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安保改定の真実 [上]

2015年09月23日 17時23分48秒 | 国際・政治
ホテル地下の極秘核シェルター アイクが恐れた米ソ核戦争 「共産主義者はサーベルを鳴らし続けた…」

 米国の首都ワシントンから西南西に車で4時間あまり。アパラチア山脈の森を分け入ると唐突に視界が開け、ホワイトハウスを彷彿させる白亜の建造物が現れる。ウェストバージニア州ホワイト・サルファー・スプリングスの「グリーンブライヤー」。歴代大統領が避暑地として利用したことで名高い高級ホテルだが、この地下に連邦議会の巨大な核シェルターが存在することは、1992年5月にワシントン・ポスト紙がスクープするまで国家のトップシークレットだった。

 バンカー(掩蔽壕)と呼ばれるこの核シェルターは、厚さ1・5メートルのコンクリートで覆われ、地下3階建て。ホテル内壁などに偽装された4カ所の鋼鉄製扉から出入りでき、居住スペースのほか、会議室や食堂、研究室、診療所、放送スタジオまで完備されている。発電機3基と約30万リットルの水タンクを備え、議員スタッフを含む1100人が2カ月以上暮らすことが可能だという。

 施設の維持・管理を担う数人の政府要員は「テレビ修理工」を名乗った。78年からピアニストとしてホテルで働き、現在は広報担当のジェシカ・ライト(63)は、事務所の古ぼけたブラウン管テレビ2台を指さしながらこう語った。

 「ホテルで働く人たちも本当に修理工だと信じ込んでいたんです。このようにテレビもたくさんありましたし…」
 この核シェルター建設を提案したのは、第34代大統領、ドワイト・アイゼンハワー(アイク)だった。第二次世界大戦時に欧州戦線の連合国軍最高司令官としてノルマンディ上陸作戦を成功させた英雄であり、徹底した反共主義者でもあった。

 56年3月、上院院内総務のリンドン・ジョンソン(後の第36代大統領)ら議会指導者はアイクの提案に同意し、ホテル経営会社と「米議会にとって死活的に重要な事項」に関わる秘密契約を結んだ。計画は「グリーク・アイランド(ギリシャ島)」というコードネームで呼ばれ、59年に着工、61年に完成した。

 アイクが核シェルター建設を急いだのは、米ソ核戦争の危機が迫っていると判断したからだった。

 ソ連の最高指導者であるニキータ・フルシチョフは56年2月、第20回ソ連共産党大会で、53年に死去するまで独裁制を敷いたヨシフ・スターリンを批判し、米国との平和共存路線を打ち出した。国際世論はこれを「雪解け」と歓迎したが、アイクは決して信じなかった。回顧録ではフルシチョフをこう酷評している。

 「彼は世界革命と共産主義支配というマルクス主義理論への忠誠により盲目となっていた。彼にとって世界の諸国民の将来の幸福などは全くどうでもよく、共産主義思想実現のため彼らを組織的に利用することだけを考えているのだ」
 50年代後半から60年代にかけて米ソ核戦争は切迫した脅威だった。国務長官のジョン・ダレスは54年1月、ソ連が欧州に侵攻すれば、圧倒的な核戦力で報復する「大量報復戦略」を宣言したが、ソ連が米本土を核攻撃する能力を持てば、この戦略は「絵に描いたモチ」となりかねない。

 「(連合国軍総司令官の)ダグラス・マッカーサーは朝鮮戦争で核兵器の使用を検討しました。アイクも同様に地域紛争が米ソ戦争に拡大しかねないと考えたのでしょう。そんな事態となっても議会という制度、そして憲法の枠組みを残さねばならないのです」

 グリーンブライヤー専属の歴史家(博士)のロバート・コンテ(68)はこう解説した。

 57年に入ると、アイクを震撼させるニュースが次々に飛び込んできた。

 8月26日、ソ連は大陸間弾道ミサイル(ICBM)実験成功を発表した。10月4日には人類初の人工衛星「スプートニク1号」、11月3日に「同2号」の打ち上げを成功させた。これはワシントンを含む米全土がソ連のICBMの射程圏に入ったことを意味する。これで戦略爆撃機を大量保有することにより優位性を保っていた米国の核戦略は覆った。アイクは回顧録に怒りをぶつけた。
 「スプートニクは米国民の心理的な弱さを露呈させた。共産主義者たちは騒乱を扇動し、サーベルを鳴らし続けた…」

 フォード財団のローワン・ゲイサー率いる諮問機関「安全保障資源パネル」は11月7日、「核時代における抑止と生き残り」と題した報告書をまとめた。

 59年末までにソ連が核弾頭を搭載したICBM100発を米国に向け発射可能になると推計するショッキングな内容だった。米兵力の脆弱さを指摘し、大量報復戦略の有効性にも疑問を投げかけ、「われわれの市民は無防備状態に置かれる」として大規模核シェルター建設などを提言した。

 ゲイサーから報告書を受け取ったアイクは動揺を抑えるように「われわれはパニックに陥ってはならないし、自己満足をしてもいけない。極端な手段は避けるのだ」と語り、報告書を極秘扱いにするよう命じた。ダレスも、とりわけ核シェルター建造に関する部分を問題視し「公表すれば欧州の友人(同盟国)を見限ることになる」と述べた。

 11月7日夕、アイクはホワイトハウスの執務室からテレビとラジオで国民向けに演説し「核兵器の分野では質も量もソ連に大いに先んじている」と強調した。それでも「衛星打ち上げに必要な強力な推進装置により証明されたソ連の先進技術や軍事技術の能力には軍事的重要性がある」と認めざるを得なかった。


動き出した岸信介 「経済など官僚にもできる。首相ならば…」 ダレスに受けた屈辱バネに

 スプートニク・ショック後、第34代大統領、ドワイト・アイゼンハワー(アイク)は戦略転換を迫られた。アイクはもともと、米軍の通常兵力を削減し、余った予算をICBMやSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)など戦略兵器の開発・増強に回す「ニュールック戦略」を進めていたが、この動きをさらに加速。63年までにICBMを80基に増やす計画も130基に上方修正した。

 そしてアイクは同盟国との関係強化にも躍起になった。

 わけても日本の戦略的重要性は抜きんでていた。日本海を隔ててソ連、中国、北朝鮮など東側陣営と対峙(たいじ)しているからだ。

 駐日米大使のジョン・アリソンは、ダレスに「日本は独ルール地方と並ぶ工業地帯であり、もし共産主義勢力に乗っ取られれば、われわれは絶望的な状況に陥る」と報告していた。

 にもかかわらず、日本には、冷戦下の切迫した国際情勢を理解する者はほとんどいなかった。政界は数合わせの政局に明け暮れ、メディアも安全保障や軍事には無知だった。大統領特別顧問のフランク・ナッシュはこう例えている。
 「日本は不思議の国のアリスの夢の世界のような精神構造に置かれている」

 ただ、昭和32(1957)年2月に第56代首相に就任した岸信介は違った。

 岸は戦前に革新官僚として統制経済を牽引(けんいん)し、東條英機内閣で商工相を務めたことから、戦後はA級戦犯として巣鴨拘置所に収監され、不起訴となった経歴を持つ。国際情勢を見誤れば、国の行く末が危ぶまれることは骨身に染みていたのだろう。

 それでも岸が就任直後に掲げた公約は、汚職・貧乏・暴力という「三悪」の追放だった。安全保障に関しては「対米関係の強化」「日米関係の合理化」という言葉しか使っていない。

 その裏で、岸は就任当初から旧日米安全保障条約改定に狙いを定めていた。

 昭和26(1951)年9月のサンフランシスコ講和条約と同時に締結した旧安保条約は、在日米軍に日本の防衛義務がないばかりか、条約期限も事前協議制度もなかった。しかも日本国内の内乱に米軍が出動できる条項まであった。岸はかねて「これでは米軍が日本全土を占領しているような状態だ」と憂慮していた。

 女婿で毎日新聞記者から秘書官となった安倍晋太郎(後の外相、現首相・安倍晋三の父)が「得意の経済で勝負した方がよいのではないですか」と進言すると、岸は鼻で笑った。
 「首相とはそういうものじゃない。経済は官僚がやってもできる。何か問題が生じたら正してやればよいのだ。首相であるからには外交や治安にこそ力を入れねばならんのだ」

 にもかかわらず、安保条約改定を掲げなかったのは対米交渉の難しさを実感する苦い経験があったからだ。

 昭和30(1955)年8月、岸は民主党幹事長として外相の重光葵の訪米に同行した。国務長官のジョン・ダレスとの会談で、重光は唐突に「日本は現行条約下で増大する共産主義の宣伝工作に立ち向かわなければならない。共産主義と戦うための武器がほしい。これを条約改定で得たい」と安保改定を求めた。だが、ダレスはけんもほろろに言い放った。

 「偉そうなことを言うが、日本にそんな力はあるのか? グアムが攻撃されたとき、日本は米国を助けに来られるのか?」

 屈辱ではあったが、やりとりを聞きながら岸は「ダレスが言うのももっともだが、やはり日米安保条約は対等なものに改めなければならない」と感じ入った。

 以後、岸は安保条約改定を最大の政治課題と位置づけ、首相就任直後から着々と布石を打っていくが、日米両政府が公式に改定交渉で合意したのは昭和33(1958)年9月11日。その秘密主義は徹底していた。
 アイクは、岸の首相就任を心から歓迎した。日米同盟を強化させる好機だと考えたからだ。岸は戦前に駐日米大使を務めたジョセフ・グルーらと親交があったこともあり、岸の去就はかねて米国から注目されていたが、アイクには岸の頑強な「反共」「保守」の姿勢が頼もしく映ったようだ。

 条約改定は一国の意向では動かない。安全保障に関わる事案はなおさらだ。岸とアイク。この極めて個性の強い日米首脳がくしくもそろい踏みとなったことで安保条約は改定に向けて動き出した。


岸とアイクが示した日米新時代 「ゴルフは好きな相手としかできないものだ」

 昭和32(1957)年6月19日朝、米ワシントンに到着した第56代首相、岸信介がその足でホワイトハウスに向かうと、第34代大統領のドワイト・アイゼンハワー(アイク)が笑顔で出迎えた。

 アイク「午後は予定がありますか?」

 岸「別にありませんが…」

 アイク「そうか。それではゴルフをしよう!」

 サプライズはこれだけではなかった。ホワイトハウスでの昼食会では、国務長官のジョン・ダレスが「国連経済社会委員会の理事国に立候補する気はないか?」と持ちかけ、応諾すると「米国は全力を挙げ応援する」と約束してくれた。

 昼食後、岸とアイクらはワシントン郊外の「バーニング・ツリー・カントリークラブ」に向かった。岸の体格にぴったりあったベン・ホーガン製のゴルフセットも用意されていた。

 アイクは官房副長官の松本滝蔵と組み、岸は上院議員のプレスコット・ブッシュ(第41代大統領のジョージ・H・W・ブッシュの父、第43代大統領のジョージ・W・ブッシュの祖父)と組んだ。スコアはアイク74、松本98、岸99、ブッシュ72だった。
 1ラウンド終えてロッカー室に行くと、アイクは「ここは女人禁制だ。このままシャワーを浴びようじゃないか」と誘い、岸と2人で素っ裸でシャワー室に向かい、汗を流した。

 ロビーに戻ると新聞記者に囲まれ、プレーの感想を聞かれた。アイクは笑顔でこう応じた。

 「大統領や首相になると嫌なやつとも笑いながらテーブルを囲まなければならないが、ゴルフだけは好きな相手とでなければできないものだ」
 まさに破格の歓待だった。アイクには、先の大戦を敵国として戦い、占領・被占領の立場をへて強力な同盟国となったことを内外にアピールする狙いがあったが、それ以上に「反共の同志」である岸に友情を示したかったようだ。

 外相を兼務していた岸は21日までの3日間でアイクやダレスらと計9回の会談をこなした。アイクも交えた最後の会談で、岸はダレスにこう切り出した。

 「これで日米は対等な立場となったが、1つだけ非常に対等でないものがある。日米安全保障条約だ」
 ダレスは、昭和26(1951)年9月にサンフランシスコ講和条約と同時締結した旧安保条約を国務省顧問として手がけただけに条約改定に否定的だった。昭和30(1955)年に外相の重光葵が条約改定を求めた際は「日本にそんな力はあるのか」と一蹴している。だが、今回は苦笑いをしながらこう応じた。

 「これは一本取られた。確かに安保条約改定に取り組まねばならないが、政治家だけで話し合って決めるわけにはいかない。日米の委員会を設け、今の条約を変えずに日本の要望を入れられるか、改正しなければならないかを検討しよう」

 会談後の共同声明は、岸が唱える「日米新時代」が骨格となり「日米両国は確固たる基礎に立脚し、その関係は今後長期にわたり、自由世界を強化する上で重大な要素をなす」とうたった。安保条約に関しても「生じる問題を検討するための政府間の委員会を設置することで意見が一致した」と盛り込まれたが、会談で条約改定まで議論が及んだことは伏せられた。

 岸-アイク会談がこれほど成功したのはなぜか。

 岸が、アイクのニュールック戦略に応えるべく、訪米直前の6月14日に第一次防衛力整備三カ年計画を決め、“手土産”にしたこともあるが、それ以上の立役者がいた。
 岸内閣が発足した昭和32年2月25日、駐日米大使に就任したダグラス・マッカーサー2世だった。

 連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官だったダグラス・マッカーサーの甥だが、軍人ではなく外交官の道を選び、北大西洋条約機構(NATO)軍最高司令官だったアイクの外交顧問を務めた。欧州での外交歴が長く知日派ではないが、前任のジョン・アリソンと違い、ホワイトハウスに太いパイプを持っていた。

 だが、就任直前の1月30日に予期せぬ大事件が起きた。群馬県の米軍相馬ケ原演習場で米兵が空薬莢を集めていた主婦を射殺した「ジラード事件」だ。マッカーサーは就任前から対応に追われることになったが、おかげで岸と親交が深まった。叔父と違って物腰が柔らかく理知に富むマッカーサーは「反共」という共通点もあり、岸とウマがあったようだ。

 4月13日、岸はマッカーサーと秘密裏に会い、2通の文書を渡した。

 1つは沖縄と小笠原諸島の10年以内の返還を求める文書。もう1つは安保条約改定を求める文書だった。マッカーサーは即座にダレス宛てに公電を打った。

 「日本との関係はターニングポイントを迎えた。可及的速やかに他の同盟国並みに対等なパートナーにならなければならない」
 マッカーサーは、ジラード事件を通じて、日本でソ連が反米闘争を後押しし「国連加盟により米国と離れても国際社会で孤立することはない」として日本の「中立化」を促す工作を行っていることを知った。公電にも、中立化工作に危機感をにじませている。

 ダレスは難色を示したが、マッカーサーは5月25日付で書簡を送り、「岸は反共主義者であり、米国の核抑止力の重要性にも理解を示している。岸とは仕事ができる」と再考を促した。

 アイクの特命で米軍の海外基地に関する検証を続けていた大統領特別顧問のフランク・ナッシュも6月5日、ダレスに「岸に対する賭けは『最良の賭け』であるばかりか、『唯一の賭け』なのだ」と進言した。

 ダレスの心境も次第に変わっていった。岸の訪米を目前に控えた6月12日、ダレスはアイク宛てのメモでこう進言した。

 「岸は戦後日本で最強の政府指導者になる。注意深い研究と準備が必要だが、現在の安保条約に替わり得る相互安保協定に向けて動くことを岸に提案する時が来た」

 協定という表現ではあるが、安保条約改定に向けての大きな一歩となった。

 岸は、饒舌で気さくな人柄で知られる一方、徹底した秘密主義者でもあった。首相退陣後は取材にもよく応じ、多数の証言録や回顧録が残るが、マッカーサーとの秘密会談などにはほとんど触れていない。
 政府内でも岸はほとんど真意を明かさなかった。外務省北米2課長として岸-アイク会談に同席した東郷文彦(後の駐米大使)さえも回顧録に「首相自身も恐らく条約改定の具体的な姿まで描いていたわけではなかったのではないか」と記している。

 だが、岸はマッカーサーと秘密裏に会合を重ねていた。昭和32年末には、岸が「安保条約を再交渉する時がきた」と切り出し、その後は具体的な改定案まで検討していた。マッカーサーは昭和33(1958)年2月18日に条約改定草案を国務省に送付している。

 ところが、色よい返事はない。業を煮やしたマッカーサーは草案を携えてワシントンに乗り込んだ。

 「ダグ、私が交渉した条約に何か問題でもあるのかね?」

 ダレスは開口一番、冷や水を浴びせたが、もはや改定する方向で腹を固めていた。アイクはこう命じた。

 「議会指導者たちに会い、彼らがゴーサインを出したら交渉は君の責任でやってくれ」

 日本に戻ったマッカーサーはすぐに岸と面会した。吉報にさぞかし喜ぶかと思いきや、岸は浮かない表情でぼやいた。「吉田茂(第45、48~51代首相)が改定に乗り気じゃないんだ…」

 マッカーサーはすぐに米陸軍のヘリコプターで神奈川県大磯町の吉田邸に飛んだ。門まで出迎えた吉田は開口一番こう言った。
「私が交渉した条約に何か問題でもあるのかね?」

 マッカーサーは「ダレスからも全く同じことを言われましたよ」と返答すると2人で大笑いになった。吉田も条約改定の必要性は十分理解していたのだ。

 この間、外務省はずっと蚊帳の外に置かれていた。

 外務省が「話し合いの切り出し方」をまとめたのは昭和33年5月になってからだ。しかも条約改定ではなく政府間の交換公文で処理する方針だった。

 昭和32年7月の内閣改造で外相に就任した藤山愛一郎にも岸は秘密を貫いた。

 藤山は、昭和33年5月の衆院選後に東京・渋谷の岸邸を訪ね「安保改定をやろうじゃありませんか」と持ちかけたところ、岸は「やろうじゃないか」と応諾したと回顧録に記している。岸とマッカーサーがすでに具体的な改定案まで検討していることを全く知らなかったのだ。

 岸が安保条約改定を政府内で明言したのは、昭和33年8月25日に東京・白金の外相公邸で開かれた岸-藤山-マッカーサーの公式会談だった。マッカーサーが、旧安保条約の問題点を改善するため、(1)補足的取り決め(2)条約改定-の2つの選択肢を示したところ、岸は即答した。

 「現行条約を根本的に改定することが望ましい」

 交換公文などによる「補足的取り決め」での改善が現実的だと考えていた外務省幹部は仰天した。


暗躍するソ連・KGB 誓約引揚者を通じて反米工作 岸内閣を“核”で恫喝

 昭和35(1960)年より少し前だった。産経新聞社の駆け出しの政治記者だった佐久間芳夫(82)は、東京・麻布狸穴町(現港区麻布台)のソ連大使館の立食パーティーで、3等書記官を名乗る若い男に流暢な日本語で声をかけられた。とりとめもない会話を交わした後、別れ際に「ぜひ今度一緒にのみましょう」と誘われた。

 数日後、男から連絡があり、都内のおでん屋で再会した。男は日米安全保障条約改定や日ソ漁業交渉などの政治案件について執拗に探りを入れた後、声を細めてこう切り出した。

 「内閣記者会(首相官邸記者クラブの正式名称)の名簿をくれませんか?」

 佐久間が「それはできないよ」と断ると、男は「あなたはいくら給料をもらっていますか。家庭があるなら生活が苦しいでしょう」と言い出した。

 佐久間は「失礼な奴だ」と思い、それっきり男とは会っていないが、もし要求に応じていたらどうなっていたか。半世紀以上を経た今も、思い出すと背筋に冷たいものが走る。

 昭和31(1956)年10月19日、第52~54代首相の鳩山一郎が、モスクワでソ連首相のブルガーニンと共同宣言に署名し、日ソの国交が回復した。

 これを機に、ソ連は在日大使館や通商代表部に諜報機関兼秘密警察の国家保安委員会(KGB)要員を続々と送り込み、政財界や官界、メディアへの工作を続けていた。昭和32(1957)年2月に岸信介が第56代首相に就任した後は動きを一層活発化させた。

 警視庁外事課外事1係長だった佐々淳行(84)=初代内閣安全保障室長=は100人超の部下を指揮してKGB要員の行動確認を続けていた。

 当時、警視庁が把握したKGB要員は三十数人。その多くが3等書記官など低い身分を偽っており、驚いたことにトップは大使館付の長身の運転手だった。

 KGBの工作対象は政界や労組、メディアなど多岐にわたったが、佐々はシベリアに抑留され、ソ連への忠誠を誓った「誓約引揚者」との接触を注視した。シベリアで特殊工作員の訓練を積みながらも帰国後は口をつぐみ、社会でしかるべき地位についたところでスパイ活動を再開する「スリーパー」である可能性が大きかったからだ。
 外事課ベテラン捜査員はある夜、KGB要員が都内の神社で日本人の男と接触するのを確認した。男の身元を割り出したところ、シベリアに抑留された陸軍将校だった。男は後に大企業のトップに上り詰め、強い影響力を有するようになった。佐々は当時をこう振り返った。

 「誓約引揚者は社会党や労組などに相当数が浸透していた。安保闘争は『安保改定を阻止したい』というソ連の意向を受けて拡大した面は否定できない」

 昭和32(1957)年6月の第34代米大統領、ドワイト・アイゼンハワー(アイク)と岸の会談は、日米同盟の絆を内外に印象づけたが、ソ連は危機感を募らせた。鳩山や第55代首相の石橋湛山が対米自主路線を掲げて、ソ連に好意的だっただけになおさらだった。

 もし安保条約が改定され、日本の再軍備が進めば、オホーツク海~日本海~東シナ海を封じ込めるように「自由主義圏の鎖」が完成する。それだけは避けたいソ連は日本人の“核アレルギー”に目をつけた。
 ソ連は昭和33(1958)年5月15日、日本政府に、米国の核兵器が日本国内に存在するか否かを問う口上書を突きつけた。日本がこれを否定してもその後2度同じ口上書で回答を求めた。

 「日本国領域内に核兵器が存在することは、極東における戦争の危険の新たな源泉となる」

 口上書でソ連は、核攻撃をちらつかせつつ「日本国の安全の確保は、中立政策を実施する道にある」として「中立化」を迫った。

 日米間で安保条約改定交渉が始まるとソ連外相のアンドレイ・グロムイコは昭和33年12月2日、駐ソ大使の門脇季光を呼び出し、「新日米軍事条約の締結は極東の情勢をより一層複雑化し、この地域における軍事衝突の危険を更に深めるだけである」とする覚書を手渡した。

 覚書では「中立」という言葉を4回も使い、米国主導の「侵略的軍事ブロック」からの離脱を要求。その上でこう恫喝した。

 「大量殺戮兵器は、比較的小さい領土に密度の大きな人口と資源の集中度の大きい国家にとって特に生死の危険となる」

(敬称略)

中国が民主党など日本国内の安保反対勢力に期待するのはなぜか

2015年09月23日 15時46分07秒 | 国際・政治
 中国は今月初めに「抗日戦争勝利70周年記念」の派手な軍事パレードをしたせいなのだろう。さすがの軍事大国は、日本のささやかな安全保障関連法の成立へのコメントには苦心したようだ。

 中国外務省の洪磊報道官の談話は、「日本は専守防衛政策と戦後の平和発展の歩みを放棄するのかとの疑念を国際社会に生じさせた」とまあ、苦しげな批判だった。中国自身は、専守防衛どころか大規模攻撃体系だから、大きなことは言えない。

 あの天安門広場で見せたのは、米空母を標的にする“空母キラー”の対艦弾道ミサイル「東風21D」や、グアム島を狙う“グアム・キラー”の「東風26」だった。米有力研究所AEIのブルーメンソール研究員は、米外交誌で「ハワイへの奇襲攻撃もできるといわんばかりだ」と警戒感を示した。

 こうなると中国の期待は、日本国内の民主党や共産党など反対勢力の動きになる。野党が安保法制の成立を阻止してくれれば、中国は居ながらにして日本の同盟強化を阻止できる。さらに、うぶな若者たちが自己陶酔型の反戦平和を叫び、安倍政権嫌いの新聞がこれに同調してくれれば申し分がない。
 だから中国は、一定の距離でつかず離れずの「不即不離」を貫いた。安倍政権を批判はするが、やりすぎて反対勢力の支援者と思われては逆効果になってしまうからだ。

 安保法制に反対した民主党の岡田克也代表が「私たちの後ろには1億人がいる」との大衆幻想を述べたことは、多少は心強かったに違いない。“民意なるもの”を動かし、あるいは、国会をその民意なるものの下請けにしてしまえば、抑止力の不十分な、やわな日本のままにできる。

 こうした大国の思惑はどうあれ、議会制民主主義とは一時的な大衆行動に動かされない冷静な頭脳と行動が代議制の議員たちに期待される。それを、安保法制は「戦争法案」で、法律になると「徴兵制」になるとのデマゴギーは、当の議員たちの頭脳を思考停止にする。

 民主党の鳩山由紀夫政権の時代にも、かの国を喜ばす政治行動があった。夢のような東アジア共同体構想を掲げ、中国に協調するよう訴えた。このときも、リアリズムの中国は「不即不離」で、そうやすやすとは乗らなかった。
 当時の岡田克也外相のいう「米国抜き」であるのなら、年来の中国の主張に沿うものだが、このときの中国はジーッと動かない。日本が勝手に米国を怒らせて日米が離反すれば、中国の国益に合致するからである。実際、民主党政権下の日米関係は、日本が中国に擦り寄った分だけ悪化する事態に陥った。

 鳩山氏が、米海兵隊の普天間飛行場の移設を「最低でも県外」との理想を振りまいたのもそうだ。1年後には、当初の「辺野古沿岸での微調整」しかなかったと振り出しに戻る。チルチルとミチルの青い鳥が、実は身近なところにいたという寓話(ぐうわ)と同じだった。

 鳩山氏が空想を追っていたばかりに時間を浪費し、沖縄県民に期待をあおった分だけ問題の解決を困難にした。沖縄は“青い鳥幻想”のまま、置き去りにされたのだ。実はその反発がいまに続く。外交のリアリズム欠如は国益を害する。

元CIA要員の極秘証言

2015年09月16日 14時46分52秒 | 国際・政治
北工作員ら450人超を聴取したスペシャリストが語る金正恩政権の闇 「北が拉致被害者の生存を隠す理由は…」

 北朝鮮から亡命した元高官や拘束された工作員ら450人以上を聴取した北朝鮮スペシャリスト中のスペシャリストがいる。米中央情報局(CIA)元要員のマイケル・リー氏(81)だ。拉致された著名韓国人夫妻の脱出を裏で支援するなど、北朝鮮による拉致の手口にも精通する。金正恩(キム・ジョンウン)政権は、日本人拉致被害者らの再調査開始から1年以上過ぎたが、一向に拉致被害者の調査結果を出そうとしない。正恩政権の真意はどこにあるのか-。リー氏に聞いた。


大韓航空機爆破犯から直接知らされた日本人拉致

 「私は、生きていると信じている。心証がある」

 リー氏が米国から来日した際行ったインタビューで、北朝鮮による日本人拉致被害者についてこう話した。

 韓国西部の忠清南道(チュンチョンナムド)扶余(プヨ)に生まれたリー氏は、在韓米軍の情報部隊に勤務。1970年代には、米国に移住し、CIAの情報要員として、2000年まで対北情報戦の前線に身を置き続けた。

 在韓米軍とCIAを合わせて通算約40年間に北朝鮮から亡命した元高官や拘束された工作員ら450人を超える北朝鮮関係者から聴取した希有な経験を持つ。

 70年代に北朝鮮に拉致された韓国人女優の崔銀姫(チェ・ウニ)さんと映画監督の申相玉(シン・サンオク)氏夫妻が、欧州経由で脱出するのを裏で支援もした。
 87年に起きた大韓航空機爆破事件の実行犯で韓国の情報機関に逮捕された金賢姫(ヒョンヒ)元工作員も聴取対象だった。その中で、日本語教師役だった拉致被害者、田口八重子さん(60)=拉致当時(22)=について知らされた。早い段階から日本人拉致の存在を把握していた一人だ。

 「北朝鮮は必要なら(日本人拉致を)やるだろう」とリー氏は当時、感じたという。

 北朝鮮は、田口さんについて「死亡した」と主張しているが、死亡したとする時期以降も目撃情報があるなど、矛盾点が少なくない。リー氏は最近も、金元工作員から直接、田口さんは「生きている」と聞かされたという。


拉致被害者は「死亡した」と主張するわけ

 北朝鮮が重ねてきた外国人拉致について、リー氏は「日本人だけでなく、他の国からも、たくさんの人々を拉致してきた。なかには、中東の女性もいる」と説明しながら、多くの日本人拉致の特異点にも触れた。

 「日本人拉致は、犯罪行為、すなわち、対南(韓国)工作に関係のある犯罪行為であり、拉致問題を解決するためには、自分たちの秘密と犯罪行為を全て明らかにしなければならない」と、北朝鮮が多くの拉致被害者について「死亡した」と主張し続ける理由を説明した。

 では、なぜ金正日(ジョンイル)総書記は、2002年に拉致を認めて謝罪し、被害者5人を帰国させたのか。
 リー氏は「犯罪性が問題だ」とした上で、「日本に戻って、いろいろなことを話しても、自分たちには、被害が及ばない人は帰した。犯罪性を立証できたり、暴露できたりする人は帰していない」と指摘する。

 「対南工作に関わる秘密工作に利用した人や、犯罪性のある仕事に携わった人については、隠すしかない」と強調した。

 「これらの人々に関しては、いろいろ説明するのも煩わしく、『死んだ』と言っている」

 リー氏はこうも断じる。

 「犯罪性を隠蔽するため、絶対に真相を公開しないだろうし、できない。やるフリはするが、しない」


日本を足止めする「巧妙な時間稼ぎ」

 それではどうして、金正恩政権は昨年、拉致被害者の再調査を約束したのか。いまのところ、北朝鮮側に目に見える形で得たものはない。

 リー氏は「北朝鮮がやっているのは、時間稼ぎのための一つの巧妙な方法にすぎない」と断言する。

 正恩政権は、日朝合意が履行されている間は少なくとも、日本が米国などと組んで対北強硬策に出ることはないとみており、日本が米国との連携を強めるのを足止めさせる一定の効果があるというのだ。
 その上で、「日朝がいくら時間をかけて協議し、合意に達したとしても、完全な解決はあり得ない」と北朝鮮側の拉致調査の行方に悲観的な見方を示した。

 「正恩政権が崩壊するまで、真実を明らかにしないだろう」とも言う。「北朝鮮が真実を語るというのは、自分で自分の犯罪を暴露することを意味するからだ」

 拉致問題は、解決の見通しはないのか。現在の北朝鮮内外の情勢から、逆に解決の「チャンスだ」とも強調する。

 正恩政権は「非常に不安定な状態」を見せており、日米韓の出方次第では、遠くない将来、政権が崩壊し、南北統一する可能性があるという。

 「正恩政権が崩壊し、南北統一すれば、全ての真相が明らかになる。日本人(拉致被害者)は、全員帰国できる」

 一方で、正恩政権の崩壊シナリオに向け、日米韓が結束して当たれない状況もあるという。最大の阻害要因は「韓国政府の弱腰姿勢」にあると訴える。それはなぜか-。


「韓国政府は本当にダメだ」「北との共存・統一狙う戦略は理論的に間違っている」

米は「忍耐」から「北崩壊」戦略にシフト

 金正恩政権と対峙するにしても、正恩政権が最大の交渉相手とみるオバマ米政権に積極的な対北政策は見受けられない。

 米政府のこれまでの対北政策について、リー氏は「戦略的忍耐だった」と言う。

 「忍耐政策の過程で、北朝鮮の核を廃棄させるという戦略だった」と説明した上で、「しかし、北朝鮮は、核廃棄を絶対に受け入れないと私はみる」と強調する。

 一方で、「最近1年間に米国の対北戦略は変わった」とも指摘する。北朝鮮の核廃棄についての言及が目に見えて減ったというのだ。

 「南北統一を優先させ、統一されれば、核問題は自然と解決するという方向にシフトしてきた」とみる。その証拠に、オバマ大統領をはじめ、米政府高官らが、北朝鮮体制の「崩壊」を盛んに口にするようになってきたという。
 それでも任期切れが迫るオバマ大統領には、劇的な姿勢の変化は見られない。

 リー氏は「米国を動かしているのは、大統領だけでない」と述べ、「政府官僚やCIA、研究者ら多くの戦略家がおり、大統領はそのメンバーの一人だ」と指摘する。

 「オバマ大統領が任期を終えても、(米政府が移行しつつある)対北戦略の方向性は変わらない」


「約70年の対北政策は完全に失敗」

 「しかし」とリー氏は言う。「問題は、韓国政府が北朝鮮体制の崩壊を見込んだ南北統一に対し、積極的な態度を取っていない。それが頭の痛い問題だ」

 朝鮮戦争後に500人を超える韓国人が北朝鮮に拉致されたとされるにもかかわらず、韓国国民がほとんど関心を示さない現状についても、リー氏は憂える。

 「韓国政府は本当に、ダメなところが多い。覚醒しなければならない」

 韓国生まれの米国籍であるリー氏は、「米市民の立場からいえば、韓国政府の約70年間の対北政策は完全に失敗だ」と主張する。

 「現在の北朝鮮体制を認め、共存しながら統一を模索するのは不可能だ。理論的にも間違っている」

 北朝鮮住民にも思いをはせ、強調する。「苦難の深淵であえぐ北朝鮮同胞を解放するためには、“金王朝”を破壊しなければならない」
 韓国政府の消極姿勢に対しては、「次の世代が歴史を振り返るとき、われわれの先祖は過ちを犯したと評価するだろう」と手厳しい。

 北体制の崩壊戦略に、韓国政府が及び腰である理由として、リー氏は「親北左派勢力」の跋扈を挙げる。「韓国国内に左派勢力がはびこっているので、政府さえも(崩壊を見据えた)統一に対する意思が非常に弱い」


張成沢氏亡き後、正恩政権牛耳る「4人組」

 2013年末に処刑された金正恩第1書記の叔父、張成沢(チャン・ソンテク)氏こそが「金正恩を守る存在だった」という。

 だが、リー氏は張氏粛清前から、張氏を後見人とする体制の危うさを指摘していた。「張氏には、自分を信じすぎるところがあった。それが彼の大きな失敗だった」

 現在、正恩政権を動かす「4人組」として、(1)朝鮮労働党人事を握る党組織指導部の趙延俊(チョ・ヨンジュン)第1副部長(2)朝鮮人民軍を管理する黄炳瑞(ファン・ビョンソ)軍総政治局長(3)黄氏と金第1書記の最側近の座を争う崔竜海(リョンヘ)党書記(4)秘密警察、国家安全保衛部の金元弘(ウォノン)部長-を挙げる。

 だが、いずれも自らの地位を守ることに汲々とし、現状を打開する力はないとみる。
 リー氏は、北朝鮮国内で2000年以降、約1300人が公開処刑され、正恩政権発足後も70人以上の高級幹部が処刑されたとの情報にも着目する。韓国への高官亡命も相次ぎ、金第1書記の秘密資金を管理する党39号室の幹部も亡命したという。

 「北朝鮮内部は、非常に不安定な状態であり、今がチャンスだ」と、日米韓の出方次第では、早期に金正恩体制の崩壊があり得るとの展望についても語った。

 そうしたなか、韓国政府に積極性がみられず、決断できないことを「本当に惜しい」と嘆く。

 では、正恩政権を突き崩す手立てはあるのか。リー氏は、安全保障上も「強い日本」の重要性を強調するとともに、サムライの境地に、北朝鮮体制に情報戦で打ち勝つヒントがあると説く。



「韓国の中国接近は外交的な間違い」「中国は永遠に排他的な国。信じてはならぬ」


韓国が最優先すべきは「米国と日本」

 北朝鮮経済は、中国に大きく依存し、パイプ役だった張成沢(チャン・ソンテク)氏の粛清で関係が冷え込んだとはいえ、北朝鮮情勢の行方の鍵を握るのは依然、中国だといわれる。

 韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領が日米の反対をよそに、「抗日戦争勝利70年」の軍事パレードに出席してまで、中国との結び付きを強めるのも、一つには、習近平政権から北朝鮮問題解決の協力を取り付けるためだとされる。

 だが、リー氏は、対北問題解決で、韓国が中国に依存することに強い警戒感を示す。

 「経済的実利のために、中国と関係を維持するのは構わない」としながらもこう主張する。
 「中国は同盟国として、依存できる国ではない。安保問題で中国に依存してはならない。信じてもいけない。体質的に中国は永遠に排他的な国だ」

 韓国が最優先すべき国は「米国と日本だ」と重ねて強調し、「日米に嫌悪感を与えるほど、韓国が中国と北朝鮮に接近するのは、外交的にミスを犯すことだ」とも指摘した。

 韓国世論を日米と離間させ、中国や北朝鮮接近の方向に誘導しようとしているのが「親北左派勢力」だとの認識も示す。


安保法制「世界史的な次元で非常によいこと」

 リー氏が中国に比して、対北問題で重要視するのが、北東アジアの安保における「強い日本」の存在だ。

 安倍晋三政権が推し進める安保関連法案の整備も「(中国など)周辺国は嫌がっているが、世界史的な次元で考えると、非常によいこと。日本はとても、よくやっている」と評価する。

 「北東アジアに強力な国家がいて、はじめて中国を牽制できる。米国1国でやるのは難しい。日本がもっと大きくなり、朝鮮半島も統一されれば、秩序は維持される」

 「(日本が)強くなったとしても、他の国を侵害することなど、あり得ない」とも言う。
 リー氏は、日本統治時代の韓国で生まれ育った。戦後世代の韓国人が「日本軍国主義の再台頭」などといった幻想にとらわれる傾向にあるのに比べ、日本統治を経験した世代の方が、戦後日本の歩みを、あるがままに受け止めている証左といえる。


「日本が統一に反対」の虚像 歴史問題から「脱皮を」

 韓国国内では、日本や米国が南北統一を阻んでいるとの主張が幅を利かせてもいる。これについても「親北勢力の影響だ」と論じ、「日本や米国が統一に反対しているというのは、操作された世論だ。事実ではない」と断言する。

 「北朝鮮と統一した韓国と、日本との関係は、はるかによくなるだろう。悪い人たちが『日本が統一に反対している』という方向に世論を持っていこうとしているだけだ」

 日米、米韓の同盟関係についても、「中途半端な三角同盟であり、北東アジアの安保と繁栄のために、いかなるリスクを払っても、日本と韓国が直接、同盟関係を結ばなければならない」と長年、主張してきたという。

 韓国にとっても、米国という同盟国に加え、「日本が国家的に発展し、強力になれば、強い友人がもう一人増えるわけだ」とも強調する。

 韓国は、事ある度に歴史問題を持ち出し、現在、国交正常化以降、最悪の日韓関係といわれる。だが、リー氏は「古い考え方から脱皮しなければならない。互いに排他的な感情を抱いていてはダメだ」と歴史問題にとらわれることなく、相互依存へ転換するよう訴えかける。

サムライの境地に学べ! 戦わずして勝つ「先制」戦略とは…

 リー氏は「北東アジア情勢が安定してこそ、韓国経済も日本経済もよくなる。相互協力のシナジー効果も期待できる」と、北朝鮮体制崩壊による南北統一がもたらすメリットを強調する。

 金正恩体制の崩壊シナリオに積極的といえないなかでも、朝鮮半島の統一はやはり「韓国が主導し、日米がそれに協力する形が一番望ましい」とする。

 「これから世界をリードするのは日米韓だろう」とも展望し、日本に対しては「統一国家建設に、統一した韓国が世界に貢献できる一流国家になることに協力してくれることを期待したい」と統一後の積極的な役割に期待を託す。

 では、韓国政府がすぐにでも取り組める戦略はあるのか。

 リー氏は、現状のように正恩政権を交渉相手にし続けるのではなく、金正恩第1書記の頭越しに、ダイレクトに北朝鮮住民にメッセージを発信する政策転換を主張する。

 リー氏は「昔のサムライ精神は、刀を抜かずに相手を制することが最高の境地とされたそうだが…」と述べ、この戦わずして相手を圧するサムライ精神に正恩体制を突き崩す極意があるとの考え方を語った。

 「一部の人たちは『北朝鮮に先制攻撃を仕掛けるべきだ』とか、強硬な主張をするが、サムライの境地のように、先制攻撃ではなく、『先制宣言』をすべきだ」

 「先制宣言」とは何か。
 「統一されたら、北朝鮮住民をどう処遇するつもりなのかを言うべきだ。例えば、幹部たちに対し『報復はしない』とか。『全て許す。協力すれば、過去は不問にする』と、韓国大統領が先んじてメッセージを宣言すべきだ」という。


正恩政権が最も恐れるメッセージ

 統一後の朝鮮人民軍兵士約120万人の処遇について明言する必要性にも言及する。

 「統一されれば、産業ブームが起きる。内需経済に、とてつもないブームが起きるだろう。世界の企業が朝鮮半島への投資に列を作るはずで、武装解除された北朝鮮軍人を産業建設の前線に吸収すると宣言する」

 そうすれば、「北朝鮮内部は動揺するし、北朝鮮住民は希望を持つ」と提言する。

 「もうちょっと頭を使えば、戦争をせずに北朝鮮を統一することができる」

 南北軍事境界線の非武装地帯での地雷爆発による韓国軍兵士の負傷をめぐり、韓国が11年ぶりに対北宣伝放送を再開したことに、正恩政権は神経をとがらせた。南北高官協議で、放送中止と引き換えに「遺憾」まで表明した。脱北者団体などが正恩体制を批判するビラを風船で飛ばすことにも毎回、強い反発を示してきた。

 住民に直接、メッセージが伝わるのを何よりも嫌い、恐れているのだ。裏返せば、情報戦で、北朝鮮住民の心をつかむことが、何よりも、政権を揺るがし、体制崩壊を早めさせることを意味している。リー氏が提唱する「先制宣言」戦略は、まさにこの点を突いたものだ。
 だが、朴槿恵政権は南北離散家族再会事業にこぎ着けるなど、依然、正恩政権を交渉相手にする「信頼醸成プログラム」を堅持している。リー氏のアイデアがにわかに受け入れられるとは考えにくい。

 リー氏は問題の本質についてこう指摘する。

 「朴大統領の任期が終わっても、金第1書記は死なないし、そのまま政権の座に居続けるだろう。そうなれば、どうなるのか。こういう現実を、私たちは考えなければならない」

(完)

憲法前文に日本統治抹殺の思いを込めた国だけに…

2015年09月12日 07時37分26秒 | 国際・政治
 韓国にとって日本はどういう存在なのか。10年前、小泉純一郎首相の靖国参拝に反発した盧武鉉政権が「新対日ドクトリン」という物々しい外交原則を発表したことがあるが、そこにはこうある。「日韓関係は日本の謝罪と反省が基礎である」

 韓国は憲法の前文で「悠久の歴史と伝統に輝くわが大韓国民は、3・1独立運動(1919年、朝鮮全土で人々が決起し運動家が独立を宣言)により建設された大韓民国臨時政府の法統を継承する」と明記している。この一文には、日本統治を歴史から抹殺したいという想いが詰まっている。少なくとも日本時代は日本に不法、違法に占拠されていたのであって、『我々はこれを認めない!』とする立場が示されている。

「臨時政府」(1919-45年)は、李承晩や呂運亨ら独立活動家によって上海(のちに重慶)に設立された。だが連合国、枢軸国の双方から認められず、米軍に解体された。しかし韓国は、いまも「幻の政府」の正統性を国史の根幹としている。世界史的からみると、虚構を生きていることになる。

 だから、日本統治は「不法」で当時を「日帝強占期」と呼ぶ。力によって強制的に占領されたと位置付ける歴史観のみが韓国にとって「正しい歴史認識」なのである。だから、日本にはいつまでも、何度でも謝ってもらわなくてはならないのだ。朴槿恵大統領の「加害者と被害者の立場は1000年過ぎても変わらない」という言葉の真意である。

 しかし、日韓併合の合法・不法論争は、実はとっくに学術的な決着がついている。

 不法論を国際認知させようと考えた韓国は、2001年に「韓国併合再検討国際会議」という国際会議を主催した。日韓のほか欧米からも歴史学者らが参加しハワイ、東京、ワシントンで開かれた会議で、韓国側は併合の不法性を全面展開した。
 彼らが特に根拠としたのが「第二次日韓協約」(1905年)での強制性で、不法な強制(脅迫)により外交権を奪っての日韓併合は「不法であり無効」との持論を主張した。しかし日本側は皇帝(高宗)の日記などを分析して高宗が協約に賛成していたことを実証した。また英国の学者などから、当時、米英など列強が日韓併合を認めた以上「違法・無効論」は成り立たないとの見解が相次いで、韓国はこれに反論はできず論争には終止符が打たれた。

 これで怯む韓国ではない。その後、今度は「反省と謝罪」の要求の矛先を日韓基本条約(1965年)に変え、これにチャレンジ(挑戦)を開始した。キーワードは「人権」である。女性の人権(慰安婦問題)、個人の賠償権(徴用工問題)である。

 盧武鉉政権が慰安婦問題で「(基本条約の)請求権協定で解決したとみることはできず、日本の法的責任は残っている」との初めての政府見解を出した。その後、慰安婦問題は2011年、憲法裁判所が「慰安婦が(日本から)賠償請求を得られるように(韓国)政府が行動しないのは憲法違反」との賠償請求権判決を出した。徴用工問題でも、韓国大法院(最高裁に相当)が2012年、「個人の請求権は消滅していない」と判断し、これに依拠して日本企業がいまも続々と訴えられている。
 併合不法論も請求権の蒸し返しも、国家のアイデンティティーとは別に、もうひとつの政治性を帯びている。つまり併合したのは現在の韓国だけではなく、北方の北朝鮮があり、未来の日朝国交正常化交渉の重要なテーマとなるからだ。韓国の併合不法論者や慰安婦・徴用工支援勢力の核心部には親北派が見え隠れしている。

 もちろん韓国では、「安倍談話は村山談話、小泉談話から一歩も後退してはならない」「日本は植民地侵略や慰安婦動員に対する責任を認める謝罪を」とする声は保守、進歩を問わずにあるから、「過去」をめぐる日韓論争のなかに北朝鮮勢力の思惑を見極めるのには、それなりの眼力がいる。『和解のためにはまず侵略を認め、植民地支配に反省と謝罪を』とする日本の贖罪派の、何と平和で情緒的であることか。

中韓「準同盟」に日米でくさびを 

2015年09月02日 10時00分53秒 | 国際・政治
 《抗日戦争勝利式典の虚構》

 中国が9月3日に北京で開く抗日戦争勝利70周年記念式典は、歴史の捏造(ねつぞう)に基づく虚構に満ちた行事だ。それを主宰する習近平国家主席も、これに参加する韓国の朴槿恵大統領も欺瞞(ぎまん)的である。

 中国共産党は抗日戦に正面きって参加したわけではないのに「勝利」という虚構を作り、その70周年を祝うという。しかも実際は1万2千人の兵士の行進や戦車、ミサイル、空軍による祝賀飛行などの軍事行進があるようだ。公開する武器の84%は未公開の国産武器になるという。こうなると抗日戦勝利の記念行事ではなく、軍事力を誇示するパレード(中国では公式には「閲兵式」)ではないか。

 南シナ海や東シナ海で力による現状変更を進めている国の軍拡パレードに潘基文国連事務総長や朴大統領が参列するのは、きわめて不適切であり、不愉快でさえある。韓国は日本を相手に戦ってはいない。韓国は日本の統治下にあり、朝鮮人兵士24万人は日本軍であった。その上、朴大統領の参列は、朝鮮戦争で韓国に対して戦った中国の軍隊に敬意を表することになる。韓国国民は大統領のその姿勢に満足するのだろうか。そして自国を救ってくれた米国への恩義はどこへいったのだろうか。そればかりか、大統領の参列は中国の軍拡を容認することにもなる。
 韓国の対中接近のレベルについては、韓国内でも異なる認識がある。韓国人の多くは、自国が中国の影響下に入っているという説に反論する。そして「経済は中国、安全保障は米国に依存、と分けている。対米関係を弱める意図はない」(韓国語で「安米経中」)と力説する。他方、韓国のマスコミやネットの書き込みでは、朴政権が中国寄りになり過ぎることへの危惧がしばしば論じられている。

 《中国の意向に逆らえない韓国》

 韓国の輸出総額に占める対中輸出比は26・1%、輸入総額に占める比率は16・1%で、対中輸出は対米、対日を合わせた比率17・3%よりはるかに大きい(ジェトロ、2013年統計)。また国内総生産に占める貿易額の比率は81・2%ときわめて高い(グローバルノート、2014年)。

 さらに韓国は政治、安全保障分野においても、中国の意向に反する行動はとれなくなっている。今回の朴大統領の抗日式典参加がその例である。同大統領は米国と中国の間にあって式典参加には苦慮したと伝えられるが、それでも結局、米国の警告を退け、習国家主席の強い誘いに乗ってしまった。
 米国が韓国に「サード」高高度防衛ミサイルを導入しようとしたときも、中国はそれが自国にも向けられることを理由に導入に強く反対し、韓国は結局、中国の意向に沿った。韓国は去る3月にも、米国の反対を押し切って中国が提唱するアジアインフラ投資銀行(AIIB)に参加した。

 昨年11月に北京で開催されたアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議の際に、習国家主席が愛想の悪い顔をしながらも安倍晋三首相と25分も話し合ったことは、韓国にはショックであったといわれる。去る6月の日韓国交正常化50周年記念の折には朴大統領は歴史認識と政治・外交とを離して協議する姿勢を見せ、日韓関係改善の兆しが見えた。また8月14日の「安倍談話」に対しても韓国も中国も抑制した反応を示した。

 にも拘(かかわ)らず、9月2日に朴大統領は習国家主席と首脳会談を行い、4日には上海で、戦前の1919年に樹立された「大韓民国臨時政府」の跡地にある記念館での、中韓合同抗日記念式典に臨むとのことである。
 《崩れるパワーバランス》

 東アジアの安全保障を考える際、韓国は米国、ロシア、日本などとの関係を維持し、大国間のバランスを取ろうとするであろうが、長期的には中国の影響下に入ると想定すべきである。韓国は米国と中国の両方に「いい顔」を見せながら、中国への依存度を決定的に深めていきそうだ。

 8月20日、非武装地帯を挟んで南北間の軍事的緊張が高まり、これを回避するため開かれた南北協議が25日に北朝鮮側の譲歩で決着した。朴大統領の強硬姿勢が奏功したことになっているが、その背後には中国の北への圧力と南への保証があったと見るべきである。

 他方、北朝鮮の体制崩壊を懸念する中国が、中朝国境に人民解放軍を集結させて、住民の中国側脱出阻止に備えているといわれる。

 中国と韓国は「協商」ないし「準同盟」に近付いているようだ。中国は韓国主導の半島統一を促すことになりそうだ。南北の軍事的衝突には在韓米軍が韓国軍と共闘して対処するとしても、朝鮮半島が韓国主導で統一に向かえば、中韓は米軍の韓国撤退を促すだろう。そうなれば朝鮮半島は中国の影響下に入ってしまう。

 韓国は日米韓安保協力に熱意を示さず、南シナ海の中国の覇権的行動も一切批判しない。そうした中韓の間に日米が効果的にくさびを打ち込むのでなければ、北東アジアのパワーバランスを不利にしてしまうだろう。