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明鏡   

鏡のごとく

ゆふいん文化記録映画祭

2021-08-14 10:38:48 | 詩小説
先日、ゆふいん文化記録映画祭で中谷健太郎さんの記録映像と戦中戦後を生きていた一人の人の、すずさんの生活を通しての昭和史を記録したフィルムを拝見した。

すずさんの娘さんである小泉和子さんが残した、当時の戦後復興の中、金融公庫第一号的な時期に建てられた建築としても貴重であるモデルハウス的な日本家屋に、焼け出された一家が移り住み、そこから、また今まで生きてきた軌跡が、垣間見られた。

建物というものは、そこに住む人がいて、魂が入れられるということを、生活は身体中に経巡る血や酸素や熱のように巡り巡ってこそ、ともに生きていると言える。

建物も人がそこで生きているからこそ、生きながらえているような、少しでも、手が加わらなくなると、朽ち果てていくだけとなるという、建物にとって、人こそが魂であるような、そんな気がしながら、拝見していた。

すずさんが丁寧に作るおはぎを拝見しながら、母が作ってくれた、おはぎを思い出していた。あの家にも魂は確かに宿っていたのだと思える何か。

戦後、GHQが自分達が使うために日本の人たちに作らせた家具を作っていた小泉さんのお父様が監修した文化住宅的建物は、玄関入ってすぐに、仕事場のような西洋風な書斎がまず飛び込んできた。

それが、日本の家の戦後の形であり、その家に住むものの形までも少しづつ変えてきたのだと思うと、家から見た民族の生活の形のようなものを思わずにはおれなかった。

そこに住むものの生活の形、魂の形の、象徴的なものが建築であるということ。

西洋風なものが玄関から入ってすぐにあるという、顔のようなものになっていることの時代精神のようなものを、建築から読み取ることができるようで、興味深かった。

今、茅葺屋根を作るようになった自分の中で、昔の日本人の形というようなものが、なんとはなしにしっくりと行くのは、家の中にある土間が、おくどさんがあるお台所的な機能と、農作業を含めて、家や仕事でいるものを作る作業の場としての機能性もある、優れた、外と内を併せ持った空間をなくしてしまったことは、生活の様式をも変えてしまったことが惜しまれた。

縁側もそうである。ウッドデッキよりも、椅子としても、機能する、内と外を緩くつなげる装置であったこと。
日本人の内と外を自然に繋げる、自然とくっきりと分け隔てない生活を育む場として機能していたということ。

今、その場を取り戻しているようで、自然と緩く繋がれることに喜びを感じている。

健太郎さんの亀の井別荘の庄屋サロンさんも、その外と内との緩やかなつながりを大切にされているような、心地よい、文化的とも言える場で、そのお屋根を葺かせていただいたことに、ご縁を感じており、これからも、ここで生まれた文化を末長く見守ってくださる場として、残っていけるように、我々も心を尽くしていきたいと思った。

健太郎さんが、出演されていたテレビ番組を上映されていたフイルムもまた、湯布院の形を作っていった歴史を垣間見させていただいた。

文化的空間として、日本人の、世界中の人たちの心の、遺伝子に刻み込まれた田舎の原風景のような、息がつける場としての、湯処を作り上げていった核心に、健太郎さんたちがいらっしゃったこと。

ギラギラした若かりし時の健太郎さんたちの、大手企業や、自衛隊、アメリカ軍などの影もある「故郷」を、どう自分たちの思いが入った「故郷」に作り上げていこうともがいたか。

当時の熱の伝わる映像であった。

合間に、庄屋サロンの平野さんから紹介していただいた、作家の森まゆみさんとお話しする機会があった。

森さんから、島根の古民家再生や色々な古民家再生のお話しや、建築に関してのお話し、温泉についてもお話しをお聞きできた。

中でも、いたくら作りの建築「斎」の杉皮葺の屋根を葺かせていただいた際に、それを設計されたというご縁もあった安藤邦廣先生もご同行したというイギリスの建物探訪のお話しをお聞きできたのは、幸いであった。

ここでも、いいものを残していきたいという思いのようなものが繋がれる幸せを感じていた。

戦争と平和の祭典

2021-08-01 14:55:09 | 詩小説
戦争とは、命の戦いである。
人を人と思わない、人が多く死んだ方が、命という命を破壊し尽くした方が、勝つことである。
平和の祭典とは、肉体と心の戦いである。
人と人とがぶつかり合い、多くぶつかり合うことができた方が、勝つことである。

戦争とは、自分にとっては、赤い夕暮れ時の爆撃である。
生暖かい夕暮れ時の風である。
赤い爆弾がてんてんてんと飛んでいくのを眺めていたことである。
爆撃の知らせを聞くことである。
爆撃の後、人々がアローホアクバルと叫ぶことである。
建物や心を破壊することである。

平和の祭典とは、コロナの中であっても、汗をかき、密になり、激しく戦い合うことである。抱き合ったり、転がしあったり、走りあったり、泳ぎあったり、ここだけは、解放区のようである。

ココロハ コトバデアル。 ことばは こころである。

2021-07-04 10:34:10 | 詩小説
一本の電話がなかったら、もう犬の散歩に出かけていたところでしたよ。

私が、閉じられた扉をこじ開けて、納骨堂に足を入れた時に、お掃除されていた、住職さんの奥さんがおっしゃった。

我々にとって、心をなくさないため、洗心のために伺う、茅葺の先輩の命日のことであった。

釣りや珈琲の好きだった先輩へ贈られた心のこもったお供え物が、心に沁み、どうか、安らかにと願いつつ、なくなる前に、まだ駆け出しの私に、自分の道具を作らないかんな。と言ってくれた先輩の言葉を思い出した。
本当に、職人になりたいなら、自分の道具を自分で作れということを言われたのだと思った。
本当に、心からありがたい言葉であった。


それから、

ココロハ コトバデアル。 ことばは こころである。

といった詩人の織坂幸治氏の言葉を思った。
織坂氏とは、檀一雄の好きな方々の集まりで一度だけご一緒したのだが、最近織坂氏が亡くなったので、詩人の井本元義氏が心愛のある評伝を書かれたのを頂き、拝読したばかりであった。

特に、「北極星と魚」という詩が好きであった。
海に身を投げて亡くなった友へ捧げたような詩であった。

ぶあついとびらを
押し開けるように 夜にむかって
問いかける

おれは 魚。
しかもおれの糞しか喰ってゆけぬ
魚。

おれは釣られても
にんげんはじきに突き放す。
おれの体臭が人糞の匂いににているから。
苦汁の多いこの場所は息苦しい。

キラリ光ったのは
果たして天空の北極星だったのか

荒々しい水圧のなかでは
おれの泪がよじれ。

おれは 魚。
だろうか。
海には墓地がないのだろうか。



甲斐大策展 島田美術館

2021-06-10 01:10:44 | 詩小説
島田美術館で開催されている甲斐大策展に伺う。

詩集『蜜蝋の花』の表紙に甲斐さんの絵にしたいと石風社の福元さんにお伝えしたら、すでに河岸の人となっていた甲斐さんの本の中から使っていいと、娘さんのみかりさんが言ってくださったので、暗闇の中の月と鳥たちと人の描かれた絵を選んでくれた。

先日、宗像の鍼灸院をされているきよみさんの御宅の施術室を杉皮で葺きたいということで伺い、お友達とも知り合いになれて、イランに行ったことがあるというログハウスを作っている地元の方にもお会いでき、その後、福津の甲斐さんの娘さんに、甲斐さんの表紙の詩集を届けることができた。

島田美術館で個展をされていると聞き、島田美術館へ、六月から始まった杉皮葺のお屋根の現場が偶然休みになったので、喜び勇んで伺った。

懐かしい絵に会うことができた。甲斐さんはペシャワール会のカレンダーに絵を描かれていたので、そこで拝見したものに近いものが多くあった。

甲斐さんの魂のようなものが、そこにあった。絵を描いた実体はないが、記憶はそこに息づいていて、いつでも会いたい時に、会えるような。

私が、イランから帰ってきて、しばらく住んでいた福間の風景が気になって、どちらかというと、甲斐さんのアフガニスタンやパキスタンの旅の絵よりも、日常の風景が今の私にはするりと溶け込んできたようで、その絵と一緒に帰ってきた。

ウイグルのカフェをされている友人や島田美術館の奥様にもお会いできて、表紙の絵の行方が分かったら教えてくださるようにお伝えして、またお会いできる時を楽しみに、島田美術館を後にした。



詩集「蜜蝋の花」

2021-04-13 23:54:16 | 詩小説
詩集「蜜蝋の花」を石風社から出版させたいただきました。

よろしかったら、読んでいただけると、ありがたいです。

石風社にご連絡されるか、私のこの日記に鍵付きのメッセージいただけるとありがたいです。