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Never a dull moment

煌きのあの風景の向こうに…

Team

2013年01月30日 | person
1960年11月、マサチューセッツ州ハイアニスポート。アメリカ大統領選挙の開票が進む頃、あの一族がその結果を今か今かと固唾をのんで見守っていました。そのシーンの一つ一つを丹念に撮り続けたのがJack.Lowe。彼の写真を通して、我々は権力の頂点に向って正に「極める」一族の力の結集のさまを今も鮮やかに感じることが出来ます。王室を持たないアメリカにあって、今なお伝説として、また生きた伝説として衆目を集める’The Kennedy’s’’。
長兄亡きあと、一族の期待を一身に受け、ついに民主党大統領候補となった次男ジョン、その妻ジャクリーンは第二子の誕生を間近に控えていました。三男ロバート、その妻エセル、そして四男エドワードとその妻ジョウン。後にケネディ王朝と称された一族の栄光の歴史がいよいよその最高潮を迎えようとしていました。鮮烈な印象を残す兄弟とその妻、しかし王朝はそれだけで築き上げられたものではありませんでした。
ケネディ家の最も長い夜に一族の地所に集ったもう最強の支持者、それがケネディ姉妹でした。ユーニス、パトリシア、ジーンと彼女らの配偶者は、それぞれジョンの大統領選挙活動の重要な柱として一族の悲願に邁進していたのです。
Patricia.Kennedy.Lawford(1924.5.6-2006.9.17)は、マサチューセッツ州ボストンのブルックラインで生まれました。パトリシアの美貌は姉妹の中でもよく知られ、また父ジョゼフは、「パットは我が子の中で一番ビジネスに長けている」とその才覚を評価していたといいます。大学を卒業し、世界をめぐる日々を送る中、姉ユーニスの紹介で知り合ったのが、英国出身の俳優ピーター・ローフォードでした。ピーターは当時、スター女優とも多く共演する人気俳優で、フランク・シナトラやサミー・デーヴィス・ジュニアらとの親交も深く、まさに黄金期を迎えていた華やかなハリウッドを演出する一人でした。2人は交際を始め、ほどなくして結婚を決めますが、信仰に特に篤かった母ローズはピーターが俳優であること、また何よりプロテスタントであることに難色を示しました。生まれてくるであろう子供たちをカトリック教徒として育てることにピーターが同意したため、ほどなくしてローズは結婚を認めました。
かつてローズは、次女キャスリーンが英国貴族との結婚を望んだとき、同様の理由で猛反対しあくまで自らの意思を貫いたキャスリーンを絶縁しました。デボンシャー公爵夫人となったキャスリーンでしたが夫は戦死、やがて別のロマンスも囁かれたものの飛行機事故によりその短い生涯を終え、ローズとの和解はついぞ叶いませんでした。ローズにとってこの出来事は生涯痛恨の記憶として強く残っており、宗教に対する強硬な姿勢に柔軟さがもたらされていたともいわれています。
1954年4月、ニューヨークの聖トマスモア教会で2人は挙式、教会の外は大勢の見物人で溢れたといいます。式にはケネディファミリーも勢揃いし、華やかな宴がプラザホテルで催されました。その後、夫妻は西海岸に移り新婚生活をスタートさせました。黄金期を迎えていたハリウッドの煌びやかな世界に話題を提供する一方、パットはあくまでケネディ家の一員でした。東海岸では兄ジョンの合衆国大統領選出馬への計画が着々と進められていました。

*The Plaza…Central Park South & Fifth Ave
*The Roman Catholic Church of St Thomas More…65.E89th

Poker Master

2013年01月11日 | person
1942年3月1日、ニューヨーク東86丁目にあった母のアパートメントでベッツィは二度目の結婚をします。相手はJohn(Jock).Hay.Whitney。名門ホイットニー家の出身で、母方の叔父Oliver.Hazard.Payneからの莫大な遺産を引き継いだ大富豪でした。結婚後、夫妻はワシントンに移り、1952年には駐英大使として英国に赴任しエリザベス女王夫妻らと親しく交わりました。この頃までにホイットニーはベッツィの2人の娘との養子縁組手続きも済ませていました。
マンハッタンをはじめ、サラトガ、オーガスタ、フィッシャーアイランドなど全米各地に自邸を有したホイットニー夫妻でしたが、最も愛したのがロングアイランドのマンハセットにある邸宅でした。姉妹らが社交界を華やかに彩るのとは逆にベッツィは表舞台から姿を消すように静かな日々を送ります。ジョックが両親から引き継いだその土地はもともと、父Payne.Whitneyが結婚祝いとして妻Helen.Hayに贈ったものでした。

 ’Greentree’と名づけられたこの広大な邸宅は、ベッツィの差配のもとお抱えの使用人らによって美しく手入れされ、多くの客人らを楽しませたといいます。娘の一人は「ホワイトハウスよりグリーンツリーが素晴らしい」と語ったことがあります。
‘世界で最も裕福な男性’の一人に数えられた夫ジョックの華やかな女性遍歴は結婚後も消えることはなかったようですが、夫妻は生涯の伴侶として互いに歳を重ねることになりました。1978年、愛する姉妹が相次いでこの世を去り、1982年2月6日には夫ジョックが息を引き取りました。ベッツィは遺された巨額の遺産を相続し、夫が生前から携わっていた慈善事業に続けて取り組み、医学、また芸術分野への支援を惜しみなく続けました。ホイットニー家が収集していた貴重な絵画コレクションの数々はワシントンのナショナルギャラリーをはじめ、ジョックの母校エール大学などに寄贈されました。

 そして1998年3月25日、ベッツィは静かにこの世を去ります。ベッツィの亡骸は、彼女が愛したマンハセットの地で、先に逝った夫ジョックの隣に葬られ、寄り添うように穏やかな眠りについています。娘サラはベッツィの葬儀で、母と紡いだ暖かな思い出を振り返りながらこう語りました。「母は議論の余地なく’ポーカー’の達人でした。」その穏やかで質素にすら見える佇まいの奥でベッツィはどのような思いを秘めていたのか。激しく遷り変わった自らの人生、やがて光に追われ続けた自身から必死に逃れるように属する世界を区切って生きた、それもまたベッツィの処世術だったのかもしれません。

*The Christ Church(Manhasset.Nassau county)...Mr&Mrs John Whitney were buried.

Cushing sisters

2013年01月10日 | person
かつて’Cushing Sisters’と呼ばれ社交界を彩った美しき三姉妹がいました。その陰りのない華やかな姿は大いなる羨望を誘い続けました。
姉妹の名はMinne、Betsey、そしてBarbara。彼女たちの歩んだ足跡なるものはどのような物語に彩られたいたのでしょうか。

「バーバラは最も美しく、ミニーは最も芸術的で、ベッツィは最も正統派だった。」三姉妹を評した言葉が残っています。三女バーバラは自身がファッション業界との関わりも深く、二度目の夫が放送事業に重きをなしたWilliam.Paleyであったことから、メディアへの露出も多くさまざまな媒体で華やかに取り上げられていました。長女ミニーは、芸術への造詣が深く、再婚相手に選んだのも芸術家であり、また長くメトロポリタン美術館の評議員を務めるなどしました。一挙一動を追われる二人の姉妹に比して、次女ベッツィの存在は少し性質を異にしているようです。

 Betsey.Cushing.Roosevelt.Whitney(1908-1998)は1908年5月18日、ボルティモアに生まれ、その後ボストンで成長します。両親は共に良家の出で、父Harvey.Cushingは当代随一の脳神経外科医で、エール大やハーバード大で研究にあたっていました。母Katherineは三人の娘たちにより良き結婚のための教育を徹底し、’Social Climbing’を仕向けて社交界への後押しを熱心に進めました。
1930年6月5日、ベッツィは最初の結婚をします。相手は後の合衆国大統領Franklin.Delano.Rooseveltの長男Jamesでした。ルーズヴェルト家は、ニューヨーク郊外ハイドパークに広大な土地を持つ地主で、28代合衆国大統領Theodore.Rooseveltを輩出したオイスターベイ・ルーズベルト家とは先祖を同じくするニューヨークの名家でした。
ベッツィはジェームズとの間に2人の娘をもうけ、義父フランクリンはやがて合衆国大統領に就任、不在がちな大統領夫人エリノアに替わってホワイトハウスで女主人役をつとめることも度々ありました。義母との仲は円満とは行かなかったようですが、義父にとってベッツィはお気に入りの嫁だったようで、ジョージ6世英国国王夫妻がハイドパークに大統領を訪問した際には、ベッツィを同伴して接待をこなしたといいます。一見して幸福に見えたベッツィの結婚生活でしたが、実際は問題も多く抱えていました。夫が新たな事業を興すためハリウッドに移り、映画産業に携わるようになるとベッツィは2人の娘と共に夫に従いましたが結婚生活は破綻に向い、1940年には離婚を申請し受理されました。娘の親権を得たのはベッツィでした。ジェームズは離婚後、幾度か再婚を繰り返しましたが、娘たちに会うことはなかったといいます。

wonderful big man

2013年01月09日 | person
1890年頃、モルガンの前に一人の女性が現れました。彼女の名前はEdith.Randolph。裕福ではなかったものの名家出身で、夫を亡くし遺児を育てる若き未亡人でした。モルガンはイディスらを伴に趣味のクルージングや、旅行に出かけるようになりました。2人の関係は5年ほど続きましたが、やがてモルガンが公然とイディスを同伴して社交界に出入りするなどしたため、フランシスがついにモルガンに関係の清算を通告します。フランシスの日記に残されたイディスに関する唯一の記述は'Spoke to P. About Mrs.R’でした。「家庭を乱すべからず」その一線に触れたモルガンに妻の冷たく鋭い轍が下されたのでした。
イディスはモルガンと別離後の1896年、名家ホイットニー家当主であり、海軍長官を務めるなどしたWilliam.Collins.Whitney(1841-1904)と再婚します。もっともホイットニーとの交際はフローラ夫人の存命中から続いていたともいわれています。夫を失い未だ若く、財政的後ろ盾を持たぬイディスにとって、それは当時の社会環境を鑑みて人生を生きる術でもあったのかもしれません。しかし晴れてホイットニー夫人となったイディスの人生には程なくして大きな悲劇が待ち受けていました。
その後、妻フランシスは長い療養生活に入り、夫妻が伴だって社交界に現れることはなくなっていきましたが、モルガンは生涯モルガン夫人としてのフランシスの体面を重んじ、金銭的援助も惜しむことはなかったといいます。1890年代に入り、モルガンの生涯の最後を彩った女性がAdelaide.Louisa.Townsen.Douglasでした。アデレイドは上流階級の出身でイディスの旧友、美貌はイディスに及ばぬものの、周囲を惹きつける魅力と、その情熱的で徹底した’人生’を楽しむ生き方はモルガンがまさに必要とし、願うものでもありました。1910年、マレーヒルの一画に一軒の邸宅が建設が始まりました。モルガン邸からもほど近い場所に建てられたこのタウンハウスは、建築家Horace.Trumbauerにより設計されたもので、邸宅の女主人はアデレイド、完成にかかる費用はモルガンが支払ったといわれています。また同じ頃、モルガンはアデレイドに対し巨額の信託基金を準備しました。邸宅にはモルガンが訪れるときのための裏扉があり、その訪問のときには子供たちは姿を消すよう言いつけられたといいます。
1913年3月、モルガンは渡航先のローマで客死します。娘ルイーザがその死を看取りました。遺言には家族をはじめモルガンがその生涯で関わった様々な人々や団体に至るまで、遺産の分配について細かく配慮されていたといいます。
金融王と称され、合衆国大統領ですらその一挙一動に杞憂し、ひいては全世界に多大な支配力を維持し続けたJ.P.モルガン。一方で人生を謳歌し、生来のロマンチシズムを生涯を通じて持ち続けた素顔のモルガン。毀誉褒貶する帝王を評するに確たるのは、次のような言葉かもしれません。

"He was without doubt a wonderful big man and I don’t think there’s anything fine enough we can say about him.”

*Townhouse(J.P.Morgan)…231.Madison ave@E37th st
*Townhouse(Adelaide.T.Douglas)…57.Park ave@E37th st

Morgan

2013年01月08日 | person
世界の金融界を支配し、帝王の座に君臨した稀代の金融家、彼の名はJohn.Pierpont.Morgan(1837.4.17-1913.3.31)。
今に残る彼の肖像や写真、またエピソードから伝わる圧倒的なその存在感はなお鮮やかです。

彼の生涯を綴った伝記の多くが割かれるビジネスパーソンとしてのモルガンの足跡に、相反するように刻まれたモルガンの’一個人’としての素顔ははたしてどのようなものだったのか。モルガンを個人として囲んだ女性たちはさてどのような面々だったのか。

若き日のモルガンが恋に落ちたのがAmelia.Sturges(1835-1862)。アメリアに強く惹かれたモルガンでしたが、彼女は既に結核に冒されていました。しかしモルガンはアメリアとの結婚を実現し、懸命に看病します。僅かの後、運命は残酷な別れを用意して2人の人生を閉ざしました。
アメリア亡きあとの1865年5月、モルガンはFrancis.Louisa.Tracy(1842-1924)と再婚します。物静かで貞淑なFrancisとの結婚はモルガンに安らぎをもたらし、夫妻は四人の子供に恵まれました。しかし、年月を重ねるごとにもともと趣向の違った二人の間の溝が深まりモルガンはますます仕事に没頭し、華やかなニューヨークでの生活を好み、また行動的に世界を旅して廻ったのに対し、フランシスは子供たちと一緒に郊外での穏やかで静かな時間を望むようになり、また夫が情熱を傾ける美術収集への関心も高くありませんでした。夫妻は互いの帰国を待って交互に渡欧するなど、結婚生活は暗礁に乗り上げていきました。
とはいえ当時、モルガンの属する’’社会’において、離婚という選択肢は賢明なものとはいえず、またモルガン自身にもそのような意思はなかったといわれています。モルガンはエピスコパル派教会の熱心な支援者であり、また保守的思想を重んじる大銀行家でもありました。彼は妻と離婚することはなく、公式な場では夫妻として振る舞い家庭を軽んじることなく、私的には妻とは別に、友人やまた愛人らに囲まれての生活を謳歌していたようです