明鏡   

鏡のごとく

冬の旅

2023-02-27 05:13:37 | 日記
アニエス・バルダ監督の「冬の旅」を日田のリベルタで拝見。

北九州の昭和館も復活の兆しが見えている様で、映画を愛する方々の、底力を感じながら、大勢でなくとも、映画館の方々が本当に見たいと思った映画を、特別に見せてくれる様な、開かれた秘密基地の様なところが好きである。

映画を見るという行為は、自分の内面のモヤモヤしたものをあらわにしながら浄化していく時間の様で、定期的に必要な儀式の様な時である。

偶然、女子相撲の映画で、コーディネーターとして父の仕事の関係で住んでいたことがあるイランに、ゲリラ的に映像を撮るためにご同行した久保山氏から、戦後のノーベル賞を取られた方々の読書会がしたいという連絡が入った。ノーベル賞云々は関係なく、ギュンター・グラスのブリキの太鼓の話や石工をしていた彼の話がしたいので、その時は参加させてもらえたらとお伝えした。
大江健三郎の今も気になるところではある。
なぜ、戦後か戦争中かわからない、今の時代を、表だって語ないのか。語られないのか。

戦後は続いているようで、戦争が続いている。
平和だと言いながら、諍いごとは日々にある。
人を殺してはいけないと言いながら、人を殺すのを願うようなことどもも、日々繰り返されている。

見たくないことには、蓋をして、ご機嫌さんを装っているだけの。

人の生身の息遣いの感じられない音は、映像は、ものは、言葉は、聞きたくない。見たくない。触りたくない。と思うのは、それぞれの自由ではある。

それにしても、映画のものつくりを間近で拝見させてもらえた喜びは今も続いており、久保山さんのジレンマも知っている分、映画の神様に祈りたい気分であった。
文学の神様にも。

今日は自由に、解き放たれて、じっくりと自分に向き合えと言われた気がした。


路上を選んだモナの、最後の数週間の冬の旅を、出会った人の語りとモナの眼差しで、映像でドキュメンタリーの様に切実に、そのままで語られていく。

自由とは孤独なことなのだ。

という哲学者のヤギを育て家族と生活をしている人が言う。

彼は、放浪の果て、そこで育てることを選んだ。

モナは、育てることよりも、放浪そのものの路上の自由を選んだ。

ヒッチハイクをしながら。

最後の祝祭の生贄の様に、寒い時期のワイン祭りで、鬼の様な格好の男たちに、ワインをぶっかけられ、溝の様なところで、つまずいたまま、そこに倒れこみ、亡くなって冷たくなっていたところを働いているものに、発見されるところから、物語は始まる。

最初と最後が繋がったところで、終わりがやってくる。

あっけない終わりが、より現実味を帯びて、自由ではあった学生時代の、何ものでもない、もがきをかきむしられる様な映像であった。
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