葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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〔再掲〕これが肝!「択捉島から北のクリル諸島」「択捉・国後は千島列島にあらず」=「固有の領土」論

2018年11月16日 | 千島列島領土問題
日露首脳会談で「日ソ共同宣言」(1956年)に基礎を置き平和条約交渉を加速化させると一致したことに関連して、9月24日にアップした記事を再掲します。
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極東ウラジオストクでの国際会議「東方経済フォーラム」で、9月10日、ロシアのプーチン大統領は、こともあろうに「前提条件なしの年内の平和条約締結」を提案した。そして、プーチン大統領が大衆の面前でここまで一方的なことを言い出したのにも関わらず、安倍晋三はまったく反論できず、ヘラヘラと笑い続けていたのだ。ここまで一方的なことを言われながら、安倍晋三はただの一度も反論できなかったのだ。この情けない安倍晋三の対応に対して、日本では野党だけでなく自民党内部からも疑問の声が相次ぎ、自民党総裁選を戦っている石破茂も厳しく批判した。そして、こうした多くの批判を受けて、安倍晋三は、16日のNHKの番組で、プーチン大統領が「前提条件なしの年内の平和条約締結」を提案した後、映像に映っていない場所で2人でやりとりを交わし、きちんと「北方領土問題を解決した上で平和条約を締結するのが日本の原則」だと直接反論したと述べたのだ。しかし、その直後、ロシア政府のペスコフ大統領報道官が、ロシア国営テレビのインタビューで、「プーチン大統領が前提条件なしの年内の日本との平和条約締結を安倍晋三首相に提案した時、安倍首相本人からは何の反応もなかった」と証言した。


1945年9月2日には東京湾上の米戦艦ミズーリ号の甲板で降伏文書の調印式が行われた。ソ連軍が北海道の一部である色丹島を占領したのは9月4日。だから歯舞諸島・色丹島と北千島、中千島、南千島の千島列島は分けて考えなくてはならないのが基本である。
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外務省公式ホームページ「北方領土

























日魯通好条約(1855年)
 日本は、ロシアに先んじて北方領土を発見・調査し、遅くとも19世紀初めには四島の実効的支配を確立しました。19世紀前半には、ロシア側も自国領土の南限をウルップ島(択捉島のすぐ北にある島)と認識していました。日露両国は、1855年、日魯通好条約において、当時自然に成立していた択捉島とウルップ島の間の両国国境をそのまま確認しました。

樺太千島交換条約(1875年)
 日本は、樺太千島交換条約により、千島列島(=この条約で列挙されたシュムシュ島(千島列島最北の島)からウルップ島までの18島)をロシアから譲り受けるかわりに、ロシアに対して樺太全島を放棄しました。
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ここが「肝」である。
和田春樹著「北方領土問題を考える」から93~94頁を抜粋するが、和田氏は論理的に「択捉島から北のクリル諸島は誤訳である」ことを明らかにしている。
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さてそのような誤りを含んだ日本文をそのものとしてみると、どのようなことを意味しているだろうか。「ウルップ全島夫より北の方クリル諸島」とは、構文上、ウルップ島以北のクリル諸島という意味ではなく、ウルップ全島およびその北にあるクリル諸島ということでぁる。漢文をみれば、この点は疑いない。この日本文および漢文の文面だけからすれば、ウルップ島はクリル諸島に含まれず、クリル諸島はチリホイ島にはじまる島々だという滑稽なことになる。村山教授は「日本文からはウルップ島がクリル諸島に入るかどうかば明白でない」と述べられたが、私は、クリル諸島はウルップ島にはじまる北の島々であるという解釈をこの日本文から引き出すことは不可能だと結論する。
 ではオランダ文、ロシア文は外務省の主張の助けにはないだろうか。もしもオランダ文が「ウルップ全島は残りのクリル諸島とともに、ロシアの所有に属する」となっており、ロシア文が「ウルップ全島とその他のクリル諸島」とをっていたら、ウルップ島以北の島々がクリル諸島だと主張できたかもしれない。すくなくとも論理的には主張できる。しかし、実際には、「北の方の」というもう一つの限定句が「クリル諸島」にかかっているのであり、そうであれば、オランダ文、ロシア文は、「その他の、南の方の、クリル諸島」の存在をも論理的に含む構造になっているのである。現代における日露交渉史研究の権威、故ジョージ・レンセン博士は、その名著『日本をめざすロシアの進出』の中で、この条約第二条を、「エトロフ島と南の方のクリル諸島は日本領とみとめ、ウルップ島と北の島々はロシア領とみとめる」ものだと説明したほどである。もちろんそれでも「北の方の」という言葉に意味はないと強引に言い張ることはできるかもしれない。しかし、もともとシュムシュ島からクナシリ島までをクリル諸島と考えるロシア人の認識を論理的に表現しているオランダ文、ロシア文を自分の都合のいいように勝手に解釈することはできないはずである。
 実はこのロシア人のクリル諸島認識は交渉を通じて日本側も完全に受け入れていたものであって、だからこそ諸テキスト間の字句上の異同は無視しうるものと考えられたのであり、日本文の欠陥はいかなる実際的意味をも持たなかったのである。つまりクリル諸島の定義は条約の前提にされていたのであり、条約の中で与えられたのではなかったのである。
 その当時衝にあたった川路にしても箕作にしても、それから一〇〇年後の後輩たちがここで見逃された罪の軽いミスの結果に途方もない意義を与えて、そこから「クリル諸島」の定義をびきだし、ロシアとの間に三〇年間もの長期外交戟を展開するようになろうとは、夢にも思わなかったことであろう。
 日露通好条約第二条の日本文は誤解ないし誤記にもとづく欠陥のあるテキストであった。漢文も同じである。その欠陥のある日本文と漢文によっても、欠陥のないオランダ文と、ロシア文によっても、クリル諸島はウルップ島にはじまる北の諸島をさすという規定は得られないと結論することができる。                      
 私はすでに樺太千島交換条約の日本語訳文に立脚して、クリル諸島とはウルップ島にはじまる一八島のみをさすと主張することは、学問的になりたたないことを明らかにした。ここでの結論とあわせて、サンフランシスコ条約で放棄したクリル諸島、千島列島にはエトロフ、クナシリ両島はふくまれないとする論理の重要な柱は成立しえないものであることが論証されたと考えられる。
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大東亜共栄圏全圖から北海道と千島列島部分をカットした。

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日本陸海軍事典(新人物往来社刊)から「千島侵攻」を抜粋した。
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 スターリンは、極東ソ連の太平洋への連絡路として千島と南樺太の獲得を熱望し、対日参戦の代償として、ヤルタ秘密協定により米英首脳に認めさせた。一九四五年八月一四日夜、日本がポツダム宣言を正式に受諾すると、ソ連はヤルタ密約の果実を確保するため、大急ぎで在カムチャツカの部隊、艦船だけで千島の軍事占領作戦に乗り出した。
 八月一八日早朝、ソ連軍が千島北端の占守島に砲撃を加えつつ強襲上陸し、守備の第九一師団(堤不爽貴中将)は、自衛戦闘を行うに決した。日本軍は戦車連隊を中心に反撃し、戦車を持たないソ連軍は海岸地域で苦戦に陥った。師団が全力を挙げて上陸ソ連軍を撃滅する態勢を整えつつあった一八日昼頃、戦闘停止命令が届いた。その後、小戦闘が続いたが、二一日正式に停戦した。この戦闘による死傷者は、ソ連側資料によると、日本軍一〇一八人、ソ連軍一五六七人となっている。
 千島南部に向かうソ連軍の計画は大きくつまずいた。カムチャツカから進出したソ連軍は八月二八日までかけて北・中千島に進出した。この間の二二日に北海道上陸作戦を断念し、南千島に対しては、その充当予定部隊が樺太から進出した。この部隊は二八日択捉島、九月一日国後島と色丹島に進出、通信の行き違いにより、実行命令なしに九月四~五日に歯舞諸島を占領、政治問題化しなかったため、そのまま占領状態が続いている。(中山 隆志)
 執筆者の中山隆志氏は「満州ー1945・8・9 ソ連軍侵攻と日本軍」。「一九四五年夏 最後の日ソ戦」の著作がある。
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古書店から購入した書籍の一部をアップし、地政学上から実証したい。

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大正11年11月7日冨山房発行「改訂 新體日本歴史 第五學年用」





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明治七年八月と明治十年三月に文部省刊行「師範學校編輯 日本地誌略」から「總論」「根室國」「千島國」並びに地図















「総論」









「根室國」





「千島國」




(了)










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