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映画「日本のいちばん長い日」が明日15日に放映されます

2021年08月14日 | 歴史探訪<市ヶ谷台・防衛省・東京裁判>

管理人がツアーガイドの富士国際旅行社企画>「戦後」のはじまりを考える東京連続フィールドワーク<』を昨年4月にエントリーしましたが、コロナ過のために残念ながら中止となりました。

朝日新聞テレビ欄に明日15日「日本のいちばん長い日」が放映されるようですので、改めて重要な部分をご紹介します。

映画では、陸軍省軍務局軍事課畑中健二少佐(黒沢年男)が、日本放送協会放送員の館野守男(加山雄三)にピストルを突きつけて「玉音放送」の中止を迫っています。

富士国際旅行社初代社長柳沢康雄氏は、戦前の日本放送協会報道部副部長でした。1945年8月15日正午からの玉音放送の準備をしている時に、陸軍省軍務局畑中少佐が放送会館に侵入し、柳沢氏にピストルを突き付け放送を中止るように恫喝しましたが、それにはひるみませんでした。いわゆる「宮城事件」ですが、2014年8月9日朝日新聞「be」映写室に「終戦間際に反乱した軍」映画「日本のいちばん長い日」(1967年)の特集記事があり、電波ニュース社と富士国際旅行社を創立した柳澤恭雄さんのことが詳しく紹介されていました。

>文字おこし<              
 実際に畑中健二少佐から拳銃を突きつけられたのは当時、日本放送協会報道部の副部長だった柳澤恭雄さん(1909~2007)だ。著書『検閲放送』にそのときの様子が克明に描かれている。
 1945年8月15日午前4時すぎ、報道部の部屋に現れた畑中少佐は柳澤さんの胸にピストルをつきつけ「決起の趣旨を国民に放送させろ。させなければ撃つぞ」と言った。異様な目つきだった。柳澤さんは放送させるわけにはいかないと、無言で畑中少佐の目を見つめた。
  緊張が続いたあと、やがて引き金の指が緩んだ。「やらせてくれよ、たのむ」と畑中少佐は哀願調になった。柳澤さんは「できないんですよ」と答えた。畑中少佐は軍司令部と電話したあと、ついにあきらめて6時すぎに放送局を去った。「危険の中で危険を報道し危険をのりこえる。これは使命感であって、ジャーナリストの性である」と柳澤さんは記す。
  この事実が明らかになったのは、映画が上映されてから18年後の85年、柳澤さんが文芸春秋」に投稿してからだ。

  戦時中の放送は大本営発表と通信社の原稿をそのまま読むだけだった。柳澤さんは自主的な取材の必要性を唱え戦後、放送記者を公募した。現在のテレビラジオ報道の基盤を作ったのだ。50年にレッドパージで解職されると60年に日本電波ニュース社を設立し、社長となった。

  ベトナム戦争の初期、いち早く北ベトナムに特派員を派遣したのが同社だ。柳澤さん自身、62年にハノイでホー・チ・ミン主席に会見した。イラク戦争を取材中に殺された報道写真家の橋田信介さんも元は同社のハノイ特派員だった。果敢なジャーナリスト魂の源は柳澤さんにある。柳澤さんはさらに市民が海外を知る必要性を唱え64年、スタディー・ツアーを行う富士国際旅行社を立ち上げた。
  日本電波ニュース社の石原巳佐夫社長(73)は「戦車の残骸だらけの地雷原を歩きながら、柳澤さんは道端の花を指して『あれを撮りたまえ』と言った」と語る。NHKの『20世紀放送史』を書くため柳澤さんから聴いた元NHKチーフ・ディレクターの秋山久さん(78)は「一貫した生き方を貫いた人」と評価する。
  秋山さんは柳澤さんの意外な発言を覚えている。「畑中が死んでなければ、いっしょに飲みたかった」。柳澤さんは94年に畑中少佐の実家を訪ね、霊前で冥福を祈った。遺族に聴くと畑中少佐は、実は純朴な文学青年だった。周囲の圧力でいやいや軍人になったのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

(了)

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