありませんでした。脈は150を超えていました。目の焦点も合わず、ほぼ言葉も発せない状態になりました。辛うじて言ってくれた言葉は「あみちゃん」「おーい」「痛い」でした。


そして、午前2時30分。祖母は目を開けて静かにしていました。心臓の音はいつも通りの速さに戻りました。お昼から替えられていなかったオムツが気になったので、私一人でオムツを替えました。このとき、祖母は自分で柵を持ち、私を手伝ってくれました。そして、とろみをつけたOS1を小さなスプーンで10mlは飲みました。


そして、20日の月曜日。熱が37.9度。同じくとろみをつけたポカリやOS1を自分から口を開けたので、小さなスプーンで飲ませました。顎下をよく観察していましたが、嚥下もできていました。


呼吸が13時ごろから悪くなりました。あまりに苦しそうだったので、年明け早々やめていた医療麻薬入りのテープ(亡くなった後、すぐに返却しています)を再び貼りました。すぐに看護師を呼びました。看護師さんでも血圧は測れないほどでした。頻脈でした。それでも、口の中を綺麗にしている間は、棒を噛んでいたずらをしていました。「あみだよ、わかる?」と聞いたら、「うん」とうなずいてくれました。これは、看護師さんも見ていて、「最後まであみちゃんのことわかっていましたね」と言ってくださりました。


そして、14時58分、私たちに心音が聴こえなくなりました。下顎呼吸が始まってから、本当にすぐに、あっけなく逝ってしまいました。でも、最後の最期、苦しむ時間は短かったようです。私はあまりにもショックで泣きじゃくり、訳がわからなくなりましたが、医師も看護師もおっしゃっていました。


死亡判断は医師のみが行えるので、医師が確認してくださった15時30分に死亡と確定されました。医師が死亡診断書を書いてくださっている間、看護師が祖母の体を綺麗にしてくださりました。


その後、母と私で祖母に着物を着せ、私がエンゼルメイクを施しました。祖母の影響で好きになったメイク。私の大好きなアイテムを使ってメイクをしました。家族は「穏やかな顔で、生きているようだね」と言っていました。祖母が冷たくなってきて硬直が始まってきたものの、亡くなったとは思えず、受け入れられませんでした。21時、葬儀屋さんがお迎えに来て、自宅から離れていきました。安置所で面会ができるそうなので、一度祖母と会おうと思っています。


現在、川崎市の火葬場はとても混んでいるようです。155万人かつ日本の自治体のなかでも珍しく人口が増えている川崎市は、人口に対して火葬場が北部に1箇所、南部に1箇所と少なすぎるように感じます。


20日の夜の時点で、家から近いところの最短日は31日でした。そして離れたところの最短日が26日でした。亡くなったあとも、ドライアイス、冷蔵され、中々天へと行けないこの状況を重く捉え、今後、何かしら声にしようとは思っております。自宅の近くに火葬場ができることを嫌がる方が多いそうです。でも、死に直面し辛いとき、大変なとき、この状況はもっと辛くさせます。


今は私自身、喪失感に襲われ、二度と祖母とお喋りできないんだという寂しさが押し寄せています。約14ヶ月、介護がある生活だったので、突然終わりが来てしまい、ただただ寂しく、虚しく、私の存在価値すらないような気がしています。今は非常に落ち込んでいて、無気力です。


小さな頃から、祖父と祖母が住んでいた場所が私が一番好きなところでした。時に勉強や習い事から解放される、私にとって唯一安心感のある逃げ場でもありました。そして、なによりおばあちゃん大好きっ子だったので、とても寂しいです。


しばらくは私も涙があふれてきてしまう期間がつづくと思います。そのため、静かに過ごしたい気持ちです。でも、時を見て、祖母がずっと連れて行ってと言っていた祖母の故郷である香川県の地に遺影と共に、母と3人で香川県の空気を吸いに行きたいと思います。


おばあちゃんへ

今までたくさん私のお世話をしてくれてありがとう。少し歳の離れた弟が生まれるときや病気になったとき、いつも遠いところにもかかわらず、駆けつけて泊まり込みでお世話をしてくれて、ありがとう。


幼稚園生の頃、くるみ割り人形でネズミ役をやったことをいつも楽しそうに話してくれたよね。その発表会の前に、妹とおばあちゃん家で過ごしていて、母の目がないから、バレエの発表会の前なのに、私だけたくさん食べてぶくぶく太って帰って、すごくびっくりされたよね。そのとき、母に怒られたのはおばあちゃんだったね。私はたくさん食べられて幸せだったよ。


それから、私が受験で第一志望に受からず、絶望的な気持ちで春休みに一人でおばあちゃん家に行ったとき、静かに見守ってくれてありがとう。でも、嫌々ながら通い始めた学校で、心の友といえる友達ができて、今もその関係はつづいているよ。実は、おばあちゃんのこともよく話すんだ。

おばあちゃんと顔に美容パックをしたり、コーヒーを飲んだり、ソフトクリームや焼き芋を食べたり、すごく楽しかった。似た者同士だから、時にぶつかったけれど「それが生き甲斐やった」と言ってくれて、私は救われたよ。

私たちが遊びに行く夏休みや冬休み、春休み、いつもたくさんの作物を育てて待っていてくれてありがとう。それから、ダンボールいっぱいに送ってくれてありがとう。イチゴ狩り、スイカの食べ放題、芋掘り。何でもやりたい放題。食べ放題。あれが贅沢なことだと知ったのは大人になってからだったわ。作物はすぐに育つものだと思っていたけれど、自分でやって初めて、土づくりから難しいものだと知ったよ。


天国では、聴覚と脚があって、好きなところに行って、好きなだけ食べて、楽しく舞ってね。そして、私もそちらに行く日が必ず来るので、そのときは、迎えてね。一緒にカフェオレを飲んで、トランプとオセロをして、旅行にも行こうね。スキンケアとメイクは任せて。あとは何よりたくさん話そう。

月命日には必ずおばあちゃんの好きなものを供えて話しかけるので、夢にでもいいから出てきてくれると嬉しいな。

おばあちゃん、たくさんの愛情をありがとう。必ずまた会いましょう。

あみより



旅行先では、いつも祖母と同じ部屋でわちゃわちゃと楽しみました。

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あけましておめでとうございます。

2025-01-03 12:00:00 | 日記
あけましておめでとうございます。2025年ですね。昨日は新年早々、祖母が施設で入浴のお世話になりました。デイサービスの利用はやめたので(理由は2つ前の投稿)、入浴後はすぐに帰宅し、そのタイミングで家族写真を撮りました。


昨日は薬が効いていたこともあり、カメラの方を向くことが難しかったので、母が少し祖母の顔に手を添え、目線はカメラを向いていないものの無事に撮ることができました。




去年の今頃、祖母が2025年を迎えられるとは思ってもみませんでした。想像することすらできませんでした。私が代表を務める株式会社Amie(エイミー)としては、身内が亡くなっても年賀状含め新年のご挨拶はしています。しかし、プライベートのほうでは、2024年は喪中を出すものだと思い込んでいました。


祖母の生命力、生命の神秘、そして奇跡って本当にあるものなのですね。写真を撮り終えたあと、祖母がまだ生きていること、海外組も含めて家族が集まれたこと、当たり前のようで当たり前ではないことを身に染みて感じていたら、ボロボロと涙があふれてきました。そのシチュエーションが母と弟と私の3人で餃子を包んでいるときに、私だけ一人。


2023年の12月から始まった介護を通して、自分の人生観を見つめたり、感じたり、考えたりと色々と変化しました。そのなかで、私は過去でもなく、未来でもなく、「現在」にフォーカスするようになりました。


それは、変えられない過去にとらわれることなくのびのびと、どのようになるか分からない将来に過度な不安と絶望を抱いて打ちのめされないように。そして、今ある幸せをしっかりと噛み締めて、目の前のことに誠実に取り組む。とてもシンプルな思考になりました。


要介護5であり、認知症も発症した祖母の在宅介護は、はっきりと言って身体面も精神面もとても大変です。特に暴れ狂ったり、衰弱していったりする人間をみつづける精神面。

でも、祖母の下肢切断に至った突然の急性下肢動脈閉塞症、認知症、重度の間質性肺炎などの病、看取りまでやると決めて臨んでいる在宅介護を通して、学ぶことは多いです。それはいい方向に捉えられているものと、まだ消化しきれていないネガティブなものとあります。


しかし、「いつ・どこで・どのようになるか」は、誰も分かりません。自分の体のことすら、どうなるかわからない。だから、とにかく「今」を大切に、楽しく、私の場合は楽観的(課題)に生きていけたらなと思います。
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