元寇は、鎌倉時代にモンゴル帝国(元)から、2度にわたり行われた日本侵攻のことで、1274年の文永の役、1281年の弘安の役がありました。
文永の役
文永11年、元軍は兵力3万をもって、10月5日に対馬、同14日に壱岐を襲撃、鷹島の松浦党の本拠は全滅。生き残った者は、手の平に穴を開け、穴に革紐を通して船壁に吊るし見せしめにしたという。また、将軍金方慶が捕虜とした子供男女200人を高麗王と王妃に献上したともいわれる。
元寇時、壱岐の悲惨な状況が博多にも伝わり、それが京都、鎌倉へ急報され、鎌倉幕府は九州豪族、少弐氏や大友氏などを中心に大宰府に兵馬を集結させた。元軍は、10月19日に博多湾の今津に停泊、一部兵力を上陸させた。翌日、百道浜、続いて地行浜、長浜、那ノ津、須崎浜(博多)、東浜、箱崎浜に上陸させた。
博多湾西部から上陸した兵は、麁原(祖原山)、別府に陣を構えた。開戦時は、一騎打、先駆けで戦ったので一方的に損害を受けた日本軍も、やがて集団戦術に対応できるようになった。この戦は、それ以前の戦の仕方から集団戦術へと革命的な大転換がおきた出来事でもあった。
赤坂にて菊池武房らの軍勢230名ほどの騎馬が徒歩の部隊だった2000の元軍を撃破した。また、竹崎季長が鳥飼潟から祖原へ追撃し上陸地点へ押し返した。さらに後続を待たず、先駆けを試み窮地に陥ったところ、白石通泰らが救援に駆けつけ矢戦となった。博多では海岸付近で激しい矢戦となり、日本軍は敗走。しかし殿軍の少弐景資が追撃してきた副将の劉復亨を射倒し内陸への侵入を阻止した。
元軍は副将の劉復亨が負傷したこともあり撤退した。その最中、夜中に暴風雨があり艦船が難破、派遣軍のうち1万3500人を失ったという。
弘安の役
弘安4年、東路軍(元・高麗軍主体)4万と江南軍(旧南宋軍)10万の合わせて14万の軍が日本に向け出発した。それに対し日本側は、博多沿岸に約20キロメートルにも及ぶ防塁(元寇防塁)を築いて待ち構えた。防塁は高さ3メートル、幅2メートル以上もあり堅固を誇り上陸を許さない体制を敷いた。
東路軍は防塁があるため博多沿岸に上陸できず志賀島に上陸、日本軍と戦うが集団戦術を文永の役で獲得していた日本は元軍を海上に撤退させた。防塁が目的どおりの役目を果たしていた。
江南軍は遅れてきたが、平戸の鷹島付近にて東路軍と合流した。しかし、ここでも暴風雨により甚大な被害を受ける。その際、竹崎季長らも鷹島へ奇襲を行い元軍を殲滅する。またもや、元軍の日本侵攻は失敗に終わった。
今回撮影した場所は、西区今津の長浜海岸にある元寇防塁跡、西区下山門の生の松原の元寇防塁跡、早良区西新にある祖原山です。
■元寇防塁跡の案内版です。
■防塁を構築した場所と鎌倉時代当時の博多沿岸の地形を表しています。
赤線が防塁の位置です。当時は現在の内陸まで海だったのですね。
■竹崎季長の合戦図で防塁も描かれています。勇ましく頼もしいです。
■防塁の構造図です。左側が海浜となります。馬に乗った兵が描かれています。防塁の高さと馬に乗った兵の比較ができますね。防塁の高さが最大3メートルもあり、内側から日本軍が攻撃します。これなら上陸は無理ですね。
■防塁跡の石碑です。松林の中にあります。すぐ目の前が海です。この左側に防塁が延々とあります。
■生の松原にある防塁を復元したものです。前は海、後は松原に囲まれています。
■今津にある防塁を復元したものです。延々と続いています。防塁の側面(裏側)です。保存のために金網で囲ってあります。
■上の写真と同じものです。防塁を上から撮ったものです。
■上の写真と同じものです。防塁の海側から写真を撮ったものです。
■生の松原の防塁付近から博多湾を写したものです。当時は元軍の船が大群で押し寄せてきた海です。今は静かに波打っています。
■早良区西新にある祖原山です。元軍が上陸し、この山に陣を張り、戦場にもなったところです。今は公園となっており、春は桜がきれいなところです。
■元寇の戦いの記念碑です。
■山頂です。広場になっています。当時はここに元軍の将軍はじめ兵がたくさんいたのでしょう。山頂には鳩がいます。人が行くと鳩が寄ってきます。今は平和でよかったと思った瞬間でした。
■山頂から撮った、西新の街並みです。
今回、元寇の史跡をいろいろと探しましたが見つからなかったものも、2つ、3つではありませんでした。いつか続編の記事を書きたいなと思ってます。