goo blog サービス終了のお知らせ 

Never a dull moment

煌きのあの風景の向こうに…

Return

2012年02月27日 | person
わずかの所持金と楽譜を詰めたトランクを携え、マリアは渡米を猛反対する母や姉をふりきって船に飛び乗りました。MARIA・CALLASと記載されたアメリカのパスポートを手にマリアがニューヨークの港に到着したのが1945年。念願の父親との再会を果たしたものの、父の生活には既に新しい女性の存在がありました。
音信も途絶え愛情はとうの昔に消え果ていたカラス夫妻でしたが、離婚手続きを取っていたわけではありませんでした。母譲りのマリアの激しい気性がそんな愛人の存在を許すはずもなく、極度の緊張状態が'懐かしの我が家'では繰り広げられました。
ギリシャで名を知れ出したとはいえ、ニューヨークでは全く無名であったマリアは世に出るきっかけを求める外ありませんでした。公私共に彼女を取り囲む環境の難しさもあってか、彼女の食欲は止まるところを知らず、もともとふくよかだった彼女のウェイトは激増し100kgを超えるほどであったといいます。それでも日々、きっかけを探し続けた彼女の前にメトロポリタンオペラへの途がまさに開けようとしていました。
念願のMETでのオーディションを受けた彼女に劇場が告げたのは、曲目の指定と駆け出し向けのギャラでの契約ながら主役デビューを約束するものでした。それはまだ若く経験の浅い歌い手にとっては望むべくもない条件であり、劇場としてもその時点で最上のオファーであったはずです。しかしそれらの条件にマリアは決然とこう語ったといいます。
「それは私のアメリカデビューに相応しいとはいえません。お受けできません。」
誰もが駆け出しの新人のこの暴挙に異を唱えましたが、マリアはこう言いました。
「いつの日かMETは私の前にひざまずいて歌ってくれと頼みに来るはずです。」と。

この言葉が現実のものとなるのにさほどの時間はかかりませんでした。世紀の歌姫の誕生はすぐそこでした。

MARIA

2012年02月27日 | person
この人を20世紀最高のソプラノ歌手の1人と呼ぶに異論はないでしょう。マリア・カラス、その卓越した歌唱力と技術、そして表現で一時代を築きあげた不世出の歌姫です。
彼女はMaria.Anna.Sofia.Cecilia.Kalogeropoulosとして、1923年12月2日、雪の舞い落ちる冬のある日、ニューヨークにギリシャ移民の娘として生を受けました。Kalogeropoulos夫妻は既に長女をもうけていたことから男子を熱望していたため、彼女の誕生は歓迎されたものとはいえなかったようです。
 父ジョージは薬剤師としての仕事がようやく軌道に乗り始めた頃、クィーンズのアストリア地区からやがてマンハッタン(38thst&8ave、のちにWashington Heights)に移っています。勤勉で真面目、しかし妻には頭のあがらない父とその反対に、ギリシャの名家に生まれた出自にこだわり常に夫を見下す母。不和を極める夫婦関係は妥協点を見出すことなく、やがて母リッツァは娘たちの教育を理由に夫を1人ニューヨークに残してギリシャに戻りました。1934年3月14日、見送る父に泣き叫びながら手を振るマリアを母は引き離し、船はアメリカの地から離れていきました。
 大好きな父親から引き離されたMariaの類稀な才能が、生涯にわたって決して相容れることのなかった母親から受けた音楽の手ほどきによって開花したのも皮肉なことながら、ギリシャに戻った彼女は良き知遇を重ねディーヴァへの夢を、そして父に再会する日への思いを紡いでいきました。やがてアテネにあるオペラ座の舞台に立ち評判を呼ぶことになります。しかし時は第二次世界大戦の勃発、そしてナチスドイツが猛威をふるい主戦場でもあったヨーロッパの大陸、何よりギリシャの政情は混迷を極め、ついにはクーデターが起こり王政は打破されました。戦況はますます悪化し、ニューヨークにいる父親との文通も途絶えがちになりました。そんな中でも彼女は舞台に立ち続けたマリアに関係者がこう尋ねたといいます。

「この戦争が終わったらあなたはどうしたいのですか?」
彼女の答えは明確でした。

「合衆国に戻ります。」そしてこう続けたといいます。
「父に会うため、そしてメトロポリタンオペラで歌うために。」と。

*W38th st&8th ave
*Metropolitan Opera House (Lincoln center)

Jimmy

2012年02月22日 | person
映画の都ハリウッドが黄金時代の最後の輝きを放とうとしていた頃、時代を駆け抜けるように疾走した1人の俳優がいました。映画俳優としての活動は僅か数年、そしてその主演作品はわずか3作。
「エデンの東」「理由なき反抗」「ジャイアンツ」、そしてそれらのみをもって映画史に、またアメリカ文化史にその名を残す不世出の人、James.Dean。

ジェームズ・バイロン・ディーン。1931年2月8日、インディアナ州で誕生したディーンは幼くして母親を亡くし、高校時代までを叔母夫婦に預けられて過ごしました。母親の愛を一身に受けて育ったディーンにとって、母の死は、生涯彼の心に深い影を落としたといわれています。高校卒業を機に父親と同居を始めるものの、疎遠だった父親との関係は埋まることはありませんでした。高校卒業後、大学に進学し法学の道を目指しますが、高校時代から既に演劇に魅力と自分の可能性を感じてディーンは、やがて自らの進むべき道を「演技」に定めることになりました。本格的に演劇の道を目指したディーンは大学を転校しますが、更なる探求と飛躍を求めた彼は大学を中退し単身ニューヨークへ向かいます。
1952年、Actors Studio(432.W44th st)の門を叩いたディーンは、100倍を超える競争率を見事に突破して入学を許可されました。俳優個人の内面に深く切り込み「演ずることに」アプローチしていく、メソッドと呼ばれるスタジオ独自のレッスンを受け、ブロードウェイの舞台に端役として役を得たり、セントラルパークで広がる空間を観客にレッスンに励むニューヨークでの日々を過ごしました。

 その後、ハリウッドに移り、立て続けに3本の映画に主演、その才能を開花させたディーンは一躍時代の寵児となります。しかしその輝きは長くこの世において続くことはありませんでした。1955年9月30日、愛車ポルシェのハンドルを握り、レースに向かう途中ハイスピードを保って走行を続け他の車と衝突、愛車は大破。そしてその瞬間、彼自身の未来もその日を限りに絶たれることになりました。強度の近視でもあった彼がメガネもなしにハイウェイを疾走することは自殺に等しいことでもありました。25歳の若さでした。

「永遠の命と思い夢を持ち、今日を限りの命と思って生きよ」

生前、ディーンはこんな言葉を残しています。
その亡骸は今、故郷インディアナ州フェアモントの地で、追憶の向こうに思い続けた母のぬくもりに包まれるようにして永遠の眠りについています。
 
西44丁目49番地、アルゴンキンホテルと並びを同じくして建つ老舗ホテル「イロコイスホテル」。ニューヨークでの修行時代、ディーンはこのホテルに滞在しその日々を重ねました。彼が滞在した部屋は現在もDean Suiteとして残されています。

*The Actors Studio(432.W44th st)
*Iroquois Hotel(49.W44th st)

My Fair Lady

2012年02月21日 | person
あるホテルの1室から数多の名作を彩った音色が生まれました。ミッドタウンの西44丁目には歴史あるホテルや、プライベートクラブなどが並び立ち、今日も歴史を紡いでいます。

George.Bernard.Shaw(1856-1950)の戯曲「Pygmalion」をベースに書き上げられた「MY FAIR LADY」。この名作を世に送り出したのが、Alan.Jay.Lerner(1918-1986)。舞台はロンドン、街の花売り娘のイライザがヒギンズ教授の指導を受けて美しいレディーに変身を遂げていく、といういわゆるシンデレラストーリーで、この作品はThe Algonquin(59.E44th st)から羽ばたきました。
ラーナーは1918年、ニューヨークの裕福なユダヤ系家庭に生まれ、英国や米国東部の私立学校で学び、ハーバード大学を卒業しました。その学生時代の友人の1人が後の合衆国大統領J.F.ケネディです。
 その後、本格的にキャリアをスタートさせ、脚本家として才能を開花して行きますが、彼がその名声を確たるものとするのは1942年に音楽家Frederick.Loewe(1901-1988)との出会いを得てからでした。Lernerの脚本とLoeweの音楽、この2つの才能の合わさりは大いに響き、ヒット作を連発します。中でもJulie.AndrewsとRex.Harrisonの共演によってブロードウェイに花咲いた「My fair lady」(1956)は大成功をおさめます。また同作品は、Audrey.Hepburn主演で映画化もなされアカデミー賞7部門を独占します。「Gigi」や「Camelot」も彼らから生み出された名作です。
 しかし栄光の終わりは訪れます。不変に思われた2人のパートナーシップは互いの方向性の違いから破綻を来たし始め、ロウはニューヨークを離れてカリフォルニアに移ります。”チーム”の解散はラーナーのキャリアにも大きな影を落とし、台本はなかずとばずを繰り返し失意の日々に身を委ねる日々が続きました。
しかし彼の審美眼と創作意欲とは衰えることも消えることもなかったようです。後年、Broadwayで熱狂的に迎えられる「Les Mis・rables」、そして「The Phantom of the Opera」に着目し、その死の間際までアプローチを試みていたといいます。

 また多くの成功者がそうであるようにその人生は光陰併せ持つものでした。作品の成功は名声と華やかな社交生活を彼に与えましたが、幾たびも繰り返した結婚と離婚は私生活の荒廃を表し、また薬物中毒との闘いも続きました。 そして1986年6月14日、Lernerはニューヨークで肺ガンによりこの世を去ります。
 彼により新たな生命を吹きこまれた作品の数々は世界中で公演を重ね今日もまた新しい物語を紡ぎだしています。そしてラーナーがイライザを生み出したアルゴンキンホテルのその部屋はLerner's suiteと名付けられ今も受け継がれています。

*Algonquin Hotel…(59.W44th st)

She is the ONLY

2012年02月20日 | person
波瀾万丈の生涯を生きたFrank.Sinatraは華やかな私生活でも知られました。4度の結婚と3度の離婚、数々の女優やセレブリティと浮名を流し、常に話題を提供し続けました。 
中でもとに特に有名なのが2度目の結婚、相手はハリウッドの大女優Ava.Gardner。
Ava.Lavinia.Gardner(1922.12.24-1990.1.25)はノースカロライナ州に生まれました。家庭は貧しかったといいます。1939年、嫁いだ姉を頼ってニューヨークに出たことから彼女の人生は大きく動き出しました。姉の夫によって撮られたエヴァの写真が映画関係者の目に留まり、彼女はハリウッドへの切符を手にします。成功を夢見て乗り込んだハリウッド、しかし鳴かず飛ばずに耐える日々が続きます。専ら話題にのぼるのは彼女の私生活だけ。Micky.RoonyやArtie.Shawとの結婚、そして離婚、また伝説のHoward.Hughesとのロマンスは映画「アビエイター」にも描かれていました。
 しかしチャンスの時は到来します。その美貌、そして研鑽を積んだ演技、訛りの矯正にも懸命に励んだ結果、エヴァはスターダムを昇り始めます。そして「ショウボート」(1951)で一躍トップスターに躍り出た後、「モガンボ」や「裸足の伯爵夫人」など不朽の名作に数々出演しその名を映画史に刻みました。特に活躍したのが1950年代、まさにハリウッドの黄金時代に頂点を極めた大女優でした。
 シナトラとの結婚は1951年のこと。エヴァが人気女優として絶頂を極めようとしていたその時、シナトラは不遇の時代にありました。
「…鏡に写る自分を見ているように」
お互いの内に自分を感じたシナトラとエヴァ。互いの強烈な個性を愛した2人はシナトラの離婚を待って結婚に踏みきります。離れては寄り添い拒絶しては求めての繰り返しの生活が続きますが、それでも2人は強く愛し合っていました。キャリアに行き詰まり、スランプに陥っていた夫を助けるためエヴァが各方面に働きかけ、もたらされたのがあの「地上より永遠に」(1953)への出演であったといわれています。この作品でアカデミー助演男優賞を得たシナトラは再起をはたし第一線に返り咲くことになりますが、皮肉にもこれをきっかけに2人の結婚生活にはついに終止符が打たれることになりました。
波瀾万丈の結婚生活は終わりを告げ、フランクにとって、いや2人にとって栄光の瞬間となるはずであったシナトラのアカデミー賞受賞の瞬間、隣にエヴァの姿はありませんでした。2人が共に暮らしたのがセントラルパークサウスにあるHampshire House(150.Central Park South)、Essex Houseの隣にそびえるこの建物は1930年に建てられ今も存在感を誇っています。
 絶頂を極めた1950年代が終わり、ハリウッド黄金期の終焉が訪れる頃、エヴァにも斜陽のときが訪れました。ちょうどその頃、映画業界のシステムにも大きな変化がもたらされたことは、旧来のスターシステムにより誕生したエヴァにとって、取り巻く環境は厳しさを増すばかりでした。やがて表舞台から姿を消した彼女は晩年を英国で暮らします。

 シナトラとエヴァのその後ははたして・・・・
彼らは短く終わった結婚生活のあとも生涯を通して互いにとっての「特別な存在」であり続けたといいます。1989年、卒中に倒れたエヴァは身体麻痺を患い、寝たきりの生活を送ることになりましたが、その療養費の支払いの一切はシナトラが行いました。1990年、エヴァが67歳でこの世を去ったとき、報せを受けたシナトラは涙にくれ言葉すら発することが出来ないほど深い喪失感にうちのめされたといいます。後に2人を評して彼の友人たちは異口同音、次のように回想しています。
「Ava、彼女だけ...SinatraにとってAvaは生涯を通して愛し続けた唯1人の女性だった。」と。

*Hampshire House(150.Central Park South)