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Never a dull moment

煌きのあの風景の向こうに…

The Voice

2012年02月20日 | person
かつてのヤンキースタジアム(161st&River Ave)は1923年にオープンしたニューヨークヤンキースのホームグラウンド。アメリカのベースボール史上にその名を残すBabe.Ruthとベースボールへの人々の熱狂が、ほぼ同時に絶頂を迎えた頃建設されたこの球場は別名「The House Ruth Built」のとおり、「ルースが建てた家」として彼が亡き後もファンたちに親しまれた旧スタジアムの後、新たなスタジアムとして建てられたのが現在のスタジアムです。ヤンキースを率いた伝説的オーナーであったGeorge Michael.Steinbrenner III(1930-2010)がその建設に大いに関わり、「The House Steinbrenner Built」と呼ばれています。
 ニューヨークの人々にも絶大な人気を誇るニューヨークヤンキース、ホームグラウンドで勝利を収めたその日、試合後に会場に流れるのが「New York,New York」。軽快なリズムを味わいのある、それでいて心地よい気分にさせてくれる'The Voice'で、勝利の喜びをより深くさせてくれるのがFrank.Sinatraです。
 フランク・シナトラは1915年、ニューヨーク州のお隣ニュージャージー州ホーボーケンのイタリア系アメリカ人の家庭に生まれました。本名をFrancis.Albert.Sinatraといい、1935年にバンドメンバーの一員となり歌手活動を始め、やがてそのルックスと魅力的な声が若い女性たちの心を掴み絶大な人気を博して行きました。第2次大戦中は兵役検査を通過することが出来なかったため、慰問部隊の一員として善戦の兵士の慰問やラジオに出演したりしていたといいます。戦争が終わり、エンタテイメントの世界にカムバックしたシナトラでしたがなかなか人気は回復せず、最早これまでかと思われた時、出演した「地上より永遠に」(1953)でアカデミー助演男優賞を受賞し奇跡的な復活を見事に果たします。その後は、エンターテイメント界に君臨する大スターとして歌、映画など幅広く長きにわたって活躍しました。
 一方でマフィアとの関わりは常に囁かれ続け、映画「ゴッドファーザー」に登場するマフィアのモデルとなったというのは定説となっています。4度の結婚と3度の離婚を繰り返した華やかな女性遍歴でも有名で、その私生活も常にゴシップ記事に話題を提供し続けました。
やがて帝王にも人生の黄昏のときが訪れます。1990年を過ぎる頃、序々に健康状態に不安を抱えるようになり事実上の引退を余儀なくされます。1998年5月14日、長らくの病の後、シナトラは心臓病のためこの世を去りました。清濁を併せ持ち、光陰の両極を生き、それゆえに愛された20世紀を駆け抜けた稀代のエンタテイナーフランク・シナトラ。
 彼は今、故郷ホーボーケンの地で安らかな眠りについています。
「お楽しみはこれからだ」彼らしいそんな言葉の刻まれた墓碑の下で。

Era

2012年02月19日 | person
5番街東68丁目1番地にそびえたウィリアム・ホイットニー邸は新しい妻を迎えるにあたり4年がかりの改装計画が立てられました。
しかし運命は残酷な末路に向かって進んでいきます。その僅か2年後、イーディスはサウスカロライナ州の夫が所有する別荘で落馬事故に遭い、脊椎損傷という瀕死の重傷を負います。昏睡状態を脱したものの、両手は麻痺したままでした。ニューヨークに戻って治療が続けられ緩やかな回復は見られたものの1899年5月、イディスはこの世を去ります。41歳の生涯でした。彼女の死に衝撃を受けたウィリアムはそこから立ち直ることが出来ないまま、1904年にこの世を去りました。その死をもってしてもオリバーとの関係は修復されることは生涯なかったといいます。
オリバーは1917年、この世を去ります。その莫大な遺産の殆どは甥のペイン・ホイットニーに引き継がれました。
 ウィリアムとフローラ夫妻の間に生まれた子供たちはそれぞれ伴侶を得て、新たな世代の担い手として父や叔父の記した足跡を追うように歩みます。
 長男ハリー・ペイン・ホイットニー(1872.4.29-1930.10.26)はグロトン校からエール大学、そしてコロンビア大学ロースクールに進み、その後、父のあとを継ぎ事業を担いました。またスポーツマンとしても有名でポロの名手として知られました。また父に倣い馬主としてサラブレッド馬の調教でも名を知られるようになります。1896年、鉄道王コーネリアス・ヴァンダーヴィルトの曾孫にあたるガートルード・ヴァンダーヴィルトと結婚し、1男2女に恵まれます。ガートルードは女流彫刻家、新興芸術家のパトロンとしても知られ、マジソン街に立つホイットニー美術館は彼女が創設したものです。
 次男ウィリアムはペイン・ホイットニーと名乗り、続く人生を送ります。彼は1902年、Helen.Hayと結婚します。ヘレンはオリバーの故郷オハイオ州クリーブランド出身で、リンカーン大統領の補佐官を務め、マッキンリー大統領下で英国大使に任命されたジョン・ジェイの娘でした。このとき、叔父であるオリバーが結婚祝いとして贈ったのが5番街972番地の白亜の邸宅でした。夫妻は1男1女に恵まれ長男は後に祖父と同じく英国大使に任命されることになります。
 長女ポウリ-ンは爵位を持つ英国貴族に嫁いでいます。しかし残念ながらもともと心身ともに脆かった彼女は一族の中では目立った記録が伝えられていません。
 次女ドロシーはWillard.Straightと結婚、今も5番街1130番地に残るジョージアン様式の建物は夫妻が暮らした邸宅跡です。夫ウィラード・ストレイトはその努力で立身をはたしコーネル大学を卒業後、中国貿易などで富を築き、ジャーナリズム分野に大きな足跡を残しています。従軍中にウィルス性流感にかかり帰らぬ人となります。ドロシーは夫の死後、亡き夫が遺した貴重な品々を母校コーネル大学に寄贈しています。
 華麗なる一族は新たな華麗なる一族を生み、またその一族が新たな一族を生み出す。ニューヨークが飛躍的な発展を続けその頂点に達した時代のその瞬間、まさに輝きの中に紡がれたある一族の物語は時を経て次なる世代に新たなストーリーを生みます。これはまた次の機会に…。

*Residence of William.C.Whitney(NE)...870.Fifth
*Residence of Mr&Mrs Willard.Straight...1130.fifth
*Woodlawn Cemetary...Gravesite of the Whitneys

Payne? Whitney?

2012年02月19日 | person
まさに「選ばれし者」が結ばれ、築いたまさに非のうちどころのない家庭。長男ハリーを筆頭に5人の子供に恵まれ(三男は早世)、人も羨まんばかりの輝きの裏側では深く暗い闇が広がりつつありました。

1894年、フローラが52歳の若さでこの世を去ります。溺愛していた妹の死にオリバーは深い哀しみに沈みました。そんなとき、妻に先立たれた夫ウィリアムの女性関係にまつわる噂がオリバーの耳に届きます。

 ウィリアムの相手はEdith.May.Randolph、36歳になる未亡人でした。2人の関係はフローラの存命中の1890年頃から始まっていたといいます。イーディスはワシントンの外科医の父メイ博士と母サラの間に生まれました。母方はニューヨーク社交界でも知られた名家で、イディスの幼い頃に一家はニューヨークに移りました。1878年、20歳で英国人の軍人と結婚しますが、結婚生活が10年を迎える頃、夫はイーディスと幼い子供を残してこの世を去りました。
 彼女は若く美しく器量も良かったようで、社交界からの誘いは続きました。イーディス・ウォートンが描いた当時の上流社会において、"Mrs"を名乗る未亡人は愛人として格好の存在でした。「情事は情事。家庭は家庭。」そんな風潮は暗黙の了解として漠然と通用していたのです。中でも彼女に熱をあげたのがJ.P.Morgan、しかしながらこの関係は表沙汰となるに至り、モルガン夫人が関係の清算を夫に求めたことから終わりを告げたといわれています。。
 オリバーはこのイーディスと義弟の情事について、それがフローラの生前からのものであること、そしてフローラ自身がその事実を知り深く傷ついていたこと、そして夫婦関係が既に破綻し、失意の中で妹がこの世を去っていったことを知っていました。再三にわたってイーディスとの関係の清算を促したもののウィリアムは頑として受け入れず、1896年にイーディスとの再婚を発表するに至りました。
 
 これにオリバーは激怒し、ウィリアムとの絶縁を通告、遺された甥姪に対して「父親につくのか、自分につくのか。」の選択を迫ります。それはやがて受け継がれるであろう自らの莫大な遺産相続権の行方にも関わるものでした。結局、長男ハリーと末娘ドロシーが父ウィリアムに、そして次女ポーリーンと次男ウィリアムは叔父オリバーにつくことになりました。次男ウィリアムはこれに際して自らの名からウィリアムを外しペイン・ホイットニーと名乗ることになります。
 このような経緯でホイットニー家は二つに分かれたものの、兄弟姉妹の関係は良好で、また父と子供たち、叔父と甥姪たちの関係も同様だったといいます。

*Residence of Mr&Mrs Payne.Whitney...972.Fifth ave

Family Tree

2012年02月18日 | person
私人としてのオリバーを語るとき、エール大学時代に遡るある出会いについて語る必要があります。それがWilliam.Collins.Whitney(1841.7.5-1904.2.2)との出会いでした。
ウィリアムはマサチューセッツ州コンウェイに誕生しました。ホイットニー家はその先祖はペイン家と同様にメイフラワー号時代に遡る旧家で、プリマスに入植したピルグリムファーザーズを率いて指導的立場にあったWilliam-Bradfordの名はウィリアムの、そしてオリバーの父方の血筋の源にありました。両者は、その祖先を辿りに辿ると結びつく「同じ幹から分かれた枝」でした。
 ウィリアムは貧しさとは縁遠いものの特別に裕福とはいえない慎ましい旧家で育ち、ウィリストンスクールからエール大学に進学、その後ハーバード大学ロースクールで法律を修めました。周囲のウィリアム評は「寛大で思いやりに溢れた愛すべき人物」、そして「彼の力を最大限に発揮出来るのは、誰より何より政治家だろう」というものでした。従軍していたため2年の年の差はあれど、オリバーとウィリアムは友情を深め、それはエール大学卒業後も続きました。
 そして1868年、2人の友情が一つの縁が生み出すことになります。エール大学時代に築いた友情は強い絆を保ったまま月日は流れました。大学を卒業後、ハーバード大学ロースクールに進み弁護士資格を得たウィリアムはニューヨークで弁護士事務所に勤める傍らで自らビジネスを展開し成功を収めます。一方のオリバーは故郷クリーブランドに戻り、家業であるPayne&Coで働き始めます。その頭角をあらわすのにさほどの時間はかからず、やがて家業の枠をはるかにこえたフィールドで成功を収めることになりました。
オリバーには上に1人の兄、そして下に4人の妹弟がいました。彼は特に家族愛を重んじる人物でしたが、中でも溺愛したのがすぐ下の妹、フローラでした。オリバーは1868年、親友ウィリアムに妹を紹介します。フローラは兄オリバーに似て才気闊達な性格で、意気投合した2人はほどなくして結婚します。オリバーは2人の結婚を祝ってパーク街にあるタウンハウス(74.Park ave)を、その2年後には5番街西57丁目の邸宅を贈っています。当時、ウィリアム自身、充分すぎるほどの社会的成功を収めていましたが、オリバーのそれは最早比較とならない次元に達していました。
ホイットニー夫妻は夫妻3男2女に恵まれ、生涯独身を通したオリバーにとって2人の築いた家庭は彼にとっても自分の家族も同然でした。ウィリアムはその後、政界にも進出し、1885年、クリーブランド大統領の下で海軍長官に任命されました。夫妻は子供たちと共にワシントンに移り、彼らの邸宅には絶えず人が集まる賑やかで華やかなサロンの様相を呈していたようです。

*74.Park ave...Mr&Mrs W.C.Whitney lived there

Payne

2012年02月18日 | person
 ニューヨークを訪れると必ず向かうのがメトロポリタン美術館。エントランスから奥に続く階段の脇にはこの巨大な美の殿堂を生み出すに尽力した人々の名が刻まれています。
その中に1人の名に偶然に視線が止まりました。
''Oliver.Hazard.Payne''
...耳にしたことも目にしたこともなかったこの人物の名に何故か興味を覚え彼をたどってみると、そこから広がりに広がるつながりが見えてきたのです。

 オリバー・ハザード・ペインは1839年7月21日にオハイオ州クリーブランドに生をうけました。ペイン家はもともとピルグリムファーザーズに遡る家系を持つ名家の名家で、母メアリも名家ペリー家の出身でした。ペリー家は日本の鎖国を解いたあのマシュー・ペリー提督らを輩出した一族としても知られています。
その血筋をひいたオリバーはオハイオ州クリーブランドの豪邸で育ち、フィリップス・アカデミーを経てエール大学に進学、在学中には南北戦争に従軍も経験しました。大学卒業後、クリーヴランドに戻り石油事業を営む家業の見習いを始めました。

"オハイオ、クリーヴランド、石油"...この3つの文字の先にあったのが、かのRockefeller。オリバーはロックフェラーとクリーブランドで過ごした少年時代、席を並べて学んだ仲でもありました。
ビジネスの才覚に恵まれたオリバーは機を見るに敏で、事業権をロックフェラーに売却したことで誕生したのがジョン・デイヴィッドソン・ロックフェラーによるStandard Oil社でした。このスタンダードオイル社の設立はオリバーの生涯における大きな転換の瞬間でもありました。
スタンダードオイル社の大株主となり、潤沢な資産を背景に次々と新たな事業先、投資先を開拓するオリバー。タバコ産業、石炭や鉄、そして鉄道、まさにアメリカが発展と繁栄の頂点に向かおうとするそんな時代をオリバーは生きたのです。

 名家の御曹司ながら、その受け継いだ財産の己の才覚をもって彼は「財が財を生み出す」構図を築き上げました。そしてその生み出された財は慈善活動にも惜しみなく拠出されました。学校、大学、図書館など教育機関への寄附、そして特に医療事業への寄附は抜きん出ていました。それはオリバーが従軍時代に大怪我を負ったときの経験からだったといわれています。特にコーネル大学メディカルスクール創設に大きく尽力したことは特筆すべきフィランソロピーでした。
 公人としてのオリバーはその卓越した見識と才覚で巨万の冨を築き、あり余る財はアメリカの未来を担うべくその先々で新たな形での財を生み出していきました。

 では私人としてのオリバー・ハザード・ペインとは一体いかなる人物だったのでしょうか。

*Metropolitan Museum of Art...1000.Fifth ave