ある夏の終わり、ボストンを起点にニューハンプシャー州、そしてメイン州のシーコーストを周りました。メイン州に入り、地図を広げてみるとそこに一人の女性の名を冠した公園がありました。その名はRachel.Louise.Carson(1907-1964)。
レイチェル・カーソンは1907年5月27日、アメリカ・ペンシルバニア州に生まれました。地元の女子大学を卒業後、奨学金を得てジョンズ・ホプキンズ大学院に進み、動物生態学を学び修士号を得ています。理系分野に進む女性がまだ少数だった時代、先を切り拓くように、連邦漁業局で研究にあたり、さまざまな論文の編集を通じて人間を取り巻く「環境」の変動に焦点をあて、職を辞したあとは著作の執筆に専念しました。
「環境」という概念が未だ希薄で、それは永続的に人間に従うものであるという意識の濃かった時代、彼女がそれまで蓄積した豊富な知識と、緻密な調査の結果に基づいて発表した数々の著作は人々に大きな衝撃をもって迎えられました。その代表的なものが「Silent Spring」でした。
雑誌「New Yorker」に連載された「Silent Spring」は、避けては通れぬ地球と人間の置かれた現実は著述し大きな衝撃をもって迎えられました。当時、夢の農薬と謳われたDDTがその実、生態系に深刻な影響を与え自然の連鎖によって人体や地球環境に致命的な結果をもたらすものであると指摘、その中で彼女は次のように述べています。(カーソンが展開した様々な提起の中でもこのDDTに関する議論には今なお決着がついていないものもあります。)
「この地上に生命が誕生して以来、生命と環境という2つのものが互いに力を及ぼしあいながら生命の歴史を織りなしてきた。といっても、大抵は環境のほうが、植物、動物の形態や習性をつくりあげてきた。地球が誕生してから過ぎ去った時の流れを見渡しても、生物が環境を変えるという逆の力はごく小さなものにすぎない。だが、20世紀という僅かのあいだに、人間という一族が恐るべき力を手に入れて、自然を変えようとしている。」
当然のことながら、それまで大きな利益をあげていた農薬製薬会社などからは猛烈な抵抗や反対が起こりました。ここで政治の力が動き出します。カーソンの著作に賛同したネルソン議員らが立ち上がり直接、大統領に働きかけます。1962年、ケネディ大統領はDDTの使用について特別委員会を設置し調査を命じます。この後、環境保護という概念は地球共通の課題として全世界に向けて発信されていくことになりました。
カーソンはその後も環境問題に警鐘を鳴らし続けますが、1964年4月14日、乳ガンとの長い闘いの末、56年の生涯を閉じました。
この時期は国際関係上でも新たな局面にあたっていました。米ソ2大国が冷戦といわれる緊張関係に陥り、世界が東西に二極化する中、核開発競争が熾烈を極めていました。米国内においてもキューバ危機をはじめ、ベトナム戦争への介入など先行きの見えぬ混迷の時代の入り口に対峙していました。ケネディ大統領は1963年7月、アメリカン大学での講演の中で「世界の現在」を次のように語りかけています。
"For, in the final analysis, our most basic common link is that we all inhabit this planet. We all breathe the same air. We all cherish our children's future. And we are all mortal."
ケネディ大統領がその47年の生涯を閉じたのはこの演説から僅か4ヵ月後のことでした。
レイチェル・カーソンは1907年5月27日、アメリカ・ペンシルバニア州に生まれました。地元の女子大学を卒業後、奨学金を得てジョンズ・ホプキンズ大学院に進み、動物生態学を学び修士号を得ています。理系分野に進む女性がまだ少数だった時代、先を切り拓くように、連邦漁業局で研究にあたり、さまざまな論文の編集を通じて人間を取り巻く「環境」の変動に焦点をあて、職を辞したあとは著作の執筆に専念しました。
「環境」という概念が未だ希薄で、それは永続的に人間に従うものであるという意識の濃かった時代、彼女がそれまで蓄積した豊富な知識と、緻密な調査の結果に基づいて発表した数々の著作は人々に大きな衝撃をもって迎えられました。その代表的なものが「Silent Spring」でした。
雑誌「New Yorker」に連載された「Silent Spring」は、避けては通れぬ地球と人間の置かれた現実は著述し大きな衝撃をもって迎えられました。当時、夢の農薬と謳われたDDTがその実、生態系に深刻な影響を与え自然の連鎖によって人体や地球環境に致命的な結果をもたらすものであると指摘、その中で彼女は次のように述べています。(カーソンが展開した様々な提起の中でもこのDDTに関する議論には今なお決着がついていないものもあります。)
「この地上に生命が誕生して以来、生命と環境という2つのものが互いに力を及ぼしあいながら生命の歴史を織りなしてきた。といっても、大抵は環境のほうが、植物、動物の形態や習性をつくりあげてきた。地球が誕生してから過ぎ去った時の流れを見渡しても、生物が環境を変えるという逆の力はごく小さなものにすぎない。だが、20世紀という僅かのあいだに、人間という一族が恐るべき力を手に入れて、自然を変えようとしている。」
当然のことながら、それまで大きな利益をあげていた農薬製薬会社などからは猛烈な抵抗や反対が起こりました。ここで政治の力が動き出します。カーソンの著作に賛同したネルソン議員らが立ち上がり直接、大統領に働きかけます。1962年、ケネディ大統領はDDTの使用について特別委員会を設置し調査を命じます。この後、環境保護という概念は地球共通の課題として全世界に向けて発信されていくことになりました。
カーソンはその後も環境問題に警鐘を鳴らし続けますが、1964年4月14日、乳ガンとの長い闘いの末、56年の生涯を閉じました。
この時期は国際関係上でも新たな局面にあたっていました。米ソ2大国が冷戦といわれる緊張関係に陥り、世界が東西に二極化する中、核開発競争が熾烈を極めていました。米国内においてもキューバ危機をはじめ、ベトナム戦争への介入など先行きの見えぬ混迷の時代の入り口に対峙していました。ケネディ大統領は1963年7月、アメリカン大学での講演の中で「世界の現在」を次のように語りかけています。
"For, in the final analysis, our most basic common link is that we all inhabit this planet. We all breathe the same air. We all cherish our children's future. And we are all mortal."
ケネディ大統領がその47年の生涯を閉じたのはこの演説から僅か4ヵ月後のことでした。