歴史と自然への訪問記

福岡を中心に探索・活動しています。歴史と自然が好きです。日々感じるまま綴っていきたい。

菊池武時と鎮西探題

2010年07月29日 | 歴史

何年か前に、菊池市の菊池神社や菊池渓谷に行ったことがありました。
その時、菊池公が筋金入りの勤皇派の豪族だったことや、菊池渓谷の自然に触れて来てよかったと思った記憶がありました。また、太刀洗にも銅像がありますね。

最近、その菊池神社が福岡市内にもあり、しかも2箇所もあるとわかり探しに行ってきました。今回は福岡市にある菊池神社と菊池霊社、それに鎮西探題のお話です。

菊池氏は波乱の時代を駆け抜けていった豪族で、源平争乱の時、最初は平家の家人となり、次に源頼朝が旗揚げすると源氏につき、平家が九州へくると平家に、壇ノ浦の戦いでは源氏につくといって、源平の間を泳ぎ渡り、最後は勝者の側に立った。

しかし、そのため源頼朝に真意を疑われ他の御家人と比べてもらった恩賞はかなり少なかったらしい。でも、一族を守り乱世の中を生き抜いていくために最終的に勝者の側に立たないと滅亡を意味することから、これはしかたがないことだったと思う。

その後の菊池氏は、8代菊池隆能は承久の乱の時、後鳥羽上皇方に味方し北条義時によって所領を減らされてしまう。10代菊池武房は元寇の時、一族郎党を率いて元軍と戦闘を交えた。蒙古襲来絵詞に書かれている。文永の役で菊池有隆と共に100騎余の軍勢を率いて元軍と戦い破り、弘安の役でも活躍した。

12代目が菊池武時です。武時は、鎌倉時代の末期、後醍醐天皇の綸旨に応じます。西暦1333年3月、博多にある鎮西探題へ出仕するが、侍所から遅参を非難されます。
その2日後に菊池武時は挙兵します。少弐・大友をさそってみるが拒否され、
菊池一族200騎余のみで鎮西探題の北条英時と合戦となるが敗れてしまう。息子の菊池頼隆以下200騎余とも討死し、一族の首は犬射馬場に懸けられたという。犬射馬場の場所は鎮西探題の脇とも現在の博多駅方面ともいいはっきりしていない。
菊池武時は、子の武重を合戦の折、本国の一族を頼むと言い本国へ帰します。
その後、武重は朝廷側に立って足利尊氏とも戦うようになります。

福岡市営地下鉄の七隈駅近くに菊池武時の胴を埋めたという古塚の伝承があり、西暦1831年に菊池氏の子孫が墓碑を建立し、菊池神社として神殿・拝殿も建てられました。また、福岡の六本松という所に菊池武時の首塚があると伝えられていてそこにも菊池霊社が建立されています。



■福岡市の七隈駅近くにある菊池神社の拝殿です。両脇のは菊池家の家紋です。



■菊池神社の由緒の案内板です。



■菊池武時公の胴塚です。神殿のすぐ裏にあり円墳のようにこんもりとしています。その中央には石碑がたっています。回りは柵に囲まれています。

菊池武時による探題襲撃が九州での討幕の契機となり、その2ヶ月後には鎌倉幕府は滅亡してしまいます。その後、少弐、大友、島津らの九州武士達も倒幕側に転じて鎮西探題を滅ぼすことになります。

建武の新政時、楠木正成は「菊池武時は帝(後醍醐天皇)に一命を賭した忠臣第一の人」と賞賛し、菊池武重は恩賞として肥後一国を与えられたという。



■六本松にある菊池霊社の正面から写しました。神殿や拝殿はなく石碑がたっています。

■菊池霊社を横から写しました。鳥居の後にあるのが石碑です。

次は鎮西探題です。
鎮西探題のあった場所は、鷲尾山といい現在の福岡市西区愛宕山で、当時は鷲尾城があり、そこに鎮西探題がおかれました。鎮西探題は、鎌倉時代の元寇の後に設置された機関で幕府の九州統治(行政、訴訟、軍事など)を行い、西暦1293年に9代執権北条貞時の頃ですが、北条兼時、名越時家が派遣されるのが最初となります。西暦1296年の北条実政から1人体制となる。西暦1299年に、評定所、引付衆が追設置されました。



■今は、鎮西探題を連想させるものは何もないです。愛宕山から福岡タワー方面を写してみました。

当時の鎮西探題北条英時は、幕府最後の執権北条守時の弟で赤橋英時ともいう。
西暦1333年3月、鎮西探題の北条英時は、攻めてきた菊池武時を少弐、大友、島津らとともに破る。
しかし、5月に京都で足利尊氏が六波羅探題を陥落させたと聞こえるや、それまで従順であった少弐、大友、島津らが離反し鎮西探題を攻めてきた。
北条英時は懸命に防戦したが敗れ博多で一族240名と共に自害します。
北条英時は六波羅探題を陥落させた足利尊氏の正室の兄である。
英時の無念さが伝わってくるような気がします。

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