歴史と自然への訪問記

福岡を中心に探索・活動しています。歴史と自然が好きです。日々感じるまま綴っていきたい。

志賀島を1周してきました

2010年09月26日 | 歴史

今回は福岡市東区の博多湾突端にある陸続きの島、志賀島に行ってきました。この島は福岡市内の港湾から海のの向こう側にあるので、よく見えますね。近いけど、ちょっとだけ遠い島です。それでも最近は湾を埋め立てた所に橋ができ少しショートカットできます。それに島と陸続きの部分の道路は、両サイドは海なんですよね。いい眺めです。


■志賀島より福岡タワー方面を見る。船が数多くいました。

島に渡り、しばらく行くと金印公園がありました。ここで発見されたんですか。
1784年(江戸時代中期)に志賀島で発見された。後漢の光武帝より贈られた金印は純金製で大きさは2.3Cm X 2.2Cm、重さは108.7gあるそうです。「漢・委奴・國王」の文字が彫られていて、たしか福岡市博物館で見たような気がします。


■金印公園の案内板です。


■金印を模した記念碑かな? 

さらに道路を進みます。島の周囲を道路が囲んでいるので一周します。
すると、蒙古塚がありました。ここは、1274年の元寇(文永の役)の時、蒙古軍が志賀島で捕虜となり、そのうち120人ほどを、ここで斬首したという。その場所を首切塚(蒙古塚)といいます。


■クビキレ? 何か名前の付け方が凄いです。


■旧蒙古塚です。


■蒙古の墓が並んでいます。


■戦いの絵が飾ってありました。

さらに海沿いの道を進みます。やがて一周するかと思う頃、志賀海神社に着きます。
底津綿津見神を祭神とする神社で、創建は明らかではないのですが、豊臣秀吉、大内義隆、小早川隆景、小早川秀秋、黒田長政などが寄進したという由緒ある神社です。筑前国風土記には神功皇后が三韓征伐の際に志賀島に立ち寄ったと書かれています。
この神社は全国の綿津見神社の総本宮(海神の総本社)で、4月と11月には例祭があり「君が代」の神楽が奉納されます。その神楽歌は古くからこの神社に伝わっているもので『君が代』誕生と関連があるとの説があります。
※糸島半島にある細石神社にも『君が代』関連説があり、九州北部には古代王朝に関する伝説が数多く存在していますね。

神楽歌:
『君が代は 千代に八千代に さざれいしの いわおとなりてこけのむすまで
あれはや あれこそは 我君のみふねかや うつろうがせ身骸に命 千歳という
花こそ 咲いたる 沖の御津の汐早にはえたらむ釣尾にくわざらむ 鯛は沖のむれんだいほや

志賀の浜 長きを見れば 幾世経らなむ 香椎路に向いたるあの吹上の浜 千代に八千代まで
今宵夜半につき給う 御船こそ たが御船ありけるよ あれはや あれこそは 阿曇の君のめし給う 御船になりけるよ
いるかよ いるか 汐早のいるか 磯良が崎に 鯛釣るおきな』

祭神:
  底津綿津見神(そこつわたつみのかみ)
  仲津綿津見神(なかつわたつみのかみ)
  表津綿津見神(うはつわたつみのかみ)


■志賀海神社の案内板です


■神社の略記です。


■神社の正面から撮影。いい感じです。


■拝殿です。

石造宝篋(ほうきょう)印塔 がありました。
これは滅罪や延命などの利益、追善・逆修の供養塔、墓碑塔として造立されるものです。密教系の石塔だったものですが鎌倉期以降は宗派を超えて多く作られました。関東型と関西型の2種類があり作り方が少し違うようです。


■案内板です


■石造の宝篋印塔です

亀石 ? 神功皇后の三韓征伐のおり、阿曇磯良が亀に乗って皇后らの前に現れた故事にちなんで後世奉納されたものです。


■亀石の案内板です


■亀石です

山の神の祠です。海の神の神社に山の神の神社がある??
それは置いておいて、ここは空の財布を置きお願いすると、財布の中身が増えていくというご利益があるらしいです。まあ増やす努力もたいせつなのでしょうが。


■山の神の祠の案内板です


■祠の全景です。

鹿角堂です。拝殿前の広場の隅にある建物。狐格子がはめられ、奉納された鹿の角は1万本以上といわれています。格子の中に鹿の角が充満しているのがわかりますでしょか。


■鹿角堂です。格子の中に鹿の角がたくさんあります


■格子のところを拡大しました。鹿の角がたくさん見えます。

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