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Never a dull moment

煌きのあの風景の向こうに…

Players

2014年02月07日 | person
グラマシーにあるもう一つの重きをなすプライベートクラブがThe Players。
その名のとおり、役者ら演劇関係者が集い交流を深めるために創立され、その歴史は1888年にさかのぼります。シェークスピア劇で名をなしたEdwin.Booth(1833.11.13-1893.6.7)らが、英国のGarrick Clubをお手本にニューヨークの地に新たなクラブをとメンバーを募り、現在に至ります。創立時のメンバーには文豪Mark.Twainらが名を連ねました。
エドウィン・ブースは1833年、メリーランド州の役者一家に生まれ、早くからその才能を発揮します。特にシェークスピア作品での評価は高く、人気俳優として名声を手にしました。1888年、グラマシーにあったValentine.G.Hallの旧邸を買い取ったエドウィンは、かねてから着想を得ていたプライベートクラブの創立に乗り出します。グリークリヴァイバル様式の瀟洒なタウンハウスの上階を自邸とし、階下をクラブのために提供しました。内装をデザインしたのは当代の人気建築家であったStanford.Whiteでした。エドウィンはこの邸宅でその生涯を終えています。エドウィンが生き、愛したグラマシーを見守るようにしてグラマシーパークの中央には彼の銅像が建てられています。

クラブには、Thomas.NashやLawrence.Olivierをはじめ、あのWinston.Churchillらも集いました。長く女性の入会を認めていなかったこのクラブが女性にその扉を開いたのか1989年のことでした。

そして、時によろめくように明かりをたたえ、エントランスの両脇に灯るガス灯は往時のままです。

*The Players…16.Gramercy Park South@E20th st

The last Mrs.Astor

2013年02月13日 | person
ヘレンとの離婚のきっかけはMary.Benedict.Cushing(1906.1.27-1978.11.6)との交際でした。メアリ(愛称ミニー)はボルティモア出身の脳外科医Dr. Harvey.Cushingを父に持ち、クッシングシスターズとして有名な姉妹の長女でした。若く快活で芸術家肌のミニーの虜になったヴィンセントはヘレンに離婚を申し出ます。ヘレンとの結婚が属する社会において「相応」の結婚としたら、ミニーとの結婚はヴィンセントにとって相性が「相応」の結婚といえたのでしょう。ヴィンセントの主宰するクルージングやアウトドアスポーツにもミニーは連れ立って現れ、華やかな話題を提供しました。
しかしこの結婚生活にも終わりのときが訪れます。別れを切り出すミニーに対し、ヴィンセントが出した「離婚に応じる条件」、それは「新たなMrs.Astorを連れてくること。」でした。ミニーはこの条件に沿って、Janet.Newbold.Ryan.Stewart.Bushをヴィンセントに紹介しました。ジャネットはワシントン社交界の花形で、James S. Bushと離婚を発表したばかりでした。しかしジャネットは反応は冷たく、"I don't even like you."と拒絶しました。ヴィンセントはなおもジャネットに語り続け、自分の健康状態は思わしくなく、余命はさほど長くないであろうこと、自分の死後には新たなMrs.Astorが巨額の遺産を引き継ぐことになるであろうと説得しましたが、ジャネットは向けた背を元に戻すことはなく、こう切り返したといいます。
"What if you do live?"
ミニーのMrs.Astor探しは振出しに戻ることになりました。次いでミニーがヴィンセントに紹介したのが、Brooke.Russell.Marshallでした。ブルックは離婚を一度経験し、再婚した夫と死別していました。1953年10月8日にヴィンセントはブルックと3度目の結婚をします。既に自らの命の期限を区切っていたヴィンセントにとって、この三度目の結婚相手は自分の死後、いかにしてその遺産を効果的に効良く社会事業のために分配していけるか、その至難の業を最後のアスター夫人としてこなしていけるか、そのことに重きを置いたいわばビジネスパートナーとしての相性が「相応」の結婚だったといえるでしょう。
ようやく離婚を勝ち得たミニーは、離婚成立後、日を置かずにJames.Whitney.Fosburghと再婚します。1959年2月、ヴィンセントは心臓発作のため、マンハッタンの自宅でその生涯を閉じました。67歳でした。ヴィンセントの死後、彼が遺した莫大な遺産を相続したブルックは、社交界の女王として君臨する一方で、夫の遺志を継いで慈善活動に長く熱心に取り組みました。

あたりまえに手に入れることの出来ない巨万の富の中に生まれながら、当然に与えられるはずの無償の愛情に恵まれることなく、アスター家当主として自らに課された家名の護持と、ただ一人のヴィンセント・アスター個人としての埋められることのない心の隙間との間を揺れ続けた想像を絶する孤高の人生を生きた彼の、その憂いと影をたたえた視線の先に追い求め続けたものは果たして何だったのでしょうか。


*120.East End…at E85th st,Vincent lived there
*778.Park ave…at E73rd st,Brooke Astor lived there after death of Vincent.
*St.James Episcopal Chuch...865.Madison ave
*32.E64th st…Minnie.Astor.Forsburch lived


After Titanic

2013年02月06日 | person
1912年4月、タイタニック号沈没事故による父アスター4世の突然の死により、アスター家当主となったヴィンセント。既に離婚し父には新しい妻があり、そして母は離婚の際に親権を得た妹と共に既にイギリスに渡って後、爵位を持つ貴族夫人となっていました。事故後、アスター4世の遺体が発見され、ハリファクスにある遺体安置所でその確認を行ったのはヴィンセントでした。ライフジャケット、そして幾らかの現金と金の懐中時計が父の最期まで共にありました。ヴィンセントはこの金の懐中時計を生涯離さずにいたといいます。
その後、ヴィンセントは父の葬儀の一切を取り仕切り、その亡骸を一族の墓所に葬って弔いを済ませました。生還していたマデレイン夫人が男子を出産したのはそれから数か月後のことでした。マデレインはその子にJohn.Jacob.AstorⅥ(1912.8.14-1992.6.26)と名付けました。自分よりも年若いアスター4世夫人に対するヴィンセントの嫌悪は激しく、それは生涯にわたって続いたといいます。マデレインを’That woman’と蔑称し、敬愛した父の事故死の責任は「彼女と航海に出かけなければ父が死ぬこともなかった」と語り、またアスター6世は父の子供ではないとすら信じていたといいます。継母とその子に対する憎しみにも似た感情は好転することなく、遺産分与でも容赦ない差配を振るいました。ヴィンセントは各地に所有する邸宅を同時に相続しましたが、Newportに構えていたアスター家の夏の邸宅’Beachwood’を酷く嫌っていました。’That woman’が父と再婚した場所だからというのがその理由だったといいます。
1913年4月、ヴィンセントは最初の結婚をします。相手はアスター家の地所ラインベックでも近所付き合いをしていたHelen.Dinsmore.Huntingtonでした。しかし、この結婚はLove matchとはいえず、夫妻が顔を合わせることは稀で、またヘレンは夫と過ごすより女性との深い関係を持つことに重きを置いていたといいます。表面上の結婚生活は続いたものの1940年に離婚を迎えました。ヘレンはその後、夫の友人であり、ビジネスパートナーでもあったLytle.Hullと再婚し、死の時まで連れ添いました。ヘレンは音楽に造詣が深く、生涯にわたってニューヨークフィルハーモニーを熱心に支援したことでも知られています。
1926年、ヴィンセントは五番街のアスター邸をユダヤ教教会に、また所有するホテルを順次売却します。新たなアスター邸となったのは、東80丁目130番地に今も残る白壁が印象的なタウンハウス。ここにヴィンセントは父アスター4世がかつて設えていた邸宅の内装をそのまま再現したといいます。


*130.E80h st…Vincent Astor lived there

The Last Mr.Astor

2013年02月01日 | person
Astor Place、Waldorf Astoria、Astor Court、Astor Hallなど、今もニューヨークに残るAstorの名残。この源は全てAstor Familyに系するものです。アスタープレイス駅にビーバーが描かれているのは、もともと毛皮貿易で財をなした初代のJohn.Jacob.Astorに由来するものだとか。やがて不動産業に進出し、巨万の富をなしたアスター家は、何代目かで兄弟が分かれ、一方は英国に渡って爵位を得て、一方はニューヨークに留まり王朝を築きました。そのアスター家の最後の当主となったのWilliam.Vincent.Astorでした。
William.Vincent.Astor(1891.11.15-1959.2.3)は、ニューヨークきっての名門アスター家当主の父John.Jacob.Astor IV世とフィラデルフィアの名家出身で美貌を誇った母Ava.Lowle.Willingの長男としてこの世に誕生しました。彼が産声をあげたのは、ニューヨーク社交界の最高峰を意味した‘400’(Four Hundred)。その頂点に君臨した祖母キャロラインの五番街の邸宅でヴィンセントは誕生しました。圧倒的な存在感を湛えたキャロラインの肖像画はメトロポリタン美術館に収集されています。
大富豪ではあるものの魅力に乏しく、印象も薄い夫に対し、華やかで美しいながらもわがまま放題に育った妻、性格的にもマッチしていたとはいえないアスター四世夫妻の仲は決して良好ではなく、密かに’ Beauty and the Beast’と囁かれていたといいます。母エヴァは、夫に面差しのよく似た息子をひきあいに出しては嘲笑い、このことはヴィンセントの心に大きな疵を残したと云われています。ヴィンセントに続き、夫妻には長女Alice.Ava.Muriel.Astorが誕生しますが、父親はアスター四世ではなく不義密通の子であるというのが公然の秘密でした。隠然たる影響力を保持したキャロライン・アスターの死後間もなくの1909年、夫妻はついに離婚を申請しています。
1911年9月、アスター四世は息子ヴィンセントより年若い18歳のMadeleine.Talmadge. Forceとの再婚を発表しました。この再婚は大いに取り上げられ、雑言から逃れるように既に身籠っていたマデレインと共にアスター四世は渡欧し、アメリカへの帰路に搭乗したのがタイタニック号でした。1912年、その沈没事故でアスター四世は帰らぬ人となりました。マデレインは男子を無事出産しますが、アスター四世が遺した巨額の遺産を引き継いだのは、当時、ハーバード大学に在学していたヴィンセントでした。一族が携わってきた不動産業のほか、Newsweek誌の大株主の座、またマンハッタンに所有したアパートメントをはじめ、ハドソン河上流のラインベックにあるアスター家の広大な邸宅もヴィンセントが全て相続しました。アスター家の当主となったヴィセントは引き継いだ事業に本格的に着手し始めます。

*Astor Hall,New York City Library…Fifth ave&E42nd st
*Residence of MRS.Astor(NE)…Fifth ave &E65th st,now Temple Emanu-el
*Waldorf Astoria...Park ave&E50th
*Astor Court...210.W90th st

President's Sister

2013年01月31日 | person
父ジョゼフの陣頭指揮のもと、一族の悲願である大統領輩出に向けて’TEAM’が結成されます。その中核にあったのが他でもないKennedy Familyでした。兄弟姉妹は勿論、その配偶者、その縁戚、友人知人らがこの選挙に容赦なく組み込まれていきました。
元々、大統領選のさなかから、二人の結婚生活は性格の不一致やピーターの女性問題や飲酒、ドラッグ問題をめぐって暗礁に乗り上げていました。離婚は罪であると母から繰り返し諭されて育ったパトリシアにとっても離婚は最も避けるべき選択肢でもありました。
また熾烈を極める大統領選に身内のスキャンダルは許されず、また一族の力を結集して「頂点」を目指す行程に夫妻は妥協し離婚問題を先送りします。この選挙戦では夫妻を介したハリウッド人脈も活用され、支持の拡大に一役買ったといわれています。その後、伝説の一つとなる女優マリリン・モンローとケネディ兄弟とのロマンスも、その出会いのきっかけはパトリシアでした。
1961年1月、兄ジョンが合衆国大統領に就任します。一族や知己の友人らが政権中枢に廃されるなか、ピーターの立ち位置は微妙な変化を見せていました。パトリシアとの仲も修復されることはなく、夫妻は1963年11月の大統領暗殺後、正式に別居に踏み切りました。
その後、離婚が成立しパトリシアは子供たちと共にニューヨークに生活の場を移し、五番街にあるアパートメントで新たな生活を始めました。敬愛した兄の突然の死、敬虔なカソリック信者でありながら離婚を選択した躊躇い、またいかに生きてゆくべきかという自問、かつての夫同様に自らの「立ち位置」に迷うパトリシアは次第に深刻なアルコール問題抱え、また健康問題も取り沙汰されるようになりました。
そんな苦難と陰鬱のときを経て、やがてパトリシアにも穏やかな実りの日々が訪れます。ボストンに建てられたJFKライブラリーの理事を務め、またケネディ家が携わるさまざまな活動にその姿が見られるようになりました。成人した子供たちもそれぞれの道を歩み、活躍をはじめます。また彼女自身は生涯再婚することはありませんでした。
そして2006年9月17日、パトリシアはマンハッタンの自宅で静かにこの世を去りました。ようやく安堵と穏やかな夢の中に…、予期もせぬ早い生涯を駆け抜けた兄や姉、そして’TEAM’として共に闘った愛すべき人々のもとへと急ぐかのように。


*Convent of the Sacred Heart…1.E91st
*990.Fifth ave…Her Apartment
*1.Sutton Place South…Her Apartment
*St.Ignatius Loyola church…E84th&Park ave,Her Funeral was held.