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明鏡   

鏡のごとく

粉と雪

2021-12-28 07:20:42 | 詩小説
雪が降り出した。
全国的に数年に一度の寒波がやってきたとラジオで言っていた。
ミツオは、庭の塀を削りながら、その細やかな白い削り粉が、雪に混じって空(くう)を漂っているのをじいっと見ていた。

ああ、寒い。手が痺れる。

削り機をつかんだ手に、スクリューのように丸みを帯びた振動が、弧を描きながら伝わってくるたびに、穴を形作っていたブロックが、崩れ落ちていった。

ブロックの穴の中で凝り固まっていた筒状のセメントがトーテンポールのように突っ立っていた。

ああ、本当に今日は寒い。

トーテンポールには、そこに住む人々の祖先の元々の姿、魂のようなものが形作られ重なり合っているというようなことを、何かで読んだことがある気がしたが、セメントやブロックの中にも魂のようなものは宿るのであろうか。などと思いながら、その家に住む人の名の表札が、削り機に削られていくのを見ていた。

名前こそが、その家の人々の、魂のようなものを表しているのかもしれない。

壊されていくブロックとその穴の中から露わになるセメントが、ブロックの穴の中で凝り固まっている筒状のセメントが、浮かび上がってきた。

髪の毛が蛇の女と目が合うと石に変えられてしまうという話のように、表札を掲げられたブロックが、時を止められて固まってしまった生き物のように、思えなくもなく、そのものが全て、粉々になって、雪に混じっていくことで、大地に溶け込んでいくような、最後を見届けているような、気になっていたのだった。

「小さな世界」と歌う歌が頭の中で、アニメーションのように流れ出した。雪はとけていく。空を舞いながら、この世、この世界から消え入るように、見えなくなってしまうのだ。昨日、空を舞って、向こうに行ってしまった人がいた。雪の女王にでもなりたかったのだろうか。彼女は。物語を生きるために。いや、終わらせるために。

それから、削り殻を焼場で焼かれた後の遺灰を拾うように掻き集めて、ずた袋に詰めていった。

2tトラックいっぱいに削り殻や木を詰め込んで、皇后崎の廃棄物処理場に持って行った。年末のこの時期、家の中から出てきた断捨離の塊が、並んでいるトラックの荷台に小山のように積まれていた。

ケンタからの携帯電話が鳴った。父親の薬をもらいに病院に出かけたその隙間時間にかけてきたのだった。

看護師さんが、今、医者に時間外のため、聞きに行っているといった。

昨日のことだった。とりあえず、満足いくまで仕事をして、いろいろな用事をしていたら、父のお見舞いの時間に間に合わなかったことを、ケンタに話した。

ケンタもまた、同じように、時間に間に合わず、薬をもらえないかもしれない。といった。時間、時間、時間。
時間に追われているのか。あるいは追いかけているのだろうか。我々は。
制限がある、この世界の、時間という概念。

おかしいよね。ワクチンを打たないと、病院にもいけないとか言い出したし。飛行機にものせないとか言い出した。どこにも行けないよ。俺たち。ワンワールド系の航空会社もなんだかおかしいよね。どこが、一つの世界なんだろうね。一つでめでたいのは上のものだけで、制限をかけては、上から下に、あらゆるものを落とし込むような世界は続かないとは思うけどね。

そうだね。ワクチンを打つことを強制することは絶対に許されないと、裁判を起こしている人のことは、全く、報道しないテレビの報道番組は、ある意味、ワンワールドの一つの象徴かもしれないけどね。ワクチンを打つか打たないかで、忠誠を誓うか、誓わないかの、踏み絵のような世界。戦時中のような世界。厳戒令のような、限界令を毎日のように垂れ流す世界。

本当に。何兆もの資金をばらまいて、医薬会社やその関連のものが潤い、制限をかけては、個人の自由を制限しては、アニメーションの中の小さな世界にい続けさせて、夢を見ているように見せかけては、一つの大きな世界を支配しているように見えなくはない。

なんなんだろうね。その資金も曖昧でどんぶり勘定で、お金という中央銀行が出したり、ドルを擦り続けるアメリカに住む銀行家の富豪たちが何もせずとも溜まっていくばかりの、すればするだけ儲かるシステムを作ってきたのだから、その紙切れをタヌキに化かされたままの人間をおちょくるように擦り飛ばして、その世界をお金という幻想で動かしているのだから、それが電子の世界でも電子マネーとしてその概念を植え付けようと躍起になっているからさ。ないものがあることに、あるものがないものにされてしまう世界なんて、どうかしている。そろそろ目をさます時期に来ているのかもしれないけどね。

その集金のシステムを作ってしまえば、何もしなくても湯水のようにないものがあるようにできるシステムがより手軽にできるわけだから、どんな小芝居を使っても躍起になるわけだよ。そのシステムに上手く乗っかったもので、湯水のように入ってくるものを使って宇宙に行くことを選ぶものもいてね。
彼ら、彼女らは宇宙服の中、見えない空気を身にまとって、天女のように舞うことで、天女の羽衣の昔話に戻っているようで、なんだか、昔は今、今は昔になってきたような。

そもそもの始まりは、なんだったのか、語られ始める時期なのかもしれないね。
我々はどこから来て、どこに帰るのか。という。

せいぜい、粉と雪になるだけでしょうが。

ケンタを呼びに来た看護師の声がした。
携帯を切ると、トラックの列も動き始めた。

皇后崎の廃棄物処理施設の、焼き場の門のようなものが開かれると大きな大きな穴が口を開いて待っていた。
台所と風呂場の桁や柱の解体された家の木の骨組みをその、底知れぬ穴の中に放り込んでいくのだという。

まずは、安全帯を付けてください。

係りの人が腰に安全帯をつけるように促した。

底に落ちたら、ほとんど、救いようがないのですよ。

木くずにまみれて、そこまで埋もれていき、木と人の見分けもつかなくなるような、粉砕されていく毎日が、ぱっくり口を開いて待っていたのだった。





















「狼の口」

2021-11-10 18:30:21 | 詩小説
狼の口が開いているの見たことがある?

 アッコちゃんは尋ねる。

 いや、見たことない。
 僕は狼すら見たことがない。

 狼はね、一匹狼とは限らないの。
 いや、むしろ大いなる一匹狼なのかもしれない。
 もしかしてね。
 見えない狼の口が、一口4,000円と言いながら個人の福利厚生を歌いながら月々の収入を個人から吸い取るように、月々ボロクソな携帯料金で私腹を肥やしていたことがある携帯会社の人がいるとするじゃない。
 そこが、あんまりの殿様経営で、人を小馬鹿にして、煙に巻くような2年縛りの契約内容で、途中で逃げないように月々どれだけしぼりとれるかしか考えていないものだから、それに嫌気がさして、あまりに高額すぎて逃げていく人が続出しているとする。その経営に関わっているものたちがピラミットの頂点で見え隠れしているとするじゃない。
 働かずして、日々、私腹を肥やせるシステムをいかに作るかということが、彼らにとって、肝心なのが、よくわかってくるの。彼らが焦っているのがよくわかるの。
 いや一口だけじゃなくて、他の人の名義を勝手に使って、何口でもいいから、入って、六千円を月々支払って、言い忘れていたけれど、一万円は別料金で入会金がいるからと言いながら、入る気になった人から、まずは一搾取するのを見たとしたら、その先が思いやられるわ。
 それを見て、何しろ、ピラミット型の典型的な搾取の方法だから、それを隠しもしないから驚いたの。
 我々は、ピラミットを作るべく、人をそのピラミットに引きずり込もうとしていますと絵に描いて説明してくれているようなものだったから。
 誤解がないよいように、信用するな、疑うな、確認しろ。と言われたとしたら、あなたならどうする。
 信用しないで、疑うな。という矛盾をまず突きつけられるの。
 確認するために、そのピラミットの渦の中にまずは入っておいでと誘うの。
 国や企業がしたがらない福利厚生を歌って、僕たちが保障してあげると言いながら、八百の保障を掲げて、継続的な搾取を目論んで、ぽっかりと開いているかもしれないのに、誰が入ると思うの。自由はあるの。入る入らないの。先に入ったものが搾取したいが為のピラミットだとしたら、後から入ったものは、その次のものを犠牲にするということがまず前提にあるの。そこから搾取することに全集中しろと言われているように聞こえたの。まずは、入ってみないとわからないと言われている人を見ながら。俺先に入ったものが勝ちなのだというシステムなのだから。

 例えば、大狼という名の国という狼がいてね。
 毎月、税金というものを搾り取っていながら、自分たちの管理できないマイナンバーカードを持っていないと選挙のバラマキの代わりの税金から出すだけの臨時支給の三万円は支給はしないといってきているのも同じ。十万円を子供がいる世帯にだけ支給するという一見慈善的なやり方も同じ。望んでも子供ができなかった人はどうでもいいと言っているようなものに見えるの。すべての人に再分配したいというならば、それは、あまりに格差を生むように仕組んでいるように見えるの。差別にしか見えないの。自分たちのいうことを聞かないものには、利益は回らないようにしようとしているの。
 自由を奪うなというの。マイナンバーなどいらないというものを爪弾きにするなと言いたいの。すべての人に再分配をしたいということが本当に腹の底にあるとするならば。
 口先だけの狼はピラミットの上で寝そべっているとしたら。
 新参者の、すべての人に二十万円支給すると言っている方に人は流れていくでしょう。まだ、ましだからと。
 お金はすればするだけ得になるのを知っているのに、税金をかき集めてそれを再分配しているポーズをとり続けている国会議員という名の利権集団は、すべての人に行き渡らせようとせずに、自分たちの利益にかなうものしかやらないという。私物化しているの。国を。役人も同じく、例えば流行病の「王冠」の演出で、人々を思いのままにうごかせる道具を手に入れたの。マスクをして、口封じをしているのも象徴的だわ。
 何しろ、狼の口が見えないように、無意識的なもののように言えるの、マスクが。
 インフルエンザで死ぬ方のほうが多いのに、そのインフルエンザさえも「王冠」にすり替えられ、カウントされ、毎日、王冠になった人、死んだ人を数えさせるの。
 メメントモリ、メメントモリ。と突きつけてくるの。わざわざ、嫌がらせのように、大きな拡声器を静かな村に取り付けるように。
 狼の口が舌なめずりをして待っているの。声を上げているの。
 管理社会の到来を待っているの。みんなで次の未来へと嘯きながら、超管理社会の到来を今か今かと待ちわびているの。
を見ているの。

アッコちゃんは、秘密が好きなのだ。狼の秘密のようなものを語り尽くしたいのだ。

狼が出たぞと言いたいの。

僕は言った。

ワクチン接種反対

2021-09-09 07:11:19 | 詩小説
ワクチン接種反対 強制反対 規制反対

という旗印のもと、人々が立ち上がった。

酒をやめろ、人と接するのをやめろ、移動をやめろ、話すのをやめろ、一緒に食べるのをやめろ。
やめろやめろやめろということの根拠は、死であったとしても。
いずれ死が訪れる者たちにとっては、生きることをやめろということと等しい、やめろという横暴に、嫌気がさしていたのだ。

もう、バカらしい、やめろは必要ない。

拡声器でやめろと偉そうに言おうが、どうでもいいという人々で、道は溢れかえっていた。

きせいちゅう

2021-08-22 18:04:33 | 詩小説
    きせいちゅう    

 夏休みの帰省中のことであった。川の水をのもうとしていた。湧き出でてくるような透明な美しい流れの中に、とっぷりと浸かりながら、その水を口に含んで水が体の中をとうとうと流れるような川と自分が一体になったような気持ちがしていた。
 世の中が、コロナに感染しているような、どこもかしこもコロナで規制中のようで、店に入るにもマスク、消毒、体温検査と、透明な壁越しに会話する、簡易的なプラスチックの檻の中にいつも入れられ続けているという、どうしようもない中、見えない空気中よりも、少しは抵抗力のある水の中で、その騒動から、遠ざかることができるような、聞いてもどうしようもない、拡声器からの今日のコロナの感染者の数を聞かなくて済むような気がして、そのような淀んだ空気を洗い流しているような心持ちがしていたのだ。
 滝の音が聞こえた。水は岩を流れながら、飛沫をあげていた。右側の滝の懐に入った。水々しい力が、頭の天中に降り注ぐ。水が頭上から体の中までずずずと水圧のまま入ってくるようなそれは水の水々しい力そのもののようでもあり、もともと水の流れが体を経巡っている生暖かいものを押し出して滝の流れと繋がっていくような感覚。その感覚に身を委ねながらもっと強く流れる左側の滝に体ごと突っ込む。もう、水との一体感のようなものを通り越して、水の流れに流されまいと逆流している川の中の山女魚のような心持ちになる。進もうとしても水圧におしながされて、その場から動くことができないままの同じところにいながらにして全身全霊の力でそこにいるような心持ちなのだった。
 湧き出ているきれいな水だと思って、その水をたらふく飲んだ。その水の中に漂う針金を見つけた。こんなところに針金が流れているなんて。と思い漂う針金を見続けていると、それは、針金虫だった。針金虫まで飲んだかもしれない。とっさに水を吐き出そうとしていた。針金虫は、自分の体より大きなカマキリを殺すことができる。水底に引きずり込むように。針金虫を体内に取り込んでしまったカマキリは、水の中に入るように誘導されて、水に溺れてしまうのだ。それから、針金虫はカマキリから這い出して、また、針金虫として水の中に帰っていくのだろうか。などと思う。そうして、寄生虫として宿主をまた探し続けるのだろうか。カマキリではなく、人間であろうが、針金虫が一匹ではなく、何万もの針金虫が束になっきたとしたら、もしかして、人間でさえ、ハーメルンの笛吹き男について水に溺れていくわけでもなく、針金虫に脳内操作されて、水に溺れていくことも、現実に起こり得ると言えなくもない。
 現代の針金虫とも言えるナノチップを仕込んだ、コロナワクチンを人類の大半のものの体内に打つ注射を、滝に打たれるように、あるいは知らずに飲み込んだばかりに、体内に流し込まれてしまったものが、筋ジストロフィのように動きが制御されて、ロボットか、ゾンビのような生きているのに死んだような動きをしながら、何かに襲いかかるようなこともあるが、ただひたすら、目的を達成したら自死するように操作することも可能というわけである。一度では制御しにくいと思われるので、二度、三度と繰り返し人体実験を行っているのであるとしたら、それは、いったいどこで制御していこうとしていると思われるか。
 身近な電子機器である。スマートな制御。遠くからでも、指示通り動く、動物牧場ではなく、放し飼い人形ロボット計画。未来からやってきて、家をぶち壊す算段であると、面白おかしく人の犬化計画をアピールしているものがいるのではないか。抵抗を歌う作家も、少しおかしい。最近、一度目のワクチンを打ってからというもの、人が変わった様に、抵抗しなくなったばかりか、ジャンクフードで満たされ、罵詈雑言を吐くこともなく、無抵抗で確実に飼い慣らされていくようであった。まるで歌を歌わなくなった歌うたいのように。これから、ますます老人の動きがおかしくなっていく。老化のせいではなく、ワクチンのせいで、自死に至る病に犯される。それが、じわじわと低年齢化されていくのだ。
 コロナのワクチンには、コロナだけでなく、いろいろなものが混じっているのだから。人口の半分はワクチンを打っているという。狂犬病予防。これから起こる騒動に狂犬のように嚙みつくものがいなくなるように。犬でさえ、狂犬病予防でむやみに吠えなくなったというのだから、人間にもまた、今回の騒動で人体実験を繰り返し、奴隷として役にたたず、いらなくなったら、ジ・エンドになるだけの算段なのだ。
 神様は、次の世界でいいようにしてくれるのだという。遠くから指図するだけで、汗水垂らして生きているものを奴隷としか思わない神様などいらない。お互いに、神様であろうがなかろうが、寄生虫のような王様、女王様であろうがなかろうが、生身の人間であろうがなかろうが、生臭い生き物であるということだけで、死に至るまでは十分であった。
 夏休みの帰省中の、コロナ禍で一年延期された五輪の、生々しい汗と涙の中、掲げられた五輪の旗が、なんとはなしに、丸くなった針金虫ののさばった世界のように見えてきた。
 なんとも言えない、狂騒の果てにたどり着いたコロナの、狂った寄生虫のような裸の王様、女王様の冠を無理強いさせている、規制中の騒ぎの顛末なのであった。

『ギュンター・グラスの40年 仕事場からの報告』 

2021-08-16 11:25:31 | 詩小説
『ギュンター・グラスの40年 仕事場からの報告』 フリッツェ・マルグル編 高本研一/斎藤寛訳を小倉の古本屋で手に入れた。

『ブリキの太鼓』を映画で見て、それからギュンター・グラスが原作であると知り、彼の書いたものをできうる限り読んでからというもの、ギュンター・グラスは、私の戦争小説の中で、同じ眼差しのようなものを持った、近しい体験を通しての言葉を拾い集めることのできる、ガラスを切り裂く叫び声を持つ少年オスカルの見た戦争の時代のような設定は奇抜ではあるが、それこそが、彼の中の真実であるようなものを感じていたのだが、その背景も垣間見られる本が、グンターグラスの40年 仕事場からの報告であった。

仕事場で、石を彫ったり(もともと彫刻家でもあった!)、言葉を掘り下げたり、絵を描いたり、と、彼は手を使って、言葉を使って、目を使って、世界を描き続けていたのも、知ることができた。

私自身も、ちょうど、小さな屋根に乗せるつもりの石の置物でしっくりいくものがなかったので、自分で作っていたので、その共時性、シンクロニシティを感じつつ、ギュンター・グラスの仕事場からの報告を、囲炉裏のそばで石工の傍らに、読んでいた。

言葉の上では、より正確な表現であるような、どこを読んでも、どこかずれている人間の正義だとか、善悪だとかを通り越して、本当にあった心の中の動きと外とのギャップをなんとか埋めようとして、書かずにはおれないような言葉の海辺を行ったり来たりすることで、生き抜いたような、戦争のただ中にいたものの姿を淡々と描いていた。想像ではなく、生身の体験からじゅるりと絞り出された言葉の波なのである。

血なまぐさいのである。生臭いのである。どこかしょっぱいのである。

腐り続けている海辺打ち上げられた死体を、ただただ眺めているような、瞬きもせず、目の前のことを目を見開いたまま、じいっと見ているしかできなかった、不気味な少年のような、死に損なった老人のような眼差しなのである。

グンターグラスが、インドのカルカッタを愛していたのが、また、同じところを彷徨っていたのだと思わずにはおれず、あの死の匂いも漂うような、労働の過酷さと、格差を嗅ぎつけて、そこにズッポリと居合わせる何か。

長編小説『女ねずみ』の初稿は、素描を交えて、いわゆる実物見本の中に書き込まれたと言うことも書いてあったが、メモと素描がアイデアが生まれた瞬間をとどめながら、そこからまた、次のアイデアをつなぎ始めている、思考の波を描き続けているのが、よくわかる。自分にとっては、この日記のようなものであると思いながら、より、生身のものを残してくれたことに感謝していた。

絵も、美しいものというよりは、生々しく、生きているということはグロテスクな事なのだとでもいうような事、戦争というものは、その最たるものなのだという事に、たどり着いたような気がしていた。

大江健三郎とも、交流があったと書かれていた。
大江は、グロテスクリアリズムを追求していたともいえるが、「生」の戦いの当事者であるか、傍観者であるかのはざまで、生のグロテスクさを際立たせているところは、彼らのような物書きの行き着くところであるようで、興味深かった。

ギュンターは、戦争の当事者であり傍観者であり、グロテスクな、その生きることを、感じたままに、メモの断片をコラージュのように切り貼りしながら、いろんな登場人物に語らせながら、より具体的に、生きた時の流れを凝縮しながら物語り続けた。

大江はどちらかというと傍観者であり、年少の時に体験したであろう戦争の外にいたが、「生」の戦いにおいては、戦争中であろうが、平和と思われている時期であろうが同じような、グロテスクな何かがあるというようなものを描き続けているように思う。