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Never a dull moment

煌きのあの風景の向こうに…

Golden Door

2014年02月21日 | Lower Manhattan
Not like the brazen giant of Greek fame,
With conquering limbs astride from land to land;
Here at our sea-washed, sunset gates shall stand
A mighty woman with a torch, whose flame
Is the imprisoned lightning, and her name
Mother of Exiles. From her beacon-hand
Glows world-wide welcome; her mild eyes command
The air-bridged harbor that twin cities frame.
“Keep, ancient lands, your storied pomp!” cries she with silent lips.

“Give me your tired, your poor,
Your huddled masses yearning to breathe free,
The wretched refuse of your teeming shore.
Send these, the homeless, tempest-tossed to me,
I lift my lamp beside the golden door!”
Emma Lazarus
November 2, 1883

古代ギリシャ、ロードス島の港の入り口に、
いかめしく聳え立っていたという有名なコロッサスとはまるで異なる
海に洗われ、夕日に染まるわがアメリカの港に力強き女性が立つ。
彼女は、稲妻を閉じ込めた松明を掲げる「亡命者たちの母」
その右手は、歓迎の光で港を照らし、二つの街の空気に包まれ、優しく港を見渡す。
「わがもの顔にふるまってきた古き国々よ。その仰々しい歴史はそのままに!」
と動かぬ唇で彼女は声高に言う。

‘’我がもとに連れてくるがよい。
疲れ、貧しきにある者たちを。
自由を渇望しその空気を仰ぎたいと願う者たちを。
かの港で残酷にも拒否され打ちひしがれた者たちを。
彼ら、処なくして嵐に弄ばれた者たちを我がもとに連れてくるがよい。
私はここで黄金の扉の傍らに灯をかかげ彼らを待つ。’’

NEW YORK and PARIS

2012年02月27日 | Lower Manhattan
マンハッタン島の南端にあるバッテリーパーク。その彼方におぼろげに姿を見せてくれるのが自由の女神像。
ニューヨークのみならず、アメリカにとっての象徴ともいえるこの像はアメリカの独立100年を祝ってのフランスからの「永遠の友好」の贈り物。女神が見つめる遙か遠く海の彼方の方向にフランスがあると言われています。そんな両国間には長く深い歴史があります。1775年、独立戦争が勃発した際は海を渡り多くのフランス人たちが援助に向かい、その後の普仏戦争の際にはアメリカがフランスを支援したことから、このような両国の歴史の記念碑を残そうとの動きが加速したといいます。1875年、設立のためユニオンが組まれ、女神はフランスが台座をアメリカが担うことで一致、制作者バルトルディをはじめ、エッフェル、ピュリッツァーら米仏の多くのメンバーが女神のために集いました。

彼女の手には1776年7月4日の日付が刻まれた「独立宣言書」、トーチをかざす右手は高々と上げられています。1886年10月28日、フランス国旗のベールに隠された美しい姿を世界にしらしめた除幕式以来、ニューヨーク湾に浮かぶリバティ島に悠然とそびえ、あるときは人々を迎え、あるときは人々を見送り、あるときはニューヨークの発展を見守り、あるときはその混乱を見守り、あの9.11をも見守り続けた物言わぬ美しき歴史の証人。

制作者バルトルディはこの像を「世界を照らす自由」と名付け、彼自身は生涯この像を「私の娘」と呼んだといいます。

現在、パリのセーヌ川・グルネル橋のたもとに立つ自由の女神は遙か海の向こうへ旅立った女神像を想うフランス国民のためにパリに住むアメリカ人たちがフランス革命100年を記念しての贈り物でした。1889年11月5日除幕式が行われました。同じバルトルディによる設計です。左手に抱える独立宣言書には、フランス革命のきっかけとなったバスチーユ牢獄襲撃の起こった1789年7月14日の日付が刻まれています。

Exchange

2012年02月16日 | Lower Manhattan
取り引きの地、ニューヨーク・マンハッタン。ロウアーマンハッタンのある界隈はまさに世界経済の心臓部ともいえます。
その歴史は、その界隈のとある通りの木の下から始まりました。 街路に植えられた木、Buttonwood tree、そうアメリカスズカケの木。そして通りの名はWall st。
そのウォール街86番地に24人の仲買人たちが集い、ある決め事を取り交わしました。それがButtontree Agreementです。

''We the Subscribers, Brokers for the Purchase and Sale of the Public Stock, do hereby solemnly promise and pledge ourselves to each other, that we will not buy or sell from this day for any person whatsoever, any kind of Public Stock, at least than one quarter of one percent Commission on the Specie value and that we will give preference to each other in our Negotiations. In Testimony whereof we have set our hands this 17th day of May at New York, 1792 ''

ウォール街68番地、現在この番地は既に存在しません。通り沿いには高層ビルが建ち並んでいます。一本の木の下で始まった取引の都の新しい歴史、やがて会員数を増やし至近の場所にあったTontine Coffee Houseに集うことになります。
このアグリメントに集った24人らはそれぞれウォール街、またその近辺に住所を構えていました。Water st,Greenwich st,Broad st, Honover st,Nassau stなどなど、現在に通じる取引の歴史はこの頃から育まれていたことがよく分かります。日付は1792年5月17日。1863年にその名をNew York Stock Exchange(ニューヨーク証券取引所)として組織されることになるNew York Stock&Exchange Boardが結成されました。
世界経済を牽引しその中心として今日も上下する株価の動向を発信するウォール街、 その歴史、それは‘すずかけの木の下’から始まったのです。

*68.Wall st(NE)

Independence

2012年02月14日 | Lower Manhattan
メトロポリタン美術館の中にあるAmerican Wing。ここには建国以来のアメリカの歴史に因んだ逸品たちが展示、保管されています。中でも有名な「Washington Crossing the Delaware」。Emanuel=Gottlieb=Leutze作の389cm×647cmのこの大作は1851年に描かれました。
独立戦争のさなか、スタテン島に上陸した英国軍は進撃を続け、ブルックリンからマンハッタンへ。大陸軍の総司令部はマンハッタン島北端、現在のワシントンハイツのあたりにおかれていました。この総司令部のあとはワシントンハイツの名と共に歴史保存地区としても当時の趣を現在に伝えています。
戦況は英国軍の快進撃が続き、対する大陸軍は苦戦を極めてついにニューヨークからニュージャージーへと渡り、デラウェア川を抜けペンシルバニア州まで撤退、英国軍の猛追、そして一連の敗北による絶望感が大陸軍に漂う中で季節は冬を迎えました。
1776年12月、ここで大陸軍は一転反撃に出ます。このときの様子を描いたのが冒頭の絵です。勢いをつけた大陸軍は、かつての敗北の道を勝利の道に変え、再び歩を進めます。そして独立戦争を取り巻く環境が微妙な変化を示しつつありました。欧州の政治情勢や思惑が、この新大陸を舞台とした戦争に大きな影響を与え始めたのです。ベンジャミン・フランクリンら大陸会議の主要メンバーたちの外交努力も活発に展開されました。
新大陸の新国家の建設はその地にあった人々の血と労苦を、そして新国家を取り巻く欧州各国の思惑とが複雑に絡み合い成り立ったものでもありました。1783年9月、パリ講和条約が調印され、ここにアメリカ合衆国の独立が正式に認められます。その後間もなくして、英国軍はニューヨークから撤退しました。
ニューヨークに凱旋したワシントンが自らの率いた軍との解団式を行ったのがフローレンス・タバーン(54 Pearl st)でした。 1762年に建てられたこの建物、ワシントンはこう別れの言葉を述べたと言います。

「愛と感謝を込めた万感の思いと共に、今日私はあなた方のもとを去ります。あなた方のこれからの日々が栄光と名誉と共にあったこれまでの日々と同じように幸福に満ちたものであることを心から願っています。」

ワシントンを乗せた船はニューヨークを後にしました。再び彼がこの地を踏むのはそれから時を経ての1789年のこと、歴史は彼を初代アメリカ合衆国大統領として迎えます。

*Tavern(54.Pearl st)

September.11

2010年09月13日 | Lower Manhattan
September.11.2001……この日まで、私にとってのニューヨークの風景は、フェリーから振り返りざまに見た太陽の光を燦々と浴びたワールドトレードセンターが従える浮かび上がるようなマンハッタンの姿でした。
 その時は突然訪れました。何気なく入れたテレビのスイッチ、そこから私の目に飛び込んできた光景…「これは現実か?」「…崩壊する。」茫然自失の自分と非情なくらい冷静な自分が同時に存在していました。刻々と伝えられるニュースはどれも絶望的な情報ばかりでそれがアメリカという国家を狙った同時テロであることを確信させるに充分なものでした。その光景を思い出すだけで今でもどうにもならない怒りと哀しみが甦ります。
 それから1年後、私はニューヨークに降り立ちました。そして何より先にグラウンドゼロを訪れました。未だ行方不明者を捜す家族たちの残す貼り紙、耐えることのない鎮魂の花束。(もちろん逞しい商魂の持ち主たちは9.11をビジネスに替えていました。これもアメリカらしい一面です。)その場に立つだけで自然と涙が溢れてきました。もうあの象徴は跡形もなく消えていました。何も在りませんでした。突き抜けるように見える広い青空がそのことを静かに教えてくれました。
 私がニューヨークに心を惹かれる理由、それはニューヨークの持つ力強さです。そしてそれは人種のるつぼと言われるほど多種多様な人種、言葉、文化、宗教、歴史を混在させながらもニューヨークという一体として存在し続けているその力強さです。たとえどのような理由があったとしても人が人を殺していい理由には決してならないのです。

September.11.2001
 8:46am AA機11便がWTC北タワーに衝突
 9:02am AA機175便がWTC南タワーに衝突
 9:17am 米連邦航空局がニューヨークの全ての空港を閉鎖
 9:21am NYとNJの港湾管理委員会がニューヨーク地区全ての橋とトンネルを封鎖。
 9:40am 米連邦航空局が史上初めてアメリカの全ての航空機を運航停止とする。
 9:43am AA機77便が米国防総省に衝突。
 9:59am WTC南タワー崩壊。
10:10am UA機77便がペンシルバニア州田園地帯に墜落。
10:28am WTC北タワー崩壊。

今はもうそこには何もありません。それでも私の心の中のニューヨークに、全てずっと生き続けています。誰にも何者にも消し去ることは出来ない、私の心の中にあのときの輝きのまま永遠に生き続けています。

ここに改めて、米国同時多発テロにより失われた全てに対し心からの哀悼を捧げます。
May their soul rest in peace....