歴史と自然への訪問記

福岡を中心に探索・活動しています。歴史と自然が好きです。日々感じるまま綴っていきたい。

肥前国府政庁跡と吉備真備

2010年07月24日 | 歴史

今回は、九州横断道の佐賀大和インターチェンジの近くに行った折、たまたま、肥前国府政庁跡を見つけました。敷地は東西77メートル、南北104メートルの広さです。建物と礎石以外は草原となっていて柵で囲まれています。

肥前政庁は、8世紀~10世紀まで存在したと考えられています。
750年に国司として赴任したのが有名な吉備真備です。

国府は7世紀後半より、中央が地方を治めるための行政機関として設置。
ここは肥前国を治めるための行政府で長官は国司、国司は中央政府より派遣される。国司の下には、郡司(その地方の豪族が任命されることが多い)がいます。

ここ肥前国府政庁跡では、南門が再現されており、築地塀も一部分を再現、公園化されています。また、歴史資料館が併設されていて見学も自由です。



■肥前国府政庁の概要の案内板です。



■南門と築地塀の一部です。政庁前に広がる草原から南門に正面から撮影しています。広いです。ここは。



■政庁の中です。手前の礎石は東脇殿南棟、後ろの礎石は東脇殿北棟、左側の礎石は正殿、その後ろが後殿です。他に写っていませんが前殿、西脇殿南棟、西脇殿北棟の礎石があります。


前、大宰府政庁跡を見に行ったことがありますが、
同じように広大な敷地に建物の礎石が点在している風景は同じですが、違うのは、肥前国府政庁跡は南門、築地塀の一部が再現されていること。敷地は柵に囲まれ入れないことです。(大宰府政庁跡は、建物は再現されていませんが、敷地内は入れます。資料館も近くにあります。

政庁は、正殿、前殿、後殿、脇殿、八脚の南門から構成され瓦葺の屋根です。
ここからは鬼瓦、軒丸が出土している。

■鬼瓦と軒丸です。鬼瓦は屋根の両端から水が入らないようにするためのものです。魔よけ、厄除けの神瓦であり、権力の象徴でもあります。
軒丸は飾り瓦でデザインは、中国渡来の模様だそうです。


吉備真備について調べてみました。
吉備真備は岡山で生まれる。22歳の頃、遣唐留学生(遣唐使)として唐へ渡り多くの典籍を携えて帰朝した。やがて橘諸兄が右大臣に任ぜられ政権を握ると重用され右衛士督となる。

750年、太政大臣の藤原仲麻呂とうまくいかなくなり、九州へ左遷される。
2年後、遣唐副使となり再度入唐、唐で阿倍仲麻呂と再会する。後、鑑真を伴い無事に帰朝。

754年に大宰少弐に昇任、翌年に新羅に対する防衛のために筑前国に怡土城を築く。759年に大宰大弐に昇任。764年には造東大寺長官に任ぜられ帰京する。

帰京後、藤原仲麻呂が反乱をおこした際に、追討軍を指揮し乱を鎮圧する。
766年、右大臣に昇任。

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