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Never a dull moment

煌きのあの風景の向こうに…

Chic

2012年11月17日 | person
パーク街79丁目にある夫妻のアパートメントには故ダイアナ英国元皇太子妃やナンシー・レーガンら多くの著名人たちが集いました。美しいその内装もたびたびメディアに取り上げられ、マルグリッドの絵、ロバート・グラハムの彫刻や調度品に囲まれた豪華な室内は話題を集めました。子供たちが独立したあとは、その部屋がナンのクローゼットとして改装されていたといいます。
ハーパーズ・バザーやヴォーグ誌とも関わり、ティファニー社のデザインコンサルタントや名門オークションハウス「クリスティーズ」にも請われて籍を置き、世界各地で開かれるファッションショーに繰り出し、ランウェイを最前列から見つめる彼女の姿はそれだけでそのメゾンの名声に箔をつけることになりました。
その確かな審美眼と人を惹きつける魅力と人柄を保ち、ゆえにニューヨーク社交界に女王として君臨し続けたナン・ケンプナー。その一方で彼女はチャリティー活動にも熱心に取り組んでいたことでも知られています。2000年に出版された彼女が携わった著作"R.S.V.P.: Menus for Entertaining From People Who Really Know How"の売り上げは、全てスローン・ケタリング病院に寄附されています。
 長年の喫煙から肺疾患に悩まされていた彼女(その始まりは14歳だったとか)、晩年は症状の悪化により入退院を繰り返すようになり、ここ数年は酸素吸入器が手放せない状態にあったといいます。それでも彼女の舞台は常に世界にありました。そしてその舞台で前を向いて駆け続けることを望んだのも彼女自身でした。
Optimistを貫いたナン・ケンプナー。医師の説得すらそれにブレーキをかけることは出来なかったようです。2005年、75歳の誕生日も近い7月3日、彼女は長く暮らしたパーク街の自邸で肺気腫のためこの世を去りました。その死は世界に発信され、哀悼と惜別の言葉が次々と届けられ、彼女の幅広い広い交友関係を改めて世に示すことになりました。
"She was the most stylish woman in New York, and certainly the most elegant one,New York will miss her, and so will I.."
デザイナーDiane.von.Furstenbergはこう語り、彼女の死を悼みました。

そしてナンが1962年の初コレクション以来、欠かさずにショーを訪れ親交を結んだサンローラン、彼の悲しみを代弁したビジネスパートナーPierre.Berg・は次のように声明を発表しました。
"She was a true friend and very faithful.She was very elegant and generous. She belonged to an era that no longer exists. An era of the caf・ society and women who went back and forth from St. Moritz to Nassau. She had a free spirit. And she was always a great champion of creativity. Yves and I are both very sad."

*Apartment….(895.Park ave at E79th st)
*Metropolitan Museum of Art
*Swifty’s….(1007.Lexington ave at E73rd st)

Style

2012年11月16日 | person
"There are no chic women in America. The one exception is Nan Kempner." 
かつて、ヴォーグの名編集長Diana.VreelandはNan.Kempnerについてこう評しました。また生前、彼女自身はよくこう口にしたといいます。"I tell people all the time I want to be buried naked. I know there will be a store where I'm going."
 彼女のワードローブを彩った”STYLE”の数々。サンローラン、ロシャス、グレ、シャネル、ヴァレンティノなどメゾンの数知れず、そしてマノロ・ブラニクにクリスチャン・ルブタンのハイヒールで颯爽と世界を駆け巡ったその生涯。ニューヨーク社交界に長く女王として君臨し続けたNan.Kempner。
彼女は1930年7月24日、カリフォルニア州サンフランシスコで誕生しました。「私はニューヨークに長く暮らしているけれど、心の中ではいつもサンフランシスコを懐かしく感じているわ。」と彼女は後に語っています。裕福な家庭に育った彼女は、大学進学までをサンフランシスコで過ごし、その後、コネチカット女子大学に進学しました。自動車ディーラー会社を経営し成功を収めていた父と社交家の美しい母の間に誕生したナンでしたが、あるとき父から「私似のお前の容姿にはまるで見るべきところがない。他の何かを身につけるように。」と諭されたといいます。
大学在学中にパリに留学を経験しソルボンヌに籍をおきましたが 学業の方は誉められたものではなかったようで「君には才能がない、親の金をこれ以上、無駄遣いしないうちに帰りなさい」と言われていたとか。後年、彼女は当時を「まったくもって優しさのかけらもない。でもそれはまったくの事実だったわ。」と回想しています。
 それでも彼女が生来持っていた個性、魅力、スタイルはパリで開眼したといってもよいのかもしれません。1952年、投資銀行家Thomas.L.Kempnerと結婚します。夫はウォール街でも名を知られた投資家、2男1女に恵まれた夫妻の結婚生活には別居や浮き沈みもあったものの金婚式を迎え、彼女の死のときまで続きました。

Collection

2012年09月03日 | person
不沈のモリーと同じく、あのタイタニックの悲劇に遭遇したある人物のエピソードを続けて…
氷の海に沈んだ悲劇の豪華客船タイタニック。その乗船者リストの中に一人の男性の名前がありました。Benjamin.Guggenheim(1865.10.26-1912.4.15)。彼はグッゲンハイム美術館の創始者Solomon.R.Guggenheimの弟にあたります。
プレイボーイとしても有名であった彼は、愛人と共にシェルブール港に寄港したタイタニック号に乗りその航海で惨劇に見舞われます。愛人を救命ボートに乗せ、自らはここまでと悟ったベンジャミンは船室に戻り、救命胴衣を脱ぎます。そして夜会服に着替えたベンジャミンはこう語りかけます。
“We've dressed in our best, and are prepared to go down like gentlemen."
そして
"Tell my wife I did my best in doing my duty."
と言い遺し、タイタニックと運命を共にし、深く海の底に消えていきました。僅か46歳の生涯でした。

ベンジャミンには三人の娘がいました。Peggy Guggenheim collectionで知られるのが次女Marguerite.”Peggy”.Guggenheim(1898.8.26-1979.12.23)です。
1920年にパリに渡った彼女は多くの芸術家や文芸家、またその卵たちと広く深く交流します。当時、彼らの多くがパリのモンパルナス地区で芸術活動を共にしていたことから、彼らはモンパルナス派とも呼ばれます。モンパルナスはいわば才能の宝庫として時代の到来を待ち構えていたのです。1938年、ペギーはロンドンに移り、そこでギャラリーを開いてジャン・コクトー展を企画します。そしてピカソ、マグリット、エルンスト、ミロ、ダリ、シャガール、カンディンスキー、ポロックらの才能を高く買って絵の購入を続け、支援しますが第二次世界大戦が勃発し、ナチスの迫害から逃れるため、彼女はニューヨークに戻ります。
大戦の終結を待ってペギーは単身ベニスに旅立ちました。時代は到来し、ペギーが見抜いていた新たな才能が次々に世界に認められていきます。前衛派、抽象主義、シュールリアリスムが美術史の大きな分岐点を演出します。
彼女はその膨大なアートコレクションをPeggy Guggenheim collectionとしてベニスのパラッツォに展示します。1976年12月、ペギーはベニスで永遠の眠りにつきます。その遺言に自らのコレクションの相続と管理を、ソロモン.R.グッゲンハイム財団に指定していました。今、彼女は自身の所有した広大な敷地の一画で愛犬の墓のそばで静かに眠っています

*Guggenheim Museum of Art(1071.fifth@E89th st)
*Marriott East Side(525.Lexington ave@E49th st)....Built in 1924 as the Shelton Hotel,Peggy lived here with Max.Ernst.

Villard House

2012年06月08日 | person
ニューヨークミッドタウン、華やかなマディソン街に重厚なブラウンストーンの建物が今も残ります。現在そこはManhattanでも指折りの高級ホテルとして数えられるNew York Palace Hotelのエントランスとして今日も多くのゲストたちを出迎えています。
その地に歴史を刻んだのは1881年。Henry=Villardが土地を購入したことから始まりました。設計はMckim,Mead&White事務所に委ねられ、イタリアンルネサンス様式を取り入れた三階建てのこの建物は6つのハウスからなる分譲マンションだったようです。完成は1885年のことでした。
ヘンリー・ヴィラード(1835.4.10-1900.11.12)はドイツにそのルーツを持ち、1853年にアメリカに移住しました。イリノイ州シンシナティでジャーナリズムの世界に活路を見出し、成功を収めます。その後、恵まれた才能を生かして金融業や鉄道業にも進出、ヴィラードはグールド、ヴァンダービルト、ハンティントンらと並び称されるまでになりました。しかし、やがて先行投資と実際の操業のバランスが崩れ、破産の憂き目にあいます。
富の神の気まぐれはいつの世にもあるようで、やがて幾分かの財産を回復しGE社の重役をつとめました。妻ヘレンとの間に生まれたOsward=Garrison=Villard(1872-1949)はジャーナリストとして活躍しました。
 その夢の邸の建設が始まったとき、彼は人生の絶頂期にありました。その僅か3年後に破産、無一文に近い状態で建築途中の邸に逃げるように身を隠す他なくなりました。債権者たちが邸を取り囲み、心身ともに追い詰められたヴィラードは病に臥しました。1885年に邸は完成しましたが、最早そこは彼の「夢の邸」ではありませんでした。彼は家族と共にこの邸宅から去り、二度と戻ることはありませんでした。
「私は何の後悔もなしにこの邸を去る」の言葉を残して…。

*New York Palace Hotel(Madison Ave at E51st st)

King

2012年03月03日 | person
Martin.Luther.King.Jr(1929-1968)は、ジョージア州アトランタのバプティスト派教会の牧師の家に生まれました。聡明に成長した彼は、父と同じ牧師の道につき、アラバマ州モンゴメリに移りそこで公民権運動に参加し始めます。
自由と平等の国アメリカ。しかし人種間の隔たりは大きく、特に南部諸州においては未だ人種隔離政策が採用されていました。1955年のローザ・パークス事件以降、公民権運動は一気に拡大し全米に広がっていきます。キング牧師を中心とした人種差別の撤廃と人種の共存を目指したその活動は非暴力による抵抗運動を展開していきました。
1961年、民主党の大統領候補であったケネディが当選し、政権が誕生したこともそれを後押ししました。ケネディ政権はそれまで手つかずのまま先送りにされてきたその最も基本的な国家課題と対峙します。1963年6月、ケネディ大統領は全米に向けて次のように語りかけました。
「我々は今、国家として道徳的危機に直面しています。リンカーンが奴隷を解放してから100年の時が経過しているというのに、その子孫はいまだに完全に自由ではありません。彼らは不正義の枷から自由にはなっておらず、社会的・経済的圧迫から解放されていないのです。アメリカが何を誇示しようが、全ての国民の自由が達成されなくては完全に自由な国家とは言えません。」
第二の奴隷解放宣言ともいわれるこの声明を受け、ついにキング牧師と大統領との面会が実現し、同年8月の歴史的なワシントン大行進に続きます。奇しくもその年はリンカーン大統領により奴隷解放宣言から100年を数える年でもありました。
11月、その志半ばにケネディ大統領はテキサス州ダラスで凶弾に倒れましたが、後を継いだジョンソン政権にその遺志は受け継がれ、1964年、ついに人種によるあらゆる差別を禁止する公民権法が制定され、翌年には投票権法も制定されました。それらの活動によりキング牧師は、1964年ノーベル平和賞を授与されています。
そのキング牧師がかつて演説を行ったのがRiverside Church(Riverside drive&W120th st)です。ロックフェラー家の寄附により建設されたこの壮麗な教会は、1927年に建設が始められ1930年に完成しています。バプティスト派の教会ですが、毎週日曜日の午前、超宗派による礼拝が行われています。そびえる尖塔と鳴り響くカリヨン、そして見事なステンドグラスも必見です。
1967年4月4日、彼はここで当時、泥沼に陥っていたベトナム戦争について反戦の立場を明らかにした上で”A time comes when silence is betrayal”それは「沈黙は裏切りである時が来た」こと、遠くベトナムに派兵されて行った兵士たちに思いを寄せ、今こそ行動を起こすことを訴えかけたのです。
生涯を通して「行動すること」を身をもって示し続けた1人の偉大な先導者の抱き続けた「夢」への旅が卑しむべき弾によって断たれたのはその1年後、1968年4月4日のことでした。

*Riverside Church... RSD&W120th st