歴史と自然への訪問記

福岡を中心に探索・活動しています。歴史と自然が好きです。日々感じるまま綴っていきたい。

唐河神社と七郎神社へ行ってみました

2011年05月05日 | 歴史

福岡から263号線で三瀬トンネルを抜けて北山ダム湖付近を通り池田交差点を左折、
しばらく行くと藤原氏とゆかりのある唐河神社があります。
この神社に合祀されたことがある、ここより東にあり七郎神社へも行ってみました。

ここは唐川の集落にある神社です。藤原氏を祀る神社だそうです。

唐河大明神

 祭神:天児屋根命 (藤原氏の祖先神だそううです)
 神体:青石
 神紋:三ッ寄十二菊花

三瀬村史によれば、この神社は平安時代末期1154年(久寿元年)、藤原鎌足の子孫である藤原式部少輔兼基は西国鎮撫のために肥之国に下向、乱が鎮まった後も、ここに居住し、生国である大和国、春日大明神を勧請し、柳野山早馬大明神を建立した。
官職の式部少輔とは役人養成機関である大学寮の管理をする役職で、従五位に相当し五位以上が平安貴族と言われたようです。
その後、嫡男大和守兼隆は1213年(建保元年)に柳野山を薙野山と改め、姓を薙野氏と名のり、社殿を薙野川辺の岸高に造営して天児屋根命を祀り、社号を唐河大明神と号した。その際、矢房大明神と七郎神もここに合祀したそうです。近くに七郎神社があります。その神社とは関係はあるのでしょうか。
あとで、そこへも行ってみましょう。

それから358年後、1571年(元亀2年)に池田村の住人の枕辺に春日大明神が現われ、池田邑の池の中に神体があるので、探して祭祠するようにという夢のお告げあった。池を探してみると青石がみつかり、これを御神体として神社に祀った。


■唐河神社です。鳥居は上半分しか映っていませんが、ご勘弁を。


■鳥居より境内にはいりました。中央にみえているのが拝殿です。


■拝殿の全景です。なかなか時代を感じさせますね。狛犬、わかりますか。


■拝殿の近景です。いい感じでしょう。額には唐川と書かれていますね。


■おまたせしました。狛犬です。いつもと違う形してますね。


■狛犬です。反対側におります。こちらも、いつもと違った形をしております。


■神社の周りの風景です。天気も良く、田植えの準備に忙しそうでした。

合肥された七郎神を祀っているとみられる七郎神社にもきてみました。
唐河神社から、ここまで2㎞位でしょうか。でも神社があるということは合祀されたわけではないのかもしれません。神社は藤原の集落にありました。ここの地名は藤原というんですね。関係ありそうです。
ところで七郎とは一体誰なのでしょうか。

社号:七郎大明神
祭神:少名彦命・神代勝利

神社は1226年(嘉禄2年)に、藤瀬左馬助という人により創建されたようです。
祭神の神代勝俊とあるのは神代勝利のことだそうです。藤瀬左馬助は、創建当時の地元の有力者であったのでしょう。
神代勝利は三瀬城を本城として居住し、家紋は「立竜木瓜」、なぜか神代勝利の肖像画には「巴紋」が書いてあるそうな。かなり剛腕の武将だったようで少弐氏を支援し、龍造寺隆信と死闘を繰り広げます。
龍造寺隆信が少弐氏を滅ぼした後も戦い続けたが、大軍の前に遂に敗れ勝利は筑前の高祖城主原田隆種を頼って落ちていった。 勝利は原田氏領内の長野で力を養い、龍造寺隆信領へ侵入し春日山城を攻め落とすなど戦い続け自領へ復帰した。1562年(永禄5年)龍造寺隆信と勝利は和睦、勝利の四歳の孫娘と隆信の三男の鶴仁王丸との縁組契約が行われた。1565年(永禄8年)勝利は戦い続けた末、55歳で永眠する。
その後、龍造寺氏の配下となり、次いで鍋島直茂の配下となった。鍋島氏の重臣として4300石の知行を得て明治維新まで続いたそうです。

結局、七郎神を祀っている神社の存在と、七郎神を唐河神社に合祀したということとは別のことかもしれませんね。


■鳥居です。写真は拝殿に向かって撮影しておりますが、これ以上は下がれません。
なぜかというと、この後ろ、いえ鳥居の前はがけになっております。拝殿の横から境内に入りまして
鳥居を潜り抜け崖を気にしつつクルリと回って撮影しました。


■境内です。鳥居の内側から撮影しました。


■拝殿です。最近、新しくしたのでしょうか。特に額が真新しかったです。
額には、青地に金色で七郎神社と書かれていました。

この近隣の神社も回ったみました。整理ができたら投稿したいと思っています。


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