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Never a dull moment

煌きのあの風景の向こうに…

Change

2012年02月17日 | person
あらゆる人種が集いあらゆる人種が生き抜くアメリカ、あらゆる自由とあらゆる平等の保障が謳われるアメリカは、その反面で人種間の争いや自由競争主義の名の下に形作られた貧富の差が解消されることなく根深く包括される矛盾の土地でもあります。
かつて移民たちを受け入れる港であったニューヨークにも、さまざまな人種が生活をしています。今では世代を移して他州や郊外に出て新たなコミュニティを築いていますが、それでも今でも小規模ながら脈々と受け継がれる空間は存在しています。イタリア系、ヒスパニック系、黒人系、ギリシャ系、ドイツ系と挙げ出すと世界の大抵の土地の名が上がりそうです。

ある1人の女性の死が大きく報じられたことを思い出します。NewYorkTimesが彼女の追悼に捧げたタイトルは”It's all started on bus”
 Rosa.Lee.Louise.MaCauley.Parks(1913.2.4-2005.10.24)は1955年アラバマ州で裁縫工場からの仕事帰りに乗車したバスで、運転手の命令に背いて白人に席を譲らなかったことから逮捕されました。ジム・クロウ法により1950年代にあってもなお南部諸州においては隔離政策を取っていました。バスには黒人席、白人席、中間席とに分けられ逮捕されたとき彼女は中間席に座っていたといいます。この事件はモンゴメリー・バス・ボイコット事件として知られ未だ根深く残っていた黒人への差別や偏見に対する見直しを求める大きなきっかけとなり、やがて全米に広がる黒人公民権運動につながっていきました。
人種の境界を越え互いに架け橋を築くことの難しさを「旅」に例えたクリントン大統領は1999年、連邦議事堂で行われた演説の中でこう語り、傍聴席で傾聴する1人の老年の女性をこう紹介しました。

「…そして本当の意味においての旅は43年前、アラバマである1人の女性がバスの席に座り立ち上がることを拒否したその日から始まりました。今夜、彼女はファーストレディーの隣に座っています。ローザ・パークス、立つも立たないもあなたの選ぶままです。」

湧き上がった拍手は議場内に響き渡り、ローザ・パークスを包みました。大統領夫人がそっと腕を支え彼女は立ち上がりました。そして穏やかに静かに笑みをたたえそれに応えました。

High Profile

2012年02月17日 | person
アッパーイーストの街並みの中にあってはごく見慣れたその外観は、周囲とも穏やかな調和を見せています。では何が他と異なるのか...。それはその住人達のプロフィール。 彼らが列を同じくして築いたタウンハウスが今も静かに佇みます。東80丁目をパーク街から東に歩を進めると右手に並ぶのがそれらです。

彼らの名はLewis.S.Morris、George.Whitney、Clarence.Dillon、そしてVincent.Astor......
  
ルイス・スペンサー・モリスはその祖先をたどると、大陸会議に参加し、独立宣言にサインを残す'Founding Fathers'に列せられるルイス・モリスの末裔。ルイス自身も弁護士として活躍し、モーニングサイドハイツにある聖ジョンディヴァイン聖堂や、ニューヨークソサエティライブラリーの理事としても活動しました。
ジョージ・ホイットニーは名門ホイットニー家の出身でグロトン校からハーバードに進み、卒業後は銀行家として活躍、ニューヨーク証券取引所長リチャード・ホイットニーは兄弟にあたります。
クラレンス・ディロンはディロン&リード社の社長を務めた財界の重鎮です。長男C・ダグラス・ディロンはフランス大使、ケネディ政権下で財務長官を務めました。
ヴィンセント・アスターは不動産王アスター家の御曹司。父ジョン・ジェイコブ・アスター4世がタイタニック号沈没事故により海に命を落として後、アスター家の当主となりました。
 ハイプロフィールを携えたこの顔ぶれが、かつて一時期にお隣同士として暮した邸宅跡。そんな彼らの、またその子孫のそのストーリーの続きはどのようなものだったのでしょう。
特に浮き沈みの大きかったのが、ジョージ・ホイットニーでしょう。弟リチャードがニューヨーク証券取引所長に就任、富と名声を手にするものの、後に空売りと横領で告発され収監されます。収監先は悪名高きシンシン刑務所でした。凶悪犯が多く送られるその場所に、ウォール街のエリート街道の真ん中を歩いてきた人物が送られるというセンセーショナルな事件は人々の関心を大いに集めました。ジョージ・ホイットニーは弟が残した負債の処理、被害者への賠償に後半生を充てることになります。
 クラレンス・ディロンの息子、C・ダグラス・ディロンは第二次大戦で海軍に従軍し、その後はフランス大使、ケネディ・ジョンソン政権下で財務長官をつとめました。キューバ危機の際に組織されてエクスコムにも彼は出席しており、まさに歴史の現場、その第一線で活躍を続けました。晩年はメトロポリタン美術館の館長をつとめ、またロックフェラー財団で慈善家として活躍の場を見出しました。
 そしてヴィンセント・アスター。アスター家当主として家業を担いつつ、私生活でも華やかな話題を提供しました。最初の妻との離婚後、2度の結婚を経験します。その莫大な資産は死後、残された’最後のMrs.Astor’となったブルック・アスターが相続します。そしてその富は設立されたヴィンセント・アスター財団によって、ニューヨークの慈善活動に還元されていきました。

*Townhouses(E80th st,BW Park ave & Lexington ave)

Boggy

2012年02月17日 | person
そのストリートの一画に、大いなるノスタルジーと共に捧げられました。
Hamphrey.Bogart(1899-1957)、ボギーの名で愛されたハリウッド黄金期を代表する名優であり大スターです。彼が生まれ育ったニューヨークに彼のその名が永遠に刻まれました。

1899年1月23日、ハンフリー・ボガートはニューヨークに生まれました。既にその名を知られた外科医の父と人気イラストレーターの母をもつ裕福な家庭に育ち、幼少期の面倒を見たのはアイルランド人の乳母でした。その後、上流階級の子弟としての教育を受けるべく、名門私立校Trinity School(139.W91st st)からフィリップスアカデミーに進みましたが、その生活に馴染むことが出来ず中退、海軍に入隊し第一次大戦に参戦しています。
 
 除隊後、劇団のマネージャーなどを経て演劇を志すようになり長い下積み生活の後、その才能が花開きます。ボガートはハリウッドにまだその概念すらなかったハードボイルドというスタイルを確立し、一躍スターの座に躍り出ます。「マルタの鷹」(1941)「カサブランカ」(1942)、「麗しのサブリナ」(1953)など不朽の名作に次々と主演し、1951年には「アフリカの女王」でアカデミー主演男優賞に輝いています。

 また「脱出」(1944)で共演した女優Lauren.Bacall(1924-)と再婚し、1男1女に恵まれた幸福な家庭生活をも手に入れました。その魅力は多くの人々を惹きつけ、周囲はいつも彼を慕う人々に溢れていたといいます。まさに栄光と幸福の日々の中、ボガートを病魔が襲い1957年、カリフォルニア州で喉頭ガンのためこの世を去ります。
ボガート夫妻と親交の深かったキャサリン・ヘップバーンは"親友"ボガートについてこう評しました。

"He was one of the biggest guys I ever met. He walked straight down the center of the road. No maybes. Yes or no. He liked to drink. He drank. He liked to sail a boat. He sailed a boat. He was an actor. He was happy and proud to be an actor. He'd say to me, 'Are you comfortable? Everything okay?' He was looking out for me."
葬儀の日、その棺には彼がかつて妻バコールに送ったゴールドの笛が収められました。それはかつて彼らの出会いとなった初めての共演作「脱出」の中のワンシーンにちなんでボガートがバコールに贈ったもの。…「何かあったらこの笛を吹いて」。

 2006年6月、アッパーウェストにあるボガートの縁の場所に、妻バコールと長男サムの姿がありました。西103丁目245番地はこの日、その名を「Hamphrey=Bogart Place」と改めました。除幕式に立ち会った妻バコールは彼女らしい言い回しでこう感謝を述べました。
"Bogie would have never believed it,...I'm happy he is honored. Of course, it's only brass on a wall."

*Trinity School...139.W91st st
*Memorial...245.W103rd st

Manhattan

2012年02月16日 | person
絵になる街、ドラマの街NYから生まれたカクテルが”Manhattan”。
別名「カクテルの女王」とも言われているようで…
ウィスキーとベルガモットをステアしたこのカクテルの名前の由来には諸説あるようですが、その中のひとつが1874年、NY社交界の華と謳われたJenny.Jerome(1854-1921)が The Manhattan clubでこのカクテルを供したのが始まりという説です。真偽のほどは???というのが今では定説のようですが。
現在のマディソンスクエアを眼前にして建っていたJerome Mansionはジェニーの父Leonard.Jeromeにより1859年に建てられました。Leonardは、New York Timesの大株主になるなど成功を収めた株式投資家であり、スポーツや芸術にも通じた人物で、鉄道王Vanderbilt家のWilliam.Kissam.VanderbiltらとAmerican Jockey Clubの設立にも関わるなど社交界の名士でもありました。1867年にジェロム邸はUnion League Clubの本部となり、その後は民主党の事務所としても活用されたようで、後に大統領となるクリーブランドやフランクリン・ルーズベルトや、ニューヨーク州知事アル・スミスらも会したといいます。
ジェロム家の姉妹たちは共にその美貌で知られました。何不自由なく育てられたJeanette.’Jenny’.Jeromeは渡欧し、ヨーロッパ社交界にもデビューを果たします。そこで繋がった縁が英国のMarlborough公爵家の次男Randolph(1844-1895)との結婚でした。実際のところは親同士が決めた政略結婚であったようですが、ともあれ1874年4月、ジェニーは英国でも随一の名門貴族に嫁ぎました。Marlborough公爵家は英国王室にも連なる名門であり、また代々の一門から政治家を輩出し大臣職を歴任する家系でした。夫妻は2人の男子に恵まれています。
その美しさ、そして類稀なる機知を併せ持ったジェニーは、自身の生涯を見事な処世術で生き抜きました。異性のみならず同性をも虜にしたその魅力の源はJennyの奥深い’人間力’にあったのかもしれません。
1895年に夫ランドルフが45歳の若さでこの世を去りました。1900年6月、ジェニーはGeorge.Cornwallis-West(1874-1951)と再婚します。ジョージはジェニーの長男と同じ年齢でした。1912年に夫妻は別居し、その後離婚しました。ジェニーは1918年に三度目の結婚をしています。
1921年6月、ジェニーはロンドンで67歳の生涯を終えます。彼女の亡骸は母を深く愛した彼女の息子によって、懐かしの地に運ばれ一族の墓所に葬られました。
 
息子の名はSir Winston. Leonard.Spencer.Churchill。そうです、英国政治史上最も愛されたウィンストン・チャーチル首相その人です。

*Jerome Mansion(1859-1967,Now NE)…41.Madison ave eastside of Madison Square

Monty

2012年02月14日 | person
東61丁目217番地、ニューヨーク、サットンプレイスにも程近いアッパーイーストの閑静な住宅街に位置するこのタウンハウスでその短い生涯を終えた1人の俳優がいます。彼の名はMontgomery=Clift。抜群の演技力と端正な容姿でハリウッド黄金時代にその名を残した俳優でした。
 Edward=Montgomery=Cliftは1920年10月17日、ネブラスカ州オマハに生まれました。裕福な銀行家の家庭に生まれた彼は幼少時代を何不自由なく過ごしますが、1929年10月に起こった恐慌によりその生活は一変することになります。
 
母親の勧めで子役として演劇団に入ったクリフトはすぐにその才能を開花させました。13歳でブロードウェイの舞台に立ったクリフトはその才能を評価され演劇人としての人生を歩き始めます。ハリウッドに渡ったのは1948年のこと。ジョン・ウェインと共演した「赤い河」で初出演作ながら大スターを向こうにはった演技でアカデミー主演男優賞にノミネートされます。映画俳優として人気を確立するのに時間はかかりませんでした。

1951年にはエリザベス・テイラーと共演した「陽のあたる場所」、1953年には「地上より永遠に」など次々と話題作に出演します。クリフトの活躍の場はハリウッドにありましたが、華やかな映画の都での生活、豪華な邸宅、連夜のパーティーや映画人たちとの交友、それらとはことごとく無縁でした。彼はいわゆるスターシステムによって生み出された従来のハリウッドスターたちの生活にまるで迎合することなくその後、主流となる「演技」を技法として捉え学んだ「役者」の先駆け的存在でした。出演作を選び与えられた役に自分なりの解釈をもって演技に向き合うスタイルは当時にあっては異端として扱われ、またクリフトが同性愛者であったことは公然の秘密として取り沙汰されてもいました。共演を通して固い絆に結ばれたエリザベス・テイラーとの仲が恋愛に進展することがなかったのはそのせいと伝えられています。
 1956年、突然の出来事がクリフトの人生を大きく変えます。エリザベス・テイラー宅で開かれたパーティーの帰り、自らハンドルを握った車が事故に遭い車は大破、クリフト自身も重傷を負います。その事故は彼の顔に大きな傷を残し、その後幾度となく繰り返し施された整形手術により彼はスクリーンに復帰を果たしますが、そこにかつての輝きは最早ありませんでした。この頃から自らの精神の変調を感じた彼は治療にも通い始めますが、同時に酒と麻薬が彼の生活に完全に入り込み支配しやがて制圧していきます

1966年7月23日、ニューヨークの自宅で全裸の状態で死亡しているのが確認されます。死因は長年の過度の飲酒と薬の摂取による心臓発作でした。死の報に接したエリザベス・テイラーはショックのあまり卒倒したといいます。短いながら思いの全てを込め、彼女はこうコメントを発表しました。
「彼は私の親友でした。私が一番愛した友人でした。」と。

*Townhouse(217.E61st st)