上山明博 なう。

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上山浄栄寺縁起──実家「法壽坊龍登山浄栄寺」の由来

2017年05月24日 | 日記

▲真宗大谷派 浄栄寺、本堂(正面)並びに玄関(右奥)

私の実家は、岐阜の真宗大谷派(東本願寺)の仏家・浄栄寺で、そのため私には明博という名前のほかに、「釋明浄(しゃくみょうじょう)」という法名がある。
過日帰郷した折、寺の門の脇に市の観光案内板が立てかけてあり、その案内板の解説を読んで、私ははじめて寺の由来を知った。
それによれば、
「浄栄寺は、上山 蔵人信家(うえやま くろうとのぶいえ)、法名・法壽坊(ほうじゅぼう)を開基とし、正式名称を、法壽坊龍登山浄栄寺という。当初は天台宗であったが、後世蓮如上人本願寺教団に帰し、現在は真宗大谷派で、川並六坊の一つ。川並六坊は、本願寺第八世・蓮如上人関東巡化の帰洛の折、二代目住職・釋壽聞(しゃくじゅもん)ら六人の僧が、蓮如上人を助けて尾張の境川を渡し、近江に無事送ったことに由来する。境内にある梵鐘は、元は名古屋市の東照宮の時鐘であった。元和8年(1622 年)尾張公・徳川義直を願主として、水野太郎左右衛門藤原則重が鋳造。明治9年(1876 年)、第十六代住職・釋德明(しゃくとくみょう)がこれを買い受け、現在は市の有形文化財に指定されている」という。
私は、寺を開基した上山蔵人信家という人が、無性に気にかかった。蔵人は天皇に近侍する側近の官職を意味する。そんな偉い人がご先祖様だということも、さらに、そんな高官が都落ちして僧になったことも、私はにわかには信じ難かった。
で、調べてみると、『岐阜県美濃名誉図誌』明治28年(岐阜県図書館蔵)という文献のなかに、「岐阜県羽栗郡竹ヶ鼻町 真宗大谷派 川並六坊上山浄栄寺境内之図」と題する絵図を発見した。
そこには、現今の僧伽藍とほぼ同じ配置の境内の絵図が描かれており、すやり霞の中に次のように寺の由緒が誌されてあった。
「由緒、当院ノ開祖上山蔵人信家ハ源平ノ乱ニ当リ先代天台大師ヨリ賜フ真筆六字名号印土法宝物ヲ懐中シテ西加賀野井ノ里ニ落チ僧ト為リ後世慧燈大師ニ帰シ真筆六字名号其他書類数種坊号ハ法壽坊猶ヲ祖師真筆六字懐中名号ヲ賜フ次ニ教如上人ニモ深遠ノ有処ナリ本堂其他属字ハ明治二十四年十月二十八日大震災ノ為メニ顚覆シ猶ヲ火災トナリテ鳥有ニ帰ス歷之レヲ峉ズ
明治二十八年一月刔、現住 上山碩巖誌」
尚、この絵図を誌したという現住の上山碩巖(せきがん:第十七代住職)は、私の曾祖父の名である。上山明博


▲「真宗大谷派 川並六坊上山浄栄寺境内之図」上山碩巖誌(『岐阜県美濃名誉図誌』明治28年)


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