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Never a dull moment

煌きのあの風景の向こうに…

Silent Spring

2012年03月02日 | person
ある夏の終わり、ボストンを起点にニューハンプシャー州、そしてメイン州のシーコーストを周りました。メイン州に入り、地図を広げてみるとそこに一人の女性の名を冠した公園がありました。その名はRachel.Louise.Carson(1907-1964)。
  レイチェル・カーソンは1907年5月27日、アメリカ・ペンシルバニア州に生まれました。地元の女子大学を卒業後、奨学金を得てジョンズ・ホプキンズ大学院に進み、動物生態学を学び修士号を得ています。理系分野に進む女性がまだ少数だった時代、先を切り拓くように、連邦漁業局で研究にあたり、さまざまな論文の編集を通じて人間を取り巻く「環境」の変動に焦点をあて、職を辞したあとは著作の執筆に専念しました。
「環境」という概念が未だ希薄で、それは永続的に人間に従うものであるという意識の濃かった時代、彼女がそれまで蓄積した豊富な知識と、緻密な調査の結果に基づいて発表した数々の著作は人々に大きな衝撃をもって迎えられました。その代表的なものが「Silent Spring」でした。
  雑誌「New Yorker」に連載された「Silent Spring」は、避けては通れぬ地球と人間の置かれた現実は著述し大きな衝撃をもって迎えられました。当時、夢の農薬と謳われたDDTがその実、生態系に深刻な影響を与え自然の連鎖によって人体や地球環境に致命的な結果をもたらすものであると指摘、その中で彼女は次のように述べています。(カーソンが展開した様々な提起の中でもこのDDTに関する議論には今なお決着がついていないものもあります。)

「この地上に生命が誕生して以来、生命と環境という2つのものが互いに力を及ぼしあいながら生命の歴史を織りなしてきた。といっても、大抵は環境のほうが、植物、動物の形態や習性をつくりあげてきた。地球が誕生してから過ぎ去った時の流れを見渡しても、生物が環境を変えるという逆の力はごく小さなものにすぎない。だが、20世紀という僅かのあいだに、人間という一族が恐るべき力を手に入れて、自然を変えようとしている。」

 当然のことながら、それまで大きな利益をあげていた農薬製薬会社などからは猛烈な抵抗や反対が起こりました。ここで政治の力が動き出します。カーソンの著作に賛同したネルソン議員らが立ち上がり直接、大統領に働きかけます。1962年、ケネディ大統領はDDTの使用について特別委員会を設置し調査を命じます。この後、環境保護という概念は地球共通の課題として全世界に向けて発信されていくことになりました。
 カーソンはその後も環境問題に警鐘を鳴らし続けますが、1964年4月14日、乳ガンとの長い闘いの末、56年の生涯を閉じました。
 この時期は国際関係上でも新たな局面にあたっていました。米ソ2大国が冷戦といわれる緊張関係に陥り、世界が東西に二極化する中、核開発競争が熾烈を極めていました。米国内においてもキューバ危機をはじめ、ベトナム戦争への介入など先行きの見えぬ混迷の時代の入り口に対峙していました。ケネディ大統領は1963年7月、アメリカン大学での講演の中で「世界の現在」を次のように語りかけています。

"For, in the final analysis, our most basic common link is that we all inhabit this planet. We all breathe the same air. We all cherish our children's future. And we are all mortal."
ケネディ大統領がその47年の生涯を閉じたのはこの演説から僅か4ヵ月後のことでした。

Hollywood in 1999

2012年02月28日 | person
1950年代、米ソ冷戦の激化によりアメリカに吹き荒れたこの赤狩りは、共産主義者の疑いのある者を糾弾し社会的に抹殺するに至らしめました。やがてこのあまりに極端で煽動的な風潮は収束に向かいますが、この時代がハリウッドに、アメリカに遺した傷はあまりに深くあまりに残酷なものでした。
赤狩りにより社会を追われた人々の名誉回復は、それからかくも長きをおいてようやくなされることになりますが、絶望と失意の中で心身を病む者、またその人生を閉じた者も少なくありませんでした。
世に名作を送り続け、新たな才能をスクリーンに送り込み続けたその卓越した映画人としての功績。彼によって見出された多くの才能の中の1人でもあったスコセッシやベイティは「功績は功績として認めるべき」と判断しました。映画人として彼がなしてきた称賛されるべき偉業、それらがスクリーンに映し出され、アメリカ映画を支え続けた巨匠カザンが紹介されていく中、それと同じ、いやそれ以上に思い起こされたあの「裏切り」の瞬間だったのかもしれません。
 スコセッシ、デニーロらに壇上に招かれオスカー像を手にしたカザン、客席と向き合う彼に向けられたのは賞賛と非難を混然とした場内の反応でした。ニック・ノルティやエド・ハリス夫妻は立ち上がることなく祝意を表すこともなく壇上を睨み続けました。

「そうすべきだったのか、そうすべきでなかったのか」・・・その当時を知らず、過去の歴史の一時期として捉える立場にあるものにとっては、共産主義に対し、制御不可能なほどのヒステリーに陥っていた当時の社会において、彼がとった行為とその後の「裏切り者」としての彼の人生、もしかしたら彼もまた犠牲者であったのかもしれない、そう考えることも出来ます。

あの日、受賞を敬意と賛意をもって応じた人々はそうした認識と、映画史にカザンが標した稀有な貢献に対して立ち上がり拍手をしたのでしょう。しかしながら、ではカザンを”犠牲者”というならば、時は経て世は変わったとはいえどあの時代、彼の行為によって苦痛と絶望の中に落とされ、その生涯を突然にそして大きく暗転させられた人々を何と称すべきなのか。あの日、受賞を侮蔑と非難をもって応じた人々にとっては、時は経て世は変わったとしても「1952」は終わっていなかったのです。

「....私はこれで静かに消えていきます」
オスカー像を手にしたカザンは受賞に際してのスピーチをこのように結び舞台を去りました。最後まで「1952」に触れることはないままに。
2003年9月28日、エリア・カザンはニューヨーク・マンハッタンの自宅でその94年の生涯に幕を閉じました。

*115.Central Park West(at W72nd st)

Hollywood in 1952

2012年02月28日 | person
 「紳士協定」、「欲望という名の電車」、「波止場」、「エデンの東」、「草原の輝き」 など映画史に残る不朽の名作の数々を世に送り出し、その社会性で世を斬った人。ジェームズ・ディーン、マーロン・ブランド、ウォーレン・ベイティ、ナタリー・ウッドらいずれも映画・演劇史に残る俳優たちを発掘し世に送り出した人。アーサー・ミラー、テネシー・ウィリアムズら名戯曲家たちの作品に息を吹き込み見事に花開かせた人。これらは全てある1人の人物がなしえたこと....

 1999年3月、映画の都ハリウッド最大の祭典であるアカデミー賞授賞式の会場、その中も外もを穏やかならぬ空気が支配していました。1人の映画人への名誉賞授与をめぐって。それはハリウッドが経験した最も困難で最も忌まわしく、未だ癒えぬ痛みの記憶を人々に再認識させることになりました。ある者は式への出席をボイコットし、ある者はその功績に対しては敬意を表すべきと式に祝意をもって出席し、ある者はその受賞の眼前でその沈黙をもって抗議の意を表明しました。名優リチャード・ドレイファスはこう声明を発表しました。
「カザンは賞賛を受けるべき人物ではない。彼は無害だったようにも見えるし、ひょっとすると正しかったように見えるかもしれない。でも本当は、彼は間違っていたし無害ではなかった。」と。

 エリア・カザン(Elia.Kazan.1909.9.7-2003.9.28)はオスマン帝国の首都であったイスタンブールにギリシャ人家庭に生まれ、政情の悪化を受けて家族と共にアメリカに渡りました。ウィリアムズカレッジからエール大学演劇科に進み、俳優としてそのキャリアをスタートさせます。その後、キャリアの幅を広げ、演出家、映画監督として華々しく活躍、特にユダヤ人問題に正面から切り込んだ「紳士協定」(1947)でアカデミー賞を受賞したことは、カザンにハリウッドでの揚々たる前途を約束するものでした。そして黄金期を謳歌していたハリウッドにあって彼は社会派監督として不動の地位を築きます。
 一方で彼が取り組んだのが演技を理論として捉え、その技法「メソッド」を教授するというシステムでした。そしてそれは従来のハリウッドスターシステムに一石を投じることになります。ブロードウェイの劇場街を抱えるニューヨークにリー・ストラスバーグらとアクターズスタジオ(432,W44th st)を設立、ここからジェームズ・ディーンやマーロン・ブランドらが巣立ち、ダスティン・ホフマン、ロバート・デ・ニーロら現代の名優と称される多くの俳優がそれに続いています。
 
 これほどの功を成し遂げた彼に、何故に人々はあれほどの複雑な反応をあえて示すことになったのでしょう。その答えは1952年4月にありました。

第二次世界大戦後、世界は東西対立という新たな局面にさしかかっていました。米ソ2大国を軸とした対立と緊張関係は「冷たい戦争」と呼ばれました。その中でアメリカにおいて吹き荒れたのがマッカーシズムでした。マッカーシズムはウィスコンシン州選出のジョゼフ・レイモンド・マッカーシー上院議員(R)が共産主義者によるアメリカの破壊を声高に訴えて共産主義者の排除を叫び、それらが冷戦の渦中にあって共産主義への疑心暗鬼と恐怖にとり憑かれたアメリカ国民の心理に深く作用したことから全米に拡大、その狂気を過激なまでに演出しました。後に20世紀の「魔女狩り」と称されることになる狂気の時代でした。

それに恰好の対象がありました。ハリウッドです。大衆への働きかけ、反共意識の浸透をはかるのにあらゆる階層に受け入れられていたエンタテイメント産業を標的にすることで、この明らかな偏向に劇的な意味づけを、「見せしめ」をなすことに成功しました。
非米活動委員会(House Un-American Activities Comittee)で行われた聴聞会で多くの文化人、映画人たちが喚問と追及を受けました。彼らの選択肢は限られていました。1つは自ら共産主義者であることを認めること、或いは証言を拒否すること、そしてもう1つは自らへの疑念を払拭するため他に知る共産主義者の名を密告することでした。カザンはこの後者にあたりました。彼は自らの過去の一時期、共産党員であった過去を持ち、このことから召還を受けます。1952年4月、彼は自らが潔白であることを証明するため、共産思想の疑いのある11人の名を委員会において表明しました。そう、彼は「仲間」を売ったのです。

*Actors studio(432.W44th st)

Unsinkable Molly

2012年02月28日 | person
Margaret.Tobin.Brown(1867.7.18-1932.10.26)の名を知らない人もタイタニック号の悲劇の中、果敢に救命活動に協力した不沈のモリー・ブラウンのことをご存知の方はいらっしゃるかもしれません。1960年代にヒットしたミュージカル「Unsinkable Molly」の主人公であり、映画「タイタニック」では名優キャシー・ベイツが演じたMolly.Brownは実在の人物であり、Mollyは彼女の生涯を通じた愛称でした。

 1932年7月18日、彼女はミズーリー州ハニバルにアイルランド系移民の貧しい家庭に生まれました。コロラド州に移り、後に夫となるJames.J.Brownと出会い結婚します。夫ジェームズが鉱山を掘り当てたことから、彼らは一躍大富豪の仲間入りを果たします。華やかな上流社会に憧れたマーガレットは夫と共にデンバーに移り、そこに大豪邸を建て、豪奢に飾りたてた社交を繰り広げていきました。しかし有り余る財だけで、閉鎖的な社交界には受け入れられることはなく、「成り上がり者」として陰口はやみませんでした。マーガレットはその壁を突破すべく社交術の教えを請い、また欧州に旅行を重ね、飽くなき上昇志向をもって社交界に受け入れられるべく努力を重ねますが、その固い扉が開かれることはありませんでした。
 夫の心はやがてマーガレットから離れて行き、別居に踏み切ります。夫妻は離婚こそしませんでしたが、和解のときを迎えることもありませんでした。
 1912年、パリでの滞在を終えシェルブール港に寄港したタイタニック号に乗船したマーガレット自らが乗船していた船の沈没という惨劇に見舞われたのが1912年4月14日。救命艇のオールを自らとり、パニックとショックに陥る乗客たちを叱咤激励し生きながらえたことから彼女はUnsinkable Molly(浮沈のモリー)と呼ばれるようになります。
タイタニックの悲劇の後もマーガレットは変わることなく「それまでのように」生き続けます。世界を旅し、慈善事業家としての活動や女性の権利の拡張を目指した活動も続けていきました。第1次世界大戦の際には従軍看護婦の募集に応募し戦地に赴くことを熱望しました。しかし拒否されたマーガレットは自腹をきってヨーロッパへ渡り前線で闘う兵士のもとへ駆けつけたといいます。疎遠になっていた夫の死後もそれは変わらなかったようです。

 1932年10月26日彼女はニューヨークのBarbizon Hotel(E63rd st&Lexington ave)で息を引き取ります。騒々しくも、全身でその人生を生きた女性の最期は、看取る者1人もいない静かなものでした。彼女は今、生前ついぞ理解し合うことのなかった夫の墓石の隣に眠り、ようやく邂逅のときを迎えています。
人は彼女の「飽くなき上昇志向」を時に侮蔑し敬遠しました。しかし、それは時に今なお語り継がれる彼女の’生き抜く力’に根ざした「飽くなき探究心」への称賛と表裏一体でもある、そんなふうにも思えてなりません。

* Barvizon Hotel(NE)...E63rd st&Lexington ave)

Diva

2012年02月27日 | person
瞬く間に今世紀最高の歌姫の座を手にしたマリア。そこからのストーリーはさまざまに語られるとおりです。世界の名だたる歌劇場が言葉通り「彼女の前にひざまずき」契約を重ねます。ウェイトコントロールにも成功し、外面的な美しさも手にいれたマリアはその奇跡の歌声と演技力であらゆるオペラのヒロインをより輝かせました。彼女はまさに頂点を極めようとしていました。世界にとどろいたその美声、王族や富豪たちが彼女の歌声を聞くために世界から集まってきました。
歌に生きた彼女の人生に運命の出会いが訪れたのが1959年、夫と共に招かれたギリシァの海運王アリストテール・オナシスからのクルージングの誘い。共に流れるギリシャ人の血、頂点を目指し他の何者も蹴落とす貪欲さ、磁石のように惹かれあった二人の関係はほどなく死まで続く愛憎の始まりを迎えます。
オナシスの前ではマリアは1人の女性でした。熱烈にオナシスを愛し、求め、そして何より愛されたいと願う1人の女性でした。オナシスを中心にまわる生活を送る中で歌姫は次第に舞台から遠のいていきます。ようやく自らの離婚が成立し、オナシスからのプロポーズを待つばかりの彼女にもたらされたのはオナシス再婚の報せ、相手は元合衆国大統領夫人ジャクリーン・ケネディ(1929-1994)でした。
 
オナシスを失ったマリアにとって最後の誇り、その奇跡の声が急速な衰えを見せ始めたのもこの時期でした。そのあまりに短い歌手生命の原因はあの奇跡の声を可能にした歌唱法が喉を酷使するものであったため、また極端なウェイトコントロールを施した後遺症とも言われています。そして自らの凋落を誰よりも受け止めなければならないのもまた彼女自身でした。
そんなマリアは1971年の秋、ニューヨークに戻ってきます。ジュリアード音楽院からの熱心な要請に応え、学院でのマスタークラスで講義するためでした。若く煌く才能たちを前にしてマリアの目は穏やかに彼らを見つめました。滞在中、彼女はプラザ(E59thst&5thave)のCentral Parkを見下ろす部屋で過ごしたといいます。
幼い日、父に連れられ楽しげに声をあげ、あるときは家族でピクニックに出かけた広大なセントラルパーク、母や姉と音楽に親しんだ市立図書館(42nd&5thave)、自らの家族のルーツの地を遙か海の向こうに眺めたバッテリーパーク、そして歌姫として喝采を浴び続けたメトロポリタン歌劇場での栄光の日々、彼女の胸には一体何が去来したのでしょうか。窓の外を静かに見つめ続ける彼女の背は何を物語っていたのでしょう。
 1975年3月15日、マリアが生涯をかけて愛し抜いたオナシスがパリでその生涯を終えました。ジャクリーンとの再婚後、一度は離別を選んだ二人の関係はほどなくして復活していたといいます。死の床にあるオナシスにマリアが見舞えるよう取り計らったのは彼の妹と娘でした。オナシスの死は彼女から最後の力を奪い去りました。

1977年9月16日、マリア・カラス逝去の報せが世界を駆け抜けます。パリ・ジョルジュマンデル通りにあるアパルトマンで独り迎えた孤独な死、享年53歳でした。
それは歌に生き恋に生き、そしてただ愛されることを求めて止まなかった1人の女性の早すぎる死でした。
*The Plaza(W59th&Fifth ave)
*NY Public Library(W42nd &Fifth ave)