goo

Amazon売れ筋ランキングで『関東大震災を予知した二人の男─大森房吉と今村明恒』が「明治・大正時代」のベストセラー1位!

2020年02月24日 | 大森房吉
Amazon売れ筋ランキングで、上山明博著『関東大震災を予知した二人の男─大森房吉と今村明恒』が、カテゴリー「明治・大正時代」のなんと堂々のベストセラー1位にランキング! 瞬間的にですが……♡

Amazon売れ筋ランキングのベストセラー1位に。


Amazon売れ筋ランキングの7位に『イザベラ・バードの日本紀行』、8位に吉村昭の『磔』。

goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京大学名誉教授のロバート・ゲラーさんから、書評掲載のご連絡をいただきました──。

2020年02月06日 | 大森房吉
日本のアカデミズムからこれまで黙殺されてきた大森房吉に光を当てた拙著『地震学をつくった男・大森房吉』青土社刊を、ロバート・ゲラー東大名誉教授が高名な学術誌『地學雑誌』で2ページに渡って取り上げていただき、大変光栄に思います。
拙著に対する評者・ゲラーさんの見識と、今日の地震学に対する問題を提起する秀逸な論評で、身にあまるご高評をいただきとても嬉しく思います。
雑誌発売は2月末とのことですが、すでにインターネット上で先行公開されています。ご興味がある方は、ぜひお立ち読みください。

→『地學雑誌』2020年129巻1号 http://journal.geog.or.jp/images/abstracts/129-1_geller.pdf




上山明博:地震学をつくった男・大森房吉─幻の地震予知と関東大震災の真実─青土社、
2018年6月、270ページ、四六判、定価:1,900円(税別)、ISBN 978-4-7917-7081-6
goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『戦争と平和のための原子力 ─ 世界初の被爆国がなぜ原発大国になったのか』(電子書籍)出版しました!

2019年08月02日 | 新刊本紹介

『戦争と平和のための原子力』上山明博著▶https://www.amazon.co.jp/dp/B07VN7V53F

[本文より]

福島第一原発を遠望する
 上野からJR常磐線に乗り、セイタカアワダチソウが群生する荒地の風景を車窓からぼんやりと眺めながら最終駅の「富岡」に辿り着いた。これより北の「富岡─浪江」間は、〝帰還困難区域〟につき不通だ。改札口を出て、北に歩を進めるとすぐに、堆く積まれた夥しい数の漆黒の群れが行く手を遮った。携帯した線量計をポケットから取り出し、フレコンバッグのひとつにかざすと、毎時「4.02μSv」と表示した。日本の政府が安全の目安として定める限度量、毎時0.23μSv(マイクロシーベルト)の17倍以上の放射線量だ。
 野ざらしの放射性廃棄物の山を迂回し、富岡川沿いの小径を川上に向かって西に十五分ほど歩くと、「東京電力廃炉資料館」の看板を掲げたチョコレート色の建物が現れた。原発事故前に東京電力の広報施設のエネルギー館を全面改装し、廃炉資料館として新たにオープンしたと、東京電力の職員と思われるガイドの人は説明した。
 一階では、立ち入りを厳しく制限された東京電力福島第一原子力発電所構内の映像を大画面モニターで映し出し、廃炉作業などの最新状況を来館者に公開。二階では、地震発生から電源復旧までの11日間を拡張現実(AR)技術を用いて原発作業員の視点からドキュメント風に紹介していた。その一つ一つを丁寧に解説するガイドの人の話を聞きながら、私は何度も頷くうちに次第に違和感を抱いた。私はひとつ大きく会釈をして逃げるように館を出た。
 振り返ると、廃炉資料館は、大量の放射性廃棄物が放置された荒涼とした背後の光景とは到底不釣り合いな、とんがり屋根を冠したお菓子の家のようなメルヘンチックな洋館の姿をしていることにはじめて気が付いた。
 私は再び駅に戻り、今度は仏浜をめざして東に十分ほど歩くと、眼前に鈍色の太平洋の夕景が広がった。ここから北へ十キロメートルほど先の陸と海の境界線が溶け合う山陰に、靑白く透きとおった光が靄のようにぼんやりと浮かんでいるのが見えた。怪物のように不気味な光を放つ巨大な構造物の正体を見極めようと、私は目を凝らした──。

 平成23年(2011)3月11日14時46分、東日本大地震(東北地方太平洋沖地震)が発生した。
 地震発生から丸一日が経過した3月12日15時36分、東京電力福島第一原子力発電所一号機の原子炉建屋が爆発音を轟かせながら大破し、火炎をともなわない透明な水素爆発によって原子炉建屋の上空に白煙が立ち上った。さらに三日後の3月14日11時01分、今度は三号機と四号機の原子炉建屋が爆破し、無数の破片を周囲に吹き飛ばしながら、黒いキノコ雲が上空500メートルの高さに到達した。
 爆発の原因は、制御機能を失い高温高圧になった原子炉格納容器から漏れ出した放射能を含んだ水蒸気と水素ガスが原子炉建屋上部に充満し、最終的に水素爆発を起こしたものと思われた。
 福島第一原子力発電所のたび重なる水素爆発によって、原子炉格納容器内でつくられた高濃度の放射性物質が一斉に大気中に解き放たれ、折からの風に乗って四方八方に飛散し、東北地方から上信越、関東、中部地方に至る広範な地域に降り注いだ(『原子力安全に関するIAEA閣僚会議に対する日本国政府の報告書』原子力災害対策本部、平成24年6月)。
 これより66年前の昭和20年(1945)8月、日本の二つの都市の上空で原子爆弾が相次いで炸裂した。青白い閃光の放射線とともに摂氏200万度の高温が生まれ、1秒後には火球は直径100〜280メートルに膨れ上がり、爆心地の表面温度は摂氏3,000〜4,000度に達した。そして、広島に投下されたウラン235型爆弾は14万人もの罪なき一般市民を殺戮し、他方、長崎に投下されたプルトニウム239型爆弾は7万人以上もの無辜の命を掃滅した。
 福島第一原発事故による放射能災害は、広島、長崎に続いて、日本人の生身の身体に降りかかった三度目の人為的な原因による原子力被害となったのである。

ヒロシマ、ナガサキ、そしてフクシマ
 原子力に初めて世界の目が向けられたのは、1939年1月のことである。のちにノーベル賞を受賞するドイツの化学者オットー・ハーン(Otto Hahn)とフリッツ・シュトラスマン(Fritz Strassmann)は、天然ウランが核分裂反応を起こすことを発見し、その事実をドイツの科学誌『ナトゥール・ヴィッセンシャフテン(Natur Wissenschaften)』の1939年1月6日号に発表した。核分裂発見の報告は、瞬くうちに世界中に広がり、科学者たちはそのニュースを衝撃をもって受けとめた。
 同年10月、フランクリン・ルーズベルト(Franklin Roosevelt)第32代米国大統領はウラン諮問委員会を設置し、核兵器開発に向けた研究を始動させた。これがマンハッタン計画による原子爆弾誕生へと繋がり、のちにヒロシマとナガサキに投下されることになる。
 ドイツで核分裂が発表された翌年の昭和15年(1940)には、早くも日本で核分裂反応に向けた研究が始まっている。理化学研究所の主任研究員であった仁科芳雄は、この年ウラン235を用いた分離濃縮実験に着手した(「日本における原子爆弾製造に関する研究の回顧」安田武雄『原子力工業 昭和30年7月号』日刊工業新聞社)。
 さらに、日本の陸軍では昭和16年4月に理化学研究所の仁科芳雄を中心に原子爆弾開発に向けた研究を開始させ、仁科博士の頭文字を取って「ニ号研究」と呼ばれた(「日本の原爆」『昭和史の天皇 四』読売新聞社編・発行、昭和43年)。
 一方、海軍では物理懇談会を組織し、昭和17年7月、「原子爆弾開発の可能性について」を主要な議題として、元大阪帝国大学総長で帝国学士院院長の長岡半太郎をはじめ、理化学研究所の仁科芳雄や京都帝国大学教授の湯川秀樹など、日本の物理学会を代表する博士たちが一堂に会した。この懇談会は十数回行われたが、次第に長岡半太郎老博士の意見が会の大勢を占めるようになる。そして「原子爆弾は明らかに出来るが、米国と雖も今次の戦争に於ては、恐らく原子力活用を実現することは困難ならむ」との結論に到達し、昭和18年3月6日の会合をもって、物理懇談会は解散する(「原子爆弾について」伊藤庸二『機密兵器の全貌』興洋社、昭和27七年)。
 そして、運命の日の昭和20年8月6日。広島市の晴れ渡った盛夏の朝の空に一機のB29爆撃機が進入した。午前8時15分、銀色の機体から爆弾が投下され、広島県産業奨励館付近の上空約600メートルの地点で炸裂。次の瞬間、太陽光の数千倍もの凄まじい閃光と秒速440メートルの衝撃波で爆心地近くの人や物はすべて吹き飛ばされ、摂氏3,000度の熱線と高濃度の放射線を浴びて、街路を歩いていた多くの人びとが即死した。爆心から半径500メート以内にいた人や馬や犬は皆、眼球や内臓が飛び出し、1,200メートル以内の人の衣服は焼け失せ、黒焦げになった夥しい数の死体が街角のそこここに吹き溜った。それでも奇跡的に生き残った人びとは、爛れた皮膚を引き摺り、「水をください」と微かにうめき声を漏らしながら炎天下の瓦礫の街を当てもなく彷徨った。
 その66年後。平成23年3月12日15時36分、福島原子力発電所一号機の建屋上空にキノコ雲がうず高く立ち上った。数多の放射性降下物(フォールアウト)が人びとの無防備な身体に降り注ぎ、半径20キロメートル圏内に居た10万人以上もの住民が強制的に避難させられた。ヒロシマ、ナガサキに続いて、三番目の被曝地となったフクシマとその近隣地域では、ヒロシマ、ナガサキと同様に、今後永年にわたって癌や白血病、心臓病などの患者数が急増することが懸念され、被災者たちはいつ発症するか分からない恐怖に怯えながら息を潜めて暮らすことを余儀なくされた。

世界初の被爆国がなぜ原発大国になったのか
 史上初の原子爆弾を一般市民の頭上に投下され、原子力の脅威を体験した最初の民族である日本人。ヒロシマやナガサキで多くの市民の命が無差別に蹂躙され、阿鼻叫喚の巷を生き延びてきた私たち日本人だが、先人や隣人が味わった原子力にまつわる辛酸な閲歴を顧みることなく、原発立国の道をひたすら進んできた。そして現在、狭小な国土に原子力発電所がところ狭しと林立し、北は北海道の泊原発から南は鹿児島の川内原発まで、日本列島に原子力発電所が54基存在するなど、米、仏に次ぐ世界第三位の原発大国に至っている。
 原子力の惨禍を身をもって知る日本で、原子力発電所が容易に容認され、次々と建てられていったのはなぜか。広島と長崎であれほど多くの犠牲を出し、被爆者の悲劇を間近で見聞きしながら、それでも原子力発電所が日本で建設された理由とは何か。それは、大量殺戮を目的とした原子爆弾(軍事利用)と、電力の安定確保に限定した原子力発電所(平和利用)とでは、原子力の用途や目的が根本的に異なるとされたからである。
 しかし、地震や津波に遭遇した程度で、いとも簡単に原子力発電所が制御不能となる状況を目の当たりにした現今、原爆と原発は根本的に別物だとするこれまでの認識を改める必要があるだろう。
 もとより、広島および長崎の被爆と福島の原発事故を同列に扱うことができないことは分かっている。しかし、原子力は諸刃の刃であることもまた自明である。地震を契機に核の連鎖反応が制御できなくなり、高濃度の放射性物質の大気中への拡散を招き、大勢の住民を被曝させたという結果をみれば、原子爆弾も原子力発電所も、一旦暴走を許せば膨大なエネルギーと放射能を周囲に撒き散らし、取り返しの付かない甚大な被害を招来するという意味で、両者は本質的に同じなのである。「人類と核との共存は不可能なのである」といわれる所以だろう。
 事実、原子爆弾がある日突然広島と長崎の数多の住民を被爆させ、その生命と健康と財産を奪ったのと同様に、原子力発電所にひとたび不具合が生じれば機能不全に陥り、大量に放出された放射能の飛散状況を国民に通知することなく多くの住人を無差別に被曝させ、あるいは、汚染食物の摂取によって身体の中から徐々に被曝させ、向後数十年にわたって多くの人びとが甲状腺癌や小児癌、白血病、心筋梗塞などの疾患によって死亡する危険性を飛躍的に増大させた。
 広島や長崎で原爆の本当の意味を知る私たち日本人は、原子力の危険性を嫌というほど理解しているはずである。にもかかわらず、なぜ私たちは原爆に反対しながらも、その一方で原発をいとも簡単に受け入れてしまったのか。そして、誰がどのような理由で世界初の被爆国を世界有数の原発大国に至らしめたのか……。それらの疑問を解くために、私は原発大国となった経緯と理由を確かめることを思い立ったのである。〈後略〉
[「第1章 三度目の被曝」より抜萃]

上山明博(ノンフィクション作家)
“Atoms for War and Peace” © Akihiro Ueyama 2019

『戦争と平和のための原子力』▶https://www.amazon.co.jp/dp/B07VN7V53F _(._.)_
goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

岐阜県羽島市立図書館で、郷土の作家として常設展示されていることを知る。感謝!!

2019年06月15日 | 日記
私が中学生まで育った岐阜県羽島市の市立図書館から、東京の拙宅に封書が届き、手紙とともに2枚の写真が同封されていた。
手紙には、羽島市出身の郷土の作家として私のプロフィールと著書が常設展示で紹介していることが記されていた。写真を見ると、確かに私の著書が図書館には珍しい表紙見せで展示・陳列されている。私のプロフィールの文面がかなり古いものなので、おそらく随分以前から常設展示していただいているようである。故郷とは有難いものだとしみじみ思う。感謝!!




「羽島市出身の著者・上山明博」(写真提供=岐阜県羽島市立図書館)
goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふくい中央みらいカレッッジ市民公開講座「地震学をつくった男・大森房吉──生誕150年を迎えて」満員御礼!!!

2019年03月11日 | イベント.講演
「地震学をつくった男・大森房吉──生誕150年を迎えて」と題する講演のため、3月9日(土)JR福井駅前の福井市中央公民館に向かった。
会場に入ると、120名の満員の聴講者の拍手に迎えられた。福井の人びとの熱い視線を浴びながら、予定の1時間半はあっという間に経過した。最後に、「ご質問をお受け致しますが」と聴講者にマイクを向けると、地震発生のメカニズムに関するもの、日本の地震学者の系譜に関するもの、小松左京のSF作品に関するものなどなど、矢継ぎ早に質問が寄せられ、質疑応答の充実した時間が心地よかった。
聴講者のなかには、福井市議会議員、元教育長、学校教諭、歷史研究者、郷土史家、観光案内人などの方もいて、福井の偉人・大森房吉に関心を寄せる多くの方々とお会いさせていただいた。これほど熱気を感じた講演会もちょっとない!










goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ふくい中央みらいカレッッジ講演会「地震学をつくった男・大森房吉 ── 生誕150年を迎えて」(講師:上山明博)のお知らせ

2019年02月18日 | イベント.講演
来る3月9日(土)14:00より、JR福井駅前アオッサにて、
ふくい中央みらいカレッッジ市民公開講座
「地震学をつくった男・大森房吉──生誕150年を迎えて」と題する講演会(無料)を以下の通りおこなうこととなりました。

当日は、大森房吉(東京帝国大学地震学教室教授)の戸籍や当時の新聞記事などの貴重な資料画像をプロジェクターでご覧いただきながら、近著『地震学をつくった男・大森房吉』青土社刊の取材の裏話などをお話し、福井が生んだ偉人・大森房吉を正しく評価し、後世に伝えるための一助となればと思っています。
ご興味のある方は、是非お立ち寄りいただきますよう、よろしくお願いいたします。

ふくい中央みらいカレッッジ市民公開講座
講演会「地震学をつくった男・大森房吉──生誕150年を迎えて」(無料)
講師:上山明博(作家、『地震学をつくった男・大森房吉』の著者)
日時:3月9日(土)14:00〜16:00
場所:福井市中央公民館アオッサ研修室601(福井市手寄1-4-1)
共催:福井市中央公民館+福井市旭公民館
お問合せ:電話 0776−20−5459




『地震学をつくった男・大森房吉』上山明博著、青土社刊
goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ドリアン助川さんと7年ぶりに再会!

2018年11月15日 | イベント.講演
昨晩、紀尾井町の日本文藝家協会で行われた文学サロン「ドリアン助川、自作の『線量計と奥の細道』を演じる」に出席し、ドリアンさんと7年ぶりに再会した。
東急ハンズで買ったという線量計(エステー社製)を持ち、折り畳み自転車で奥の細道を旅した行程を、写真と解説と朗読で自著を立体的に再演。ドリアンさんの声量のある声音から、汚染してしまった国土と、この国の危うさがひしひしと感じられた。
講演後、ドリアンさんを囲んで、加賀乙彦さん、村上政彦さん、志賀泉さん、森川雅美さん、野武由佳里さん、北久保まりこさん、山本源一さん、田口博さんなど、作家、詩人、歌人、編集者と近くの居酒屋で大いに語り合い、久しぶりにとても楽しい刺激的な時間を過ごすことができました。ドリアンさん、みなさん、ありがとうございます!

講演後のドリアン助川さん(右)と私・上山明博、日本文藝家協会にて。
goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

大森博士逝く

2018年11月08日 | 大森房吉
今から95年前の今日(11月8日)、地震学の父・大森房吉博士が亡くなった。

大森房吉は、近代地震学の礎をほぼ独りで築き上げ、1916年には日本人初のノーベル賞候補にも選出された。だが、日本史上最悪の大惨事をもたらした関東大震災を予知できなかった責任を一身に背負い、震災の僅か2カ月後の大正12年(1923)11月8日、震災で犠牲となった人びとの後を追うように急逝した。享年55。

→『地震学をつくった男・大森房吉』上山明博著、青土社刊


「
大森博士逝く」写真は、帝大病院を出る大森博士の遺骸(『報知新聞』大正12年11月9日付)
goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『地震学をつくった男・大森房吉─幻の地震予知と関東大震災の真実』上山明博著(青土社刊)出版記念講演会を日本文藝家協会にて開催!

2018年10月10日 | 大森房吉
『地震学をつくった男・大森房吉─幻の地震予知と関東大震災の真実』上山明博著、青土社刊の出版を記念して、2018年10月9日17:30~19:00、日本文藝家協会(千代田区紀尾井町3-23文藝春秋ビル新館5F)にて講演会(脱原発文学者の会主催)を行った。
井上ひさしの元担当編集者・高橋至さんが幹事役を買ってでていただき、会場設営から祝賀会の手配まで、すべてを差配していただいた。
日本文藝家協会理事の森詠さん、同じく理事の村上政彦さん、太宰賞作家の志賀泉さん、女流作家の桐生典子さん、詩人の森川雅美さん、同じく詩人の野武由佳里さん、ジャーナリストの深澤忠利さん、東日本大震災に咲くひまわりの会代表の橘光顕さん、集英社元編集者の山本源一さん、光文社元編集者の竹内充さんなど、多くの作家や編集者が日本文藝家協会に集った。
講演会は作家の村上政彦さんの司会で始まった。
拙著『地震学をつくった男・大森房吉─幻の地震予知と関東大震災の真実』は、かねてより敬愛する作家・吉村昭の代表的な記録文学作品『関東大震災』を遠くに仰ぎ見ながら取材執筆を行った。吉村さんはかつて日本文藝家協会の理事長を務められているが、その日本文藝家協会で拙著の出版記念講演会を行わせていただき、とても感慨深かった。
講演会の後、文藝春秋ビルからほど近い都市センターホテル内のレストランで、出版祝賀会を行った。
冒頭、作家の森詠さんからお祝いのお言葉を頂戴した。
会の最後に、女流作家の桐生典子さんとノンフィクションノベル作家の橘かがりさん両女史から素敵な赤い花束をいただいた──。冥土の土産としたい。


講演会の司会進行を先導していただいた作家の村上政彦さん(左)。


村上さんの紹介を受けて、ご挨拶する講師役の上山明博。


スクリーンに映る演題「地震学をつくった男・大森房吉」の前の上山明博。


冒頭、これからお話しする講演の主旨説明を行った。


講演は、スクリーン画像と配布資料を参照しながら行った。


スクリーンに映し出される資料を示しながら講演する上山明博。


敬愛する吉村昭の『関東大震災』初版本を例に解説する上山明博。


演題の『地震学をつくった男・大森房吉─幻の地震予知と関東大震災の真実』上山明博著。


出版祝賀会場でお祝いのお言葉を頂戴した作家の森詠さん(右)。


女流作家の桐生典子さんと橘かがりさんからいただいた花束。
goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

関東大震災から95年目の日、朝日新聞に『地震学をつくった男・大森房吉』の書評載る!

2018年09月01日 | 書評
関東大震災から95年目の今日(9月1日)、朝日新聞読書面に『地震学をつくった男・大森房吉』上山明博著、青土社刊の書評が掲載されました。書評記事でありながら、関東大震災時に活躍した地震学者の大森と今村両博士による回顧談で構成されていて、とっても面白く拝読させていただきました。評者の山室恭子(東京工業大学教授)さま、ありがとうございます!


2018年9月1日(土)『朝日新聞』読書面
goo | コメント ( 0 ) | トラックバック ( 0 )
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする