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Never a dull moment

煌きのあの風景の向こうに…

The angel of the waters

2014年08月04日 | 60th st-

豊かな水が舞い、太陽の光を浴びた無数の滴りが放つ宝石のような輝きは、まさに天の恵み。
その恵みのさまを穏やかにとりなすのがThe angel of the waters。
百合を手にした天使が示すのは健康、純潔、節度、そして平和。
Emma.Stebbinsによってデザインされたこの像がセントラルパークに降り立ったのは1873年のことでした。
そしてこの作品はニューヨークにおいて、公的委託を受けて世に出た最初の女性芸術家による作品でもありました。

Emma.Stebbins(1815.9.1-1882.10.25)、彼女はニューヨークで生まれ、ニューヨークで育ったいわば生粋のNew Yorker。
裕福な家庭環境に生まれ、早くから芸術を志していた彼女は、のちのニューヨーク証券取引所会頭を務めるなどしたHenry.G.Stebbinsら家族からの暖かい支援を受け、やがて渡欧し本格的な芸術活動を始動させることになります。
イタリアの地でEmmaは女優Charlotte.Saunders.Cushmanとの出会いを得て、フェミニズム、そして伝統や慣習にとらわれない’ボヘミアン’的ライフスタイルから大きな影響を受けていきました。時は未だ19世紀後半、Emmaが目指したライフスタイルは時代の何歩も先を行くものであったといえるでしょう。
やがてニューヨークに戻ったEmmaが思いをこめて世に送り出したのがBethesda Fountainの天使でした。

進歩的発想を携えて故郷に戻ったEmmaが、本来彼女が属していた階級から受け容れられることは決して容易ではなかったでしょう。
旧き慣習の支配が未だ続いていた時代、Emmaがこの銅像の製作に関わった背景には、兄Henryの存在があったといいます。
すでにニューヨークの名士となっていたHenryはセントラルパーク建設に深く関わるなかでEmmaの作品が世に残るよう導きます。
彼は生涯にわたって、愛する妹の才能を評価し、そして心からの賞賛を送り続けました。

1876年、EmmaはパートナーCharlotteの死をうけ、その喪失感から創作活動から遠ざかります。
1881年には、常に寄り添うように無償の愛情を注いでくれた兄Henryがこの世を去ります。
それからほどなくの1882年10月、彼女はニューヨークに美しい天使を遺し、自由溢れる天に昇っていきました。

天使がたたえる美しく控えめな笑みの向こうに、自ら愛し、そして愛されたEmmaが与え、そして享けた無償の愛が含められているような…見事に晴れ渡ったマンハッタンの空の下で、天使を見つめながらそんなことを感じます。

Bethesda Fountain…Central Park@E72nd st

PARK in the city of EMPIRE

2014年08月03日 | 60th st-
ニューヨークを訪れてこの場所に立ち寄らないことはまずありません。
喧噪の街マンハッタンのオアシスといっても過言ではないでしょう。

セントラルパークと名付けられたニューヨークの自慢の宝。
ある日の朝はマフィンとコーヒーをお伴にCentral Park Westの優美なアパートメントを眺めながら朝食を。
ある日の昼下がりは美術館めぐりで興奮した心をシープメドウの緑で休めに。
ある夕暮れには貯水池越しに広がる空の紅から蒼に色を変えるさまを愉しみに。

ある年の春には芽吹く緑の香りと咲き誇る花の競演を。
ある年の夏には子供たちがおもちゃのボートを湖に浮かべレースに興じる緩やかなさまを。
ある年の秋にはオレンジ、黄、赤色に彩りを変えて迎えてくれる木々の間を通り抜けに。
ある年の冬にはグレーに包まれた空気を跳ね返すような歓声の溢れる真白のスケートリンクを。

東はFifth ave、西はCentral Park West、南はCentral Park South(W59th st)、北はCentral Park North(W110th st)。
大都会にあって広大な敷地を誇るこの公園の建設が計画されたのは19世紀半ばに遡ります。
新興国アメリカが瞬く間に国力を増大させ、世界の富を支配するまでに遠くないまでに達していた頃のことでした。
Frederick.Law.OlmstedとCalvert.Vaux、二つの類稀なる才能の結晶が形となった美しき'小さな'新世界。
その歴史と、守り主と住人のお話は次にツヅク…。

Le Cirque

2014年07月22日 | 60th st-
ニューヨークの街を歩き訪ねていると、ある瞬間、流れる空気が確実に変わったことを感じることがあります。その一つがアッパーイーストの中心を貫くPark avenueです。
整然としたアベニューの美しさ、完璧に手が尽くされた景観にはこのブロックに住まう人々の背景が容易に想像出来ます。
(ふと振り返ったとき、直線上に浮かぶようにそそり立つMet Life Buildingの威容は圧巻です。)

連なる高層アパートメントは、その殆どが戦前に建てられ、また点在するタウンハウスはかつての富豪たちの住処、現在はその流れを継いだ財団や、また大使館、領事館などによって利用されています。
アパートメントの多くがCo-opといわれる管理の厳しい運営形態を採用しているなかで、珍しくCondo形式を採るのが東65丁目にある610.Parkです。壁にはMayfair Houseの文字が見えます。
ここは1925年11月、Mayfair Hotelとして建てられ、その設計は当時の人気建築家の一人であったJ.E.R.Carpenterによって施されました。やがてホテルはコンドミニアム形式のレジデンスとに分割して経営されて今に至ります。

ここにニューヨークの伝説的レストラン’Le Cirque’がありました。その主はシリオ・マッチオーニ、トスカーナ出身のシェフでした。パリのプラザアテネなどで修業したシリオがこの地にレストランを開店したのが1974年。評判を呼び、瞬く間に名声を獲得したこの店が迎えたゲストには、ニクソン、レーガン、J.ケネディ夫人やキッシンジャーや、そしてローマ教皇の名前も…。店は天才シェフの呼び名も高いダニエル・ブール―らによってますます名声を獲得していきます。
Le Cirqueはその後、1997年に場所をニューヨークパレスホテルに移します。そのあとに新たにその場を継いだのが、ダニエル・ブール―でした。既に独立していたダニエルが凱旋して開いたのが’Daniel’、現在も人気のレストランです。
サーカスを意味するLe Cirqueを自らの夢の結晶に名づけたシリオ。三人の息子たちに経営を託した今も意気軒昂に挑戦を続けています。
彼は近年製作されたドキュメンタリーでLe Cirqueをこう題しています。
’A Table in Heaven’


*Mayfair House...610.Park ave@E65th st

Gift

2013年02月18日 | 60th st-
5番街を北に向かい、東62丁目の角を曲がると立ち並ぶ美しいタウンハウスの列の中にボザール様式をの一際壮麗な姿を今に伝える建物があります。この建物は母が娘に贈った結婚祝い。桁外れのギフトの贈り主はMargaret.Vanderbilt.Shepard(1845-1924)。
鉄道王Vanderbilt家に生まれたマーガレットは、結婚後も父William.Henry.Vanderbiltが自分の邸と連なって建てたトリプルパレスで暮らしていました。慈善活動にも熱心で、YWCAの活動に多大な寄付を行うなどしています。
マーガレットはイディスの結婚祝いに贈る邸宅の建築に、婚家とも縁続きのHaydel & Shepard建築事務所に設計を依頼しました。マーガレットの娘Edith.V.Shepard(1872-1954)が嫁いだ相手はErnest.Fabbri。イタリアの由緒ある家柄の出身で、モルガンらとビジネスパートナーを組むなどした銀行家でした。2年の月日をかけて建てられたこのタウンハウスは夫妻によって1916年まで所有されましたが、ファブリ夫妻は渡欧し主にパリで生活していたため、この邸宅で実際に暮らすことは少なかったようです。帰国後、新たな邸宅の建築が決まり、Charles.Steele(1856-1939)に売却されてファブリ一家は東95丁目の屋敷へと移っていきました。
チャールズもまたモルガンとビジネスパートナーであり、弁護士事務所を持つ上流階級に属する人物でした。
時を経て、邸宅の持ち主が幾代かにわたった頃、日本政府が国連大使公邸に購入したというニュースが伝わりました。その購入費用は3000万ドルを超え、当時のレートで36億円に達しました。

*Sidney Hillman Health Center…14.E16th
*998.Fifth…Margaret died there
*11.E62nd st…Fabbri mansion

Barbizon

2012年02月28日 | 60th st-
“自由と平等の国アメリカ”、私たちが目にする、また接するアメリカ社会の女性像は、現在もなお日本社会におけるそれの遙か先を行き、男女平等の理念を基として社会で活躍する姿を見ることが出来ます。しかし実際のところ、自由と平等が完全であることは大抵の場合において困難であることも事実で、男女平等という理念は継続的に存在してきたものでも、また保障されていたものでもありませんでした。
 かつてアッパーイーストにその宿泊を女性に限定したホテルがありました。男性が立ち入ることを許されるのはロビー階のみ。それがBarbizon Hotel(140E,63rd at Lexington ave)。306室を擁したこのホテルは、イタリアンルネサンス様式を主にした中にゴシック、イスラム様式の影響を受けた美しい建物でNYの歴史的建造物の指定も受けています。
 開業は1927年。このホテルは大都市ニューヨークに降り立った女性たちが利用した滞在施設でした。その利用には複数の身元保証人が求められ、男子禁制、服装や行動にも厳しい制限が設けられ、エレベーターの前には寮母さながらの監視人がいたといいます。ようやく男性の宿泊が認められたのは1981年のことであったといいます。
 変革と進取の地ニューヨークに、旧時代の遺物が頑なに存在していたことに驚きすら感じます。その開業の頃、時は1920年代。時代の変遷と共に女性の権利拡張にようやく光があてられようとしていました。極端に制限され、また限定された選択肢の中で生きてきた女性たちが従来の枠を飛び越え、「開拓の時」に達しようとしていました。
 女性たちは自立に目覚め、古くから自分たちを支配していた旧い価値観に疑問を持ち始めます。やがて自ら”職”を得て社会の一構成員として認められることを望んだ多くの女性たちが、その機会を求めて大都市に舞い降りたのもこの頃のことでした。とはいえ、何世紀にもわたり受け継がれてきた観念は一瞬にして激変するものでもなく、それは幾多の人々の、幾多の労苦と弛まない闘いが重なり続けた結果、社会に変革を働きかけ小さな歩みが確実に重なり今に至るのです。そしてそれは今なお続き、まだ見ぬ未来にまで続いていく、いや続けていかなければならない壮大な作業でもあります。
 20世紀、女性にとって劇的な変化の訪れたその世紀の証人でもあったバルビゾンホテルはMelrose Hotelと名を変えホテルとしての営業を続けます。しかしその日はやはり訪れました。幾つかのマンハッタンの歴史あるホテルがたどった道と同じく、ホテルとしての営業を終え、コンドミニアムとしての再開発が発表されました。2005年夏、その稀有な歴史の証人はその目をゆっくりと閉じました。

*Former Barbizon Hotel(140E,63rd at Lexington ave)