明鏡   

鏡のごとく

保田与重郎と山下惣一の「農」と草屋根

2023-09-25 18:40:01 | 詩小説
 保田与重郎の本が、前にここに住んでいらした平山さんの奥さんが残しておいてくださった本棚にあったので読むことにした。 三島由紀夫にも少なからず影響を与えたということもあり、やっと、そこまで辿ることができたような気がしていた。
 戦前、戦中、戦後を通して、日本とは、何なのか。を考え続けた人でもあった。


〜民間私の祭祀祈願において、生産に携わる者の祭りと信仰と、直接生産にあたらず生産者の上に臨(のぞ)み、支配の生活に携わるものの祭りと信仰との間に、事実観念の両面で大差があることを思ひ、祭りといふことについての土俗の中に、如何なる形で神州不滅の信念が生活としてあるかを考えたいと思ふ〜(保田与重郎選集第五巻「鳥見のひかり」より抜粋)


 保田与重郎のいう祭りとは、生産に携わるものの身体の中から、魂の中から毎日育まれて生まれてくるものが根本にある。

 豊穣を祈りながら生産し、生産したもの(「農」作物〜稲等)を、祭りにおいて捧げ物として捧げながら、その捧げたものを、自らも食すことによって、捧げられたもの(神)と一体化しながら、その「年」の収穫に心より感謝するという行為であり、決して、生産しないものの支配のためのものではない、搾取されるために生産しているのではない。

 それは、大規模な、農薬を使わざるをえないような農業ではなく、農薬に頼らずに、大企業が推し進める遺伝子組み換えの作物の特許などで搾取されず、山下惣一の言う、家族が自分たちのためにも、いいものを作り、周りの生態系の環境をもいいものにしていくような、身近なところを大切にしながら耕し育む「農」いわゆる「小農」と、目指すものは大きなところにおいては同じように思う。

 保田与重郎のいう「神州」とは、小さいところから、微生物のような、見えないところから、土を肥沃に変えていくような、目には直接見えない神のような小さな小さな微生物が生きている農地で、祈るように地道に一人一人が生きて、何かを耕す毎日を過ごしている人々のいる国とも言える。

 微生物がいなくなると、土は死に、死米となる。
 生物もまた土地が死ぬことによって、死を迎えることとなるのは時間の問題である。

 見えないものこそ、すべての始まりであり、すべてを育んでいるのだ。
 
 草屋根も、見えない菌が育まれ、屋根になった茅や杉皮も朽ちながら土に帰っていく。

「農」と繋がって、草屋根も生きているのだということ。

 屋根を作ることもまた、田を耕すことにも通じる、お天道様のもとで行われる祈りの一つなのであると。

 伊勢神宮の屋根が式年遷宮において稲科の植物でもある茅が葺き替えられることも、祈りの形として、意味を持っていると言える根拠である。

 屋根を葺き替えることは毎年のようにはできないが、二十年ほどで葺き替える時期になるという自然の成り行きをも与した大きな祈りの形であると思われる。


 



 









 



 





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