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Never a dull moment

煌きのあの風景の向こうに…

Family

2010年06月03日 | Lower Manhattan
 クラレンス・W・バロンは1855年7月2日、マサチューセッツ州ボストンに誕生しボストンで育ちました。苦学の末、Boston Dairy Newsをはじめ新聞業界での仕事に生涯を通して携わることになります。努力の末、成功を収めた後、1900年にJessie.M.Waldonと結婚します。彼女は再婚で既に2人の子供JaneとMarthaの母親でした。クラレンスは結婚と同時に2人を養子縁組しています。Jessieは1918年にこの世を去り、2人の娘は共に上流階級に属する相手と結婚しますが、ジェーンがボストンの名門バンクロフト家に嫁いだことはクラレンスにボストン社交界への扉を開くことになりました。バンクロフト家はボストンブラーミンと呼ばれるボストン最上流階級に属しました。

「ボストンブラーミン」またの名をthe First Families of Boston。要するにボストンの誕生から今に至るまで、ボストンにおける支配的階級に属する人々を指し、彼らの影響力はニューヨーク、フィラデルフィアなどの社交界にも轟いていたといいます。
1903年、クラレンスはニューヨークにあるダウジョーンズ社の株主となります。そして1912年のチャールズ・ダウの死去に伴い、自らが社主に就任しました。彼は最新の印刷技術を導入、培ってきた経験に基づいたスキルを改革に活かし社に新風を吹き込みます。時はあたかも米国経済が繁栄の極みを謳歌しようとしていた頃、時の情勢にも味方されウォールストリートジャーナルの発行部数は飛躍的に伸ばし、同時にダウ・ジョーンズの名は世界に轟くことになりました。そして1928年に自身がこの世を去るまでクラレンスは大きな支配力を維持し続けました。
その死後、クラレンスの後を引き継いだのが娘ジェシーの夫ヒュー・バンクロフトでした。ヒューは社主に就任、親友ケネス.C.ホガートをジャーナルの編集責任者に据えダウジョーンズ社の発展に貢献しました。
  
 2007年7月19日、ダウジョーンズ社はマードック氏率いるニューズ・コーポレーションからの6000億円を超える買収提案を基本的に受け入れることを正式に決定しました。買収に関してダウジョーンズ社の、特に反対派が難色を示し続けた最大の焦点がマードック氏が「将来的な新聞媒体からの撤退」「編集権への介入」。ダウ、ジョーンズ、、バロン、そしてバンクロフトへと引き継がれた精神は、世紀を経てどのように導かれて行くのでしょうか。

Dow

2010年06月02日 | Lower Manhattan
ニューヨーク、マーケット、ウォールストリート、そしてこのワードをつなぐダウジョーンズ。
1885年に設立されたダウジョーンズ社(15.Wal lst)はチャールズ・ダウとエドワード・ジョーンズ、そしてチャールズ・バークドレッサーの三人がウォールストリートで取り扱われる株式の取引の動向を分析した手書きのペーパーを配布したことが始まりだったといいます。アメリカ経済の成熟に伴い株式制度も整備されていく時流と共にダウジョーンズ社は発展を続け、1896年には社の名から「ダウ工業株平均株価」が採用され、ニューヨーク株式市場の指標とみなされるようになりました。1899年、Wall street journalが創刊されています。
 Charles.Dowは1851年11月5日、コネチカット州の郊外で誕生しました。農業を生業としていた家族の暮らし向きは楽ではなかったようです。6歳のとき、父親が他界しています。教育を受ける機会にも恵まれないままでしたが、早い段階で自らの進路についてジャーナリズムの道に進むことを心に誓っていたようです。マサチューセッツ州の小さな編集社でアシスタントとして採用されて後、いくつかの社でスキルを磨いていきます。誇れる学歴はなかったものの、それに勝る経験を積んだチャールズ、その努力は少しずつ彼の将来を明るく照らし出すことになりました。
 1880年、チャールズはニューヨークに移ります。そしてかねてから仕事を通じて信頼関係のあったEdward.Davis.Jonesと起業、キャンディショップの地下で、4人の従業員と共に始まったのがダウジョーンズ社でした。社の発展に伴いパートナーに加わったのがCharles.M.Bergdresserでした。
 1899年に社名にその名を刻み、ヘンリーが引退、1902年には数年来、体調の悪化が続いていたチャールズも引退、ボストン出身の経済紙発行者Clarence.Dillonに社を譲り渡しました。チャールズが最後に彼が愛着を持って関わり続けたジャーナル紙に別れを告げるようにペンを置いたのが1902年4月、それから年を越えずしての12月、彼はこの世を去りました。Wall Street Journalは大きな転換期を迎えることになります。Dow&Jones社が迎えた大きな転換期、それは創業者の死と共にやって来ました。

次なる継承者が舞台に登場します。Clarence.W.Barron(1855-1928)の登場です。
 
*15.Wall st/CNR Broad st&Wall st<NE>

Fade Out

2010年05月27日 | Lower Manhattan
Fulton Fish Market、かつてそこは活気と熱気に満ちたNYはもとより全米随一の魚市場でした。1822年から既にその営業は始まっていたといいます。イーストリバーに面したLower EastsideのFulton stに連なるこの市場は大西洋に繰り出す漁船の船着き場でもありました。Fultonの名はRobert=Fulton(1765-1815)に由来しています。彼は蒸気船を実用化しその後それを利用した船の運行の独占権を手にしました。Fultonは1815年にこの世を去りその亡骸はTrinity Churchの墓地に眠っています。
 さて、市の制度が確立され、街が成熟していく中で古き時代からの名残や場所は整理され改められていきました。Fulton Fish Marketも例外ではありませんでした。犯罪都市の筆頭に挙げられ荒廃しきったNYに治安改善と市政刷新を唱えて登場したジュリアー二市長の指揮のもとこの市場の閉鎖と移転が計画されました。現在の衛生基準を満たす設備が整えられていないことが大きな理由とされましたが、この市場に連なるマフィア組織との連鎖を断ち切る目的があったともされています。
移転先はSouth Bronxにあるハンツ地区、広大な敷地に最新鋭の設備が整えられ、高速道路からのアクセスも至便な場所にあります。
 家族代々でかつての繁栄の地で営業を続けてきた関係者の1人はにじみ出るような物寂しげな表情で遠く先を見つめてこんな言葉を語りました。
「…どうせ少しとしないうちにここにはどでかいホテルやビルが建つのさ。」
頑ななまでに絶大なる愛着と誇りをもって古きを尊ぶ人たちが今も確かに存在する、そしてそれも進化と最先端の街NYの偽らざる表情でもあることをその達観したような言葉は教えてくれました。2005年11月14日、多くの人々の語りつくせぬ思いを詰め込んだままMarketは完全にその営業を停止しました。

また一つNYの懐かしき風景が、静かに流れる歴史の中に導かれていきました。

Wall

2010年05月21日 | Lower Manhattan
マンハッタン島南Lower Manhattan、その一画のある通りの名がWall st。アメリカ経済の中心地NY、その中心の中心、いわば心臓部分にあたるのがこの通りです。かつては英国ロンバード街が世界経済を牽引していたとされますが、今ではその座はこのウォール街にあるとされています。その名Wall=壁に由来する歴史は17世紀後半に遡ります。ニューアムステルダムに入植したオランダ人たちが先住民族ネイティブアメリカンや、入植してきた英国人からの攻撃に備え、木材などを用いて防壁を建築したことがその始まりと言われています。

Wall stを中心としたこのエリアはLower Manhattanの中でも特にFinancial Districtと言われています。NYSE(NewYorkStockExchange)、FRB(Federal Reserve Bank)をはじめ、世界各国、大小さまざまの金融機関がここに集中しています。その役割と影響力の強さはこの狭く長さにすればわずか数の通り、そこでは今日も取引開始のベルの音と共に数々のドラマが生み出されています。

September.11.2001、あのときわずか数ブロック先にはその悲劇の舞台がありました。その報せを受けた米国証券取引委員長とNY証券取引所会長は即協議し、取引開始を遅らせることで一致しましたが、刻々ともたらされるのは予想や想像を絶するものでした。多くの市場関係者たちも攻撃の犠牲となっていました。この日、米国取引委員長は次のように声明を出しました。「この悲劇的事件を解決するまで、そして安全のため証券市場の閉鎖を決定します。現在の状況からみてそれが最も責任ある行動でありこの決定を強く支持します。」

取引が再開されたのは9月17日、NYSEに財務長官をはじめNY州知事、市長らが駆け付けました。テロ犠牲者への黙祷のあと荘厳に響くGod Bless Americaの歌のあと、午前9時30分の取引開始のベルが場内に鳴り響きます。そはウォール街が再び息を吹き返した瞬間でした。一斉に沸き起こる万雷の拍手と喝采、それは希望と喜びの響きであると同時に、かつて共にこの街で闘った今は亡き同志たちへの鎮魂の響きにも聞こえました。