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Never a dull moment

煌きのあの風景の向こうに…

Villard House

2014年01月31日 | 42nd st-
華やかなマディソン街に重厚なブラウンストーンの建物が今も残ります。現在はマンハッタンでも指折りの高級ホテルとして数えられるNew York Palace Hotelのエントランスに構えたその邸宅は、今日も多くのゲストたちを迎えています。
  その歴史が刻まれたのは1881年、Henry.Villard(1835-1900)が土地を購入したことから始まりました。設計は当代随一の人気を誇った建築事務所Mckim.Mead&White社に委ねられました。イタリアンルネサンス様式を取り入れた3階建てのこの建物は、6つのハウスからなる分譲マンションだったようです。完成は1885年のことでした。
 ヘンリー・ヴィラード(1835.4.10-1900.11.12)はババリア(現在のドイツ・バイエルン地方)に生まれ、フランス、ドイツ各地で教育を受けました。1853年にアメリカに移民として入国し、名をVillardと改名します。苦学して法律を修め、ジャーナリズムの世界に活路を見出してキャリアを積みました。
1850年も半ばになると、ヘンリーは共和党の大統領選挙活動に従事し、後にリンカーンの大統領選挙を支援しています。南北戦争勃発後は、従軍特派員としてならし、当時知り合った奴隷解放活動家の娘で女性参政運動の活動家でもあったHellen.F.Garrisonと結婚しました。その後、ヨーロッパで起きたオーストリア・プロイセンの戦争にも馳せ参じています。
ドイツに滞在中、投資業に目覚めたヴィラードは、倒産寸前の数々の鉄道会社の再生のための資金援助に着手し、成功を収めます。その後、恵まれた才能を生かして金融業や鉄道業にも進出、グールド、ヴァンダービルト、ハンティントンらと並び称されるまでになりました。しかし、やがて先行投資と実際の操業のバランスが崩れ、破産の憂き目にあいます。
その夢の邸の建設が始まったとき、彼は人生の絶頂期にありました。しかしその僅か3年後に破産、無一文に近い状態で、ヘンリーは建築途中の邸に逃げるように身を隠す他なくなります。債権者たちが邸を取り囲み、心身ともに追い詰められて病に臥しました。
1885年に邸は完成しましたが、最早そこは彼の「夢の邸」ではありませんでした。彼は家族と共にこの邸宅から去り、二度と戻ることはありませんでした。
「私は何の後悔もなしにこの邸を去る」の言葉を残して…。
 富の神の気まぐれはいつの世にもあるようで、やがて幾分かの財産を回復しGE社の重役をつとめるなどして活躍したようです。
妻ヘレンとの間に生まれたOsward.Garrison.Villard(1872-1949)はジャーナリストとして名をなしました。

*New York Palace Hotel (Madison Ave at E51st st)

Masterpiece

2012年02月15日 | 42nd st-
歴史の中の幾多の映画、幾多のドラマ、ニューヨークを語る数多くの場面にこのホテルはその美しい姿を誇らしげに見せてくれていました。それがThe Plaza(5th Ave. at Central Park South)。
私が最初にこのホテルの名を知ったのはあのプラザ合意があるホテルの名から来ていると授業で教わったときです。経済史に残るその合意がなされたのは1985年9月22日のこと。
初めてのNY滞在、セントラルパークに向かう私の左手にその場所はありました。想像したよりは華奢な印象すらあったそのホテルでしたが、中に入った途端にその絢爛たるや、やはりそこは”The Plaza”でした。この地にはかつて当時随一と言われたヴァンダービルド家の邸宅があったそうです。その地に1907年10月、NYの発展と繁栄を背にオープンしたのがこのホテルで、その設計は「Dakota」と同じHenry.Hardenberghでした。
フランスルネサンス様式を取り入れたこの建物は1969年に重要歴史建造物として指定されています。歴代のオーナーの中で特に有名なのがDonard.Trump、彼はこのホテルを買収した際、こんな風に語っていました。
「私はただの建物に対価を支払ったのではない。これは芸術品なのだ。例えばモナリサのような。」
そしてこう付け加えました。
「私の人生で初めての損得、儲け抜きの買い物だ。」
と。
そう思い入れを語ったトランプでしたが、事業不振によりThe Plazaを手放す日がやってきます。その後、このホテルの歴史は幾つかの新たな経営者たちの手に委ねられては離れます。9.11、そしてマンハッタンの新しいホテルの建設と開業のラッシュが続いたこともPlazaの経営不振に拍車をかけたようです。
ホテルを閉じコンドミニアムや商業施設として再開発をすると発表したとき、この歴史あるホテルの存続を求めて、ブルームバーグ市長まで登場して活発な論議が展開されました。ホテル経営を続けることは発表されたもののそれは僅かな客室とホールを残すのみ。計画が完全に覆されることはありませんでした。その優雅を讃えた「ニューヨークの小さな宮殿」は2005年4月、静かにその舞台の幕をおろしました。

*The Plaza(CNR E59th st&Central Park south)

Private

2012年02月08日 | 42nd st-
華やかな五番街の中でも最も賑やかで人々が行き交う街角にあるのがUniversityClub(W54th&Fifth ave)。
Mckim.Mead&White事務所のWilliam.Rutherford.Mead(1846-1928)の手になるこの建物はイタリアンルネサンスパラッツィオ様式を基としたもので、喧騒と賑わいのエリアにあって独特の重厚さを醸し出しています。

ユニヴァーシティクラブは1865年に設立されたプライベートクラブで、もともとの始まりは1861年に遡ります。
「学生時代の交友を後の人生につなげ広げられるように」との思いでColumbia College〔後のコロンビア大〕ロースクールの教授でもあったTheodore.Whiteがその基礎を築き、後に初代理事長をつとめました。当初の会員の多くはエール大の卒業生であったとか。ドワイト自身もエール大卒です。
コロンビアカレッジ内に置かれたクラブでしたが、その後、会員の増加は勢いを増し、入会を希望して待機リストに名を連ねる人たちも後を立たなくなったことから、クラブはより設備の充実した、より広い場所を求めることになります。
クラブはMadison街26丁目に移転した後、現在の54丁目に移ります。キャパシティ面の理由に加えて、マンハッタンの賑わいの中心が北上化したこともその理由の一つで、当時、その一画はSt.Lukes病院が占めていましたがモーニングサイドハイツの現在の場所に移転することが決定したことで、移転が可能となりました。工事の着工は1899年のことでした。

いつかの夏、訪れたニューヨークで五番街に今も残る旧くも美しい建物の数々を堪能して歩きました。その中でも独特の空気の中にあったこの建物、大きな半円の窓と小窓が配置された外観、中の様子はまさに「Private」のみぞ知る...私がうかがえるのはライブラリーのような一室でくつろいで新聞に目を通していた老紳士の姿。...でもその何とも悠然とした姿にある「世界」を見ずにはいられませんでした。
また1つ私のライブラリーに納められた光景。今も確かに残る記憶の一つです。
*University Club (1.W54th st)

Witness

2012年01月30日 | 42nd st-
あの輝くツリーを見に出かけたのはいつのことだったか…。ミッドタウンの高層ビル群の谷間にまばゆい光の集合を目にしたときの感動は今でも鮮やかです。
黄金のプロメテウス像に従えられた輝く光のツリーの歴史が始まったのは1931年(正式には1933年)のこと。
Rockefeller CenterにRCA Buildingが誕生して8ヶ月後、700個のライトで照らし出されたツリーが冬の夜を美しく彩りました。1936年にはスケートリンクが開かれてますます華やぎを添え、またある年はブロンクス動物園からトナカイたちがやって来て人々の目を楽しませました。
その風景はマンハッタンの冬に欠かせないシーンとして人々に愛されていきました。
しかしやがて時代は第2次世界大戦の渦にのみこまれていきます。1941年12月8日、日本による真珠湾攻撃を受け、アメリカ国内の世論は一気に参戦に傾いていきます。1942年のツリーに光はありませんでした。そこには星条旗を示す赤と青と白に色づけをされた三本のツリーが並べられました。そしてツリーに光が戻るのに3年の歳月が流れました。
 1945年、自国の勝利と戦争の終結の年、ようやくツリーに光の輝きが戻りました。やがてテレビ中継が始まりその様子は全米に、全世界に発信されていきます。第2次世界大戦をはさんで世界の覇権はアメリカの頭上に輝きましたが、それは同時に混迷と激動の時代の担い手であることでもありました。
時は流れ、うつろい、彷徨い、消え、また姿を示す…その全てを、総ての人の業を、ホリデーシーズンの賑わいを静かに見つめて、いつもの場所でいつものように、ツリーはただ黙して見続けていくのです。

*Rockefeller center(E50th st &fifth)

Serve

2011年12月19日 | 42nd st-
“We are Ladies and Gentlemen Serving Ladies and Gentlemen”こうポリシーを貫くホテルがあります。
それはRitz Carlton、あのRITZ PARISを擁する世界でも最高の評価を得るホテルグループです。その歴史は、1850年スイスにセザール・リッツが生まれたことから始まります。貧しい家に生まれた彼でしたが、成長して後ヨーロッパの数多くの有名ホテルでホテルマンとして働きます。彼はその中で客のニーズを細かくリサーチし分析確実に実現させる天分に恵まれていました。顧客を瞬く間に増やし世界の富豪や王族たちが彼の才能の虜となります。やがてリッツは、それまでの経験をベースについに自分の理想のホテルを作り上げます。それが、今も名声を欲しいままにしているHOTEL RITZ PARISです。1898年にオープンしたRITZ PARISは、「あらゆる面において世界中を旅する人々が我が家のように寛げるホテル』というコンセプトで作られ、一躍彼はホテル王と言われるようになります。
 1910年、Ritz Carlton New Yorkがオープンしました。Charles.Wetmoreの設計に、ニューヨークの不動産王Robert.Goeletが資金提供をしたといいます。パリ、ロンドンに続いて念願の地ニューヨークにホテルをオープンさせるにあたりある料理人が派遣されました。シェフの名前はLouid.Diat(1885-1957)、彼はパリ、ロンドンのリッツホテルで腕を奮っていた才能溢れる名シェフでした。
彼がメニューの考案の途中、ふと思いついたのがヴィシソワーズ。すっかり日本でもお馴染みになった冷たいじゃがいものポタージュスープです。それはフランスのヴィシー近郊出身であったLouid Diatが子供の頃、母親や祖母から教えられた料理の記憶から誕生したものでもありました。

ホテルは華やかな歴史を携えて1957年に取り壊され現在の地に移転しています。


*Ritz Carlton Hotel…(380.Madison ave,BW E46th &E47th st/NE)(Now Central Park south)