葵から菊へ&東京の戦争遺跡を歩く会The Tokyo War Memorial Walkers

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おとうさんも慰安所にいったようだよ。入り口には白い暖簾がかかっていたらしいよ。

2020年07月31日 | 歴史探訪<上海・蘇州・南京>

「順一 おとうさんも慰安所にいったようだよ。入り口には白い暖簾がかかっていたらしいよ。」
2009年83歳となった母は、テーブルの上にあった「海南島中国人慰安婦裁判」(ハイナンネット)のチラシを見ながら小さな声で言った。
父は1937年第二次上海事変と1941年関東軍特種演習で応召したので、「中支」と「満州」の戦地で慰安所を利用したと思われる。
「戦地で慰安婦と遊んできた」と妻に語る夫。これが教育勅語が言うところの「夫婦相和し」の時代を表している。

石川県の軍歴によると、30歳の父は、1937年9月第九師団輜重兵連隊二等兵として第二次上海事変に応召した。大阪港出発→上海→蘇州→南京→徐州→瑞昌→富水→新墻河及大雲山→宇品港帰着召集解除(上等兵) 34歳で1941年7月関特演(関東軍特種演習)の為第九師団工兵第二連隊に応召。大阪港出発→大連上陸→関東州界通過→牡丹江省綏陽県境通過→延吉到着延吉屯営地区警備・延吉出発→牡丹江到着・出発→鮮満国境通過→釜山港出帆→下関上陸・召集解除(伍長)

父は一回目の出征時には「中支に行ってくるよ。」と言ったそうだが、二回目の出征先は軍から命令されたのだろうか、「満州」と言わなかったらしい。

戦友3人と大阪市内の宿舎。父は男の子を抱いている。「ご真影」の右側が父の寄せ書き日章旗。

満州牡丹江から母に送られた写真。

白い暖簾が架かった慰安所は、中支なのか満州なのか不明である。番町書房刊:絵と詞・富田晃弘著「兵隊画集 戒衣は破れたり」(絶版)に描かれている慰安所は、満州城子溝大城子である。「慰安所マップ」(女たちの平和と戦争資料館)を見ると、父が移動した戦地には慰安所が沢山あることが分かる。機会があってならば、韓国を訪問して「少女像」の前で土下座をしなければならないと思っている。

>文字起こし<(原文のママ)
リリアンで編んだカラー
12師団の司令部は城子溝にあった。傘下の満州第八九四部隊は大城子に駐屯していた。大城子の町中に慰安所があった。料理屋もあった。芸者(日本婦人)をあげるのは将校と上級下士官、俗にいうピイ屋で娼婦を抱くのは年期のあさい下士官と兵隊である。源氏名は「椿」とか「千鳥」とか「深雪」などと古風であったが朝鮮人がほとんどであった。
初年兵用のピイ屋には満人の婦がいた。ピイ屋もピイも極端な上下があった。アンペラ三枚の上で春をひさぐ崩れ果てた婦がかたことの日本語で初年兵に一本の煙草を無心するのはあわれであった。
ハタチにもならぬ満人のピイは日曜日ごとに通ってくる下士官のためにリリアンを編んでいた。野暮ったい襟布をはずしてリリアンでつくったカラーをつけるようにと彼女はわたした。それは愛の証なのか、婦の習慣なのか、それとも客のみんなに彼女はリリアンのカラーをわたしていたのか、わからなかった。
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富田氏が作図した東満州略図

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2000年7月7日新宿平和委員会主催の「中国を訪ねる平和の旅」一行は、北京郊外にある「中国人民抗日戦争祈念館」の張承釣館長と大広間で懇談した。
館長は日本の加害責任について次のことを強調した。
①日本が侵略した時間が長い「100年」
②日本軍が死傷させた人数が多い「3500万人」
③広大な土地を占領したのが「中国の大半」
④中国の損害額が大きい「6000億ドル」
⑤日本軍の手段が残虐である「例えば関東軍731部隊のように世界法規にも反する残虐さ」

帰国後は、この言葉がずしりと心の底に沈んでいった。
「第二次上海事変」と「関特演」で出征した亡父が中国大陸で何をしてきたのか。「父親の罪証探し」をしながら、関東軍731部隊犠牲者や遺棄毒ガス中国人被害者の裁判支援運動に尽力した。

1945年8月15日午前11時(日本時間)、蒋介石総統が重慶より全中国と全世界に向けてラジオ放送で「告文」を発表した。
(翻訳、長谷川太郎氏)
(前略)
 わが中国の同胞よ、「既往をとがめず、徳をもって怨みに報いる」ことこそ、中国文化の最も貴重な伝統精神であると肝に銘じて欲しい。
 われらは終始一貫、ただ侵略をこととする日本軍閥のみを敵とし、日本人民は敵とししない旨を声明してきた。今日敵軍はすでに連合国に打倒されたので、一切の降伏条項を忠実に遂行するよう、もちろん厳重に監督すべきである。しかし、けして報復したり、更に敵国の無辜の人民に対して、侮辱を加えてはならない。われらはただ日本人民が、軍閥に駆使されてきたことに同情を寄せ、錯誤と罪悪から、抜け出ることだけを望むのである。もし暴行をもって敵の過去の暴行に応え、奴隷的侮辱をもって、誤れる優越感に報いるなら、怨みはさらに怨みを呼び、永遠に止まる所ががない。これはけしてわが正義の師の目的ではなく、我が中国の一人一人が、今日特に留意すべきところである。
(以下略)

中国大陸から復員した将兵、帰国した居留民そして国民も、この蒋介石の「寛容」に甘えているのではないだろうか。
亡父が所属した陸軍第九師団第九輜重連隊は、南京大虐殺に直接関わらなかったかも知れないが、弾薬、糧秣類を運んだ加害責任があることは軍事的にも明らかである。

2007年12月13日の侵華日軍南京大虐殺遭遇同胞祈念館70周年祈念式典に参列した後、邑江門綉球公園で献花をした。
2017年12月13日の80周年祈念式典に参加したかったが、国家級祈念館となったので一般旅行者は参列が不可となったので、今回催行された富士国際旅行社のツアーに参加し、28日に「300,000」と刻まれた祈念館広場で献花をした。

献花に付けたリボンには次の文字を入れた。
『旧陸軍第九師団輜重兵第九連隊二等兵故長谷川幸二の長男
 元日本共産党新宿区議会議員長谷川順一
 中国を侵略した日本軍は父たちが運んだ砲弾・銃弾で中国人を虐殺した
 その重罪を謝り赦しを乞う爲七十歳で献花、八十歳で此処に座す
            二〇一七年一二月二八日』









妻と参列した70周年祈念式典会場




日本中国友好協会神奈川県連合会「中国江南平和と交流の旅」に参加。邑江門綉球公園にて。









ジョン・ラーベ祈念館前で



南京民間抗日戦争博物館を見学したら、その展示に父親が犯した罪を謝罪している文章が二つあったのには驚いた。
民設の博物館だからこそ、このような展示ができるのだろう。
一般の老兵士だけではなく、その子どもや孫たちも中国への加害に向き合って欲しいものだ。
安倍首相こそが、祖父岸信介が中国で犯した重罪を謝らなくてはいけないのである。

『南京の皆様へ
 2016、12,14
日本軍人としての私
の父 西山政勇が
先の戦争で大変な
苦痛を与えたこ
とをおわびします
 息子 西山誠一』



『私の父武藤秋一が日本軍第六
師団兵士として南京人民に
対して行った侵略行為に
ついて心から反省と謝罪を申し上げ
ます
二〇一七年一二月十日
日本熊本県
田中信幸
爲日中友好』

(了)

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