ホテル地下の極秘核シェルター アイクが恐れた米ソ核戦争 「共産主義者はサーベルを鳴らし続けた…」
米国の首都ワシントンから西南西に車で4時間あまり。アパラチア山脈の森を分け入ると唐突に視界が開け、ホワイトハウスを彷彿させる白亜の建造物が現れる。ウェストバージニア州ホワイト・サルファー・スプリングスの「グリーンブライヤー」。歴代大統領が避暑地として利用したことで名高い高級ホテルだが、この地下に連邦議会の巨大な核シェルターが存在することは、1992年5月にワシントン・ポスト紙がスクープするまで国家のトップシークレットだった。
バンカー(掩蔽壕)と呼ばれるこの核シェルターは、厚さ1・5メートルのコンクリートで覆われ、地下3階建て。ホテル内壁などに偽装された4カ所の鋼鉄製扉から出入りでき、居住スペースのほか、会議室や食堂、研究室、診療所、放送スタジオまで完備されている。発電機3基と約30万リットルの水タンクを備え、議員スタッフを含む1100人が2カ月以上暮らすことが可能だという。
施設の維持・管理を担う数人の政府要員は「テレビ修理工」を名乗った。78年からピアニストとしてホテルで働き、現在は広報担当のジェシカ・ライト(63)は、事務所の古ぼけたブラウン管テレビ2台を指さしながらこう語った。
「ホテルで働く人たちも本当に修理工だと信じ込んでいたんです。このようにテレビもたくさんありましたし…」
この核シェルター建設を提案したのは、第34代大統領、ドワイト・アイゼンハワー(アイク)だった。第二次世界大戦時に欧州戦線の連合国軍最高司令官としてノルマンディ上陸作戦を成功させた英雄であり、徹底した反共主義者でもあった。
56年3月、上院院内総務のリンドン・ジョンソン(後の第36代大統領)ら議会指導者はアイクの提案に同意し、ホテル経営会社と「米議会にとって死活的に重要な事項」に関わる秘密契約を結んだ。計画は「グリーク・アイランド(ギリシャ島)」というコードネームで呼ばれ、59年に着工、61年に完成した。
アイクが核シェルター建設を急いだのは、米ソ核戦争の危機が迫っていると判断したからだった。
ソ連の最高指導者であるニキータ・フルシチョフは56年2月、第20回ソ連共産党大会で、53年に死去するまで独裁制を敷いたヨシフ・スターリンを批判し、米国との平和共存路線を打ち出した。国際世論はこれを「雪解け」と歓迎したが、アイクは決して信じなかった。回顧録ではフルシチョフをこう酷評している。
「彼は世界革命と共産主義支配というマルクス主義理論への忠誠により盲目となっていた。彼にとって世界の諸国民の将来の幸福などは全くどうでもよく、共産主義思想実現のため彼らを組織的に利用することだけを考えているのだ」
50年代後半から60年代にかけて米ソ核戦争は切迫した脅威だった。国務長官のジョン・ダレスは54年1月、ソ連が欧州に侵攻すれば、圧倒的な核戦力で報復する「大量報復戦略」を宣言したが、ソ連が米本土を核攻撃する能力を持てば、この戦略は「絵に描いたモチ」となりかねない。
「(連合国軍総司令官の)ダグラス・マッカーサーは朝鮮戦争で核兵器の使用を検討しました。アイクも同様に地域紛争が米ソ戦争に拡大しかねないと考えたのでしょう。そんな事態となっても議会という制度、そして憲法の枠組みを残さねばならないのです」
グリーンブライヤー専属の歴史家(博士)のロバート・コンテ(68)はこう解説した。
57年に入ると、アイクを震撼させるニュースが次々に飛び込んできた。
8月26日、ソ連は大陸間弾道ミサイル(ICBM)実験成功を発表した。10月4日には人類初の人工衛星「スプートニク1号」、11月3日に「同2号」の打ち上げを成功させた。これはワシントンを含む米全土がソ連のICBMの射程圏に入ったことを意味する。これで戦略爆撃機を大量保有することにより優位性を保っていた米国の核戦略は覆った。アイクは回顧録に怒りをぶつけた。
「スプートニクは米国民の心理的な弱さを露呈させた。共産主義者たちは騒乱を扇動し、サーベルを鳴らし続けた…」
フォード財団のローワン・ゲイサー率いる諮問機関「安全保障資源パネル」は11月7日、「核時代における抑止と生き残り」と題した報告書をまとめた。
59年末までにソ連が核弾頭を搭載したICBM100発を米国に向け発射可能になると推計するショッキングな内容だった。米兵力の脆弱さを指摘し、大量報復戦略の有効性にも疑問を投げかけ、「われわれの市民は無防備状態に置かれる」として大規模核シェルター建設などを提言した。
ゲイサーから報告書を受け取ったアイクは動揺を抑えるように「われわれはパニックに陥ってはならないし、自己満足をしてもいけない。極端な手段は避けるのだ」と語り、報告書を極秘扱いにするよう命じた。ダレスも、とりわけ核シェルター建造に関する部分を問題視し「公表すれば欧州の友人(同盟国)を見限ることになる」と述べた。
11月7日夕、アイクはホワイトハウスの執務室からテレビとラジオで国民向けに演説し「核兵器の分野では質も量もソ連に大いに先んじている」と強調した。それでも「衛星打ち上げに必要な強力な推進装置により証明されたソ連の先進技術や軍事技術の能力には軍事的重要性がある」と認めざるを得なかった。
動き出した岸信介 「経済など官僚にもできる。首相ならば…」 ダレスに受けた屈辱バネに
スプートニク・ショック後、第34代大統領、ドワイト・アイゼンハワー(アイク)は戦略転換を迫られた。アイクはもともと、米軍の通常兵力を削減し、余った予算をICBMやSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)など戦略兵器の開発・増強に回す「ニュールック戦略」を進めていたが、この動きをさらに加速。63年までにICBMを80基に増やす計画も130基に上方修正した。
そしてアイクは同盟国との関係強化にも躍起になった。
わけても日本の戦略的重要性は抜きんでていた。日本海を隔ててソ連、中国、北朝鮮など東側陣営と対峙(たいじ)しているからだ。
駐日米大使のジョン・アリソンは、ダレスに「日本は独ルール地方と並ぶ工業地帯であり、もし共産主義勢力に乗っ取られれば、われわれは絶望的な状況に陥る」と報告していた。
にもかかわらず、日本には、冷戦下の切迫した国際情勢を理解する者はほとんどいなかった。政界は数合わせの政局に明け暮れ、メディアも安全保障や軍事には無知だった。大統領特別顧問のフランク・ナッシュはこう例えている。
「日本は不思議の国のアリスの夢の世界のような精神構造に置かれている」
ただ、昭和32(1957)年2月に第56代首相に就任した岸信介は違った。
岸は戦前に革新官僚として統制経済を牽引(けんいん)し、東條英機内閣で商工相を務めたことから、戦後はA級戦犯として巣鴨拘置所に収監され、不起訴となった経歴を持つ。国際情勢を見誤れば、国の行く末が危ぶまれることは骨身に染みていたのだろう。
それでも岸が就任直後に掲げた公約は、汚職・貧乏・暴力という「三悪」の追放だった。安全保障に関しては「対米関係の強化」「日米関係の合理化」という言葉しか使っていない。
その裏で、岸は就任当初から旧日米安全保障条約改定に狙いを定めていた。
昭和26(1951)年9月のサンフランシスコ講和条約と同時に締結した旧安保条約は、在日米軍に日本の防衛義務がないばかりか、条約期限も事前協議制度もなかった。しかも日本国内の内乱に米軍が出動できる条項まであった。岸はかねて「これでは米軍が日本全土を占領しているような状態だ」と憂慮していた。
女婿で毎日新聞記者から秘書官となった安倍晋太郎(後の外相、現首相・安倍晋三の父)が「得意の経済で勝負した方がよいのではないですか」と進言すると、岸は鼻で笑った。
「首相とはそういうものじゃない。経済は官僚がやってもできる。何か問題が生じたら正してやればよいのだ。首相であるからには外交や治安にこそ力を入れねばならんのだ」
にもかかわらず、安保条約改定を掲げなかったのは対米交渉の難しさを実感する苦い経験があったからだ。
昭和30(1955)年8月、岸は民主党幹事長として外相の重光葵の訪米に同行した。国務長官のジョン・ダレスとの会談で、重光は唐突に「日本は現行条約下で増大する共産主義の宣伝工作に立ち向かわなければならない。共産主義と戦うための武器がほしい。これを条約改定で得たい」と安保改定を求めた。だが、ダレスはけんもほろろに言い放った。
「偉そうなことを言うが、日本にそんな力はあるのか? グアムが攻撃されたとき、日本は米国を助けに来られるのか?」
屈辱ではあったが、やりとりを聞きながら岸は「ダレスが言うのももっともだが、やはり日米安保条約は対等なものに改めなければならない」と感じ入った。
以後、岸は安保条約改定を最大の政治課題と位置づけ、首相就任直後から着々と布石を打っていくが、日米両政府が公式に改定交渉で合意したのは昭和33(1958)年9月11日。その秘密主義は徹底していた。
アイクは、岸の首相就任を心から歓迎した。日米同盟を強化させる好機だと考えたからだ。岸は戦前に駐日米大使を務めたジョセフ・グルーらと親交があったこともあり、岸の去就はかねて米国から注目されていたが、アイクには岸の頑強な「反共」「保守」の姿勢が頼もしく映ったようだ。
条約改定は一国の意向では動かない。安全保障に関わる事案はなおさらだ。岸とアイク。この極めて個性の強い日米首脳がくしくもそろい踏みとなったことで安保条約は改定に向けて動き出した。
岸とアイクが示した日米新時代 「ゴルフは好きな相手としかできないものだ」
昭和32(1957)年6月19日朝、米ワシントンに到着した第56代首相、岸信介がその足でホワイトハウスに向かうと、第34代大統領のドワイト・アイゼンハワー(アイク)が笑顔で出迎えた。
アイク「午後は予定がありますか?」
岸「別にありませんが…」
アイク「そうか。それではゴルフをしよう!」
サプライズはこれだけではなかった。ホワイトハウスでの昼食会では、国務長官のジョン・ダレスが「国連経済社会委員会の理事国に立候補する気はないか?」と持ちかけ、応諾すると「米国は全力を挙げ応援する」と約束してくれた。
昼食後、岸とアイクらはワシントン郊外の「バーニング・ツリー・カントリークラブ」に向かった。岸の体格にぴったりあったベン・ホーガン製のゴルフセットも用意されていた。
アイクは官房副長官の松本滝蔵と組み、岸は上院議員のプレスコット・ブッシュ(第41代大統領のジョージ・H・W・ブッシュの父、第43代大統領のジョージ・W・ブッシュの祖父)と組んだ。スコアはアイク74、松本98、岸99、ブッシュ72だった。
1ラウンド終えてロッカー室に行くと、アイクは「ここは女人禁制だ。このままシャワーを浴びようじゃないか」と誘い、岸と2人で素っ裸でシャワー室に向かい、汗を流した。
ロビーに戻ると新聞記者に囲まれ、プレーの感想を聞かれた。アイクは笑顔でこう応じた。
「大統領や首相になると嫌なやつとも笑いながらテーブルを囲まなければならないが、ゴルフだけは好きな相手とでなければできないものだ」
まさに破格の歓待だった。アイクには、先の大戦を敵国として戦い、占領・被占領の立場をへて強力な同盟国となったことを内外にアピールする狙いがあったが、それ以上に「反共の同志」である岸に友情を示したかったようだ。
外相を兼務していた岸は21日までの3日間でアイクやダレスらと計9回の会談をこなした。アイクも交えた最後の会談で、岸はダレスにこう切り出した。
「これで日米は対等な立場となったが、1つだけ非常に対等でないものがある。日米安全保障条約だ」
ダレスは、昭和26(1951)年9月にサンフランシスコ講和条約と同時締結した旧安保条約を国務省顧問として手がけただけに条約改定に否定的だった。昭和30(1955)年に外相の重光葵が条約改定を求めた際は「日本にそんな力はあるのか」と一蹴している。だが、今回は苦笑いをしながらこう応じた。
「これは一本取られた。確かに安保条約改定に取り組まねばならないが、政治家だけで話し合って決めるわけにはいかない。日米の委員会を設け、今の条約を変えずに日本の要望を入れられるか、改正しなければならないかを検討しよう」
会談後の共同声明は、岸が唱える「日米新時代」が骨格となり「日米両国は確固たる基礎に立脚し、その関係は今後長期にわたり、自由世界を強化する上で重大な要素をなす」とうたった。安保条約に関しても「生じる問題を検討するための政府間の委員会を設置することで意見が一致した」と盛り込まれたが、会談で条約改定まで議論が及んだことは伏せられた。
岸-アイク会談がこれほど成功したのはなぜか。
岸が、アイクのニュールック戦略に応えるべく、訪米直前の6月14日に第一次防衛力整備三カ年計画を決め、“手土産”にしたこともあるが、それ以上の立役者がいた。
岸内閣が発足した昭和32年2月25日、駐日米大使に就任したダグラス・マッカーサー2世だった。
連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官だったダグラス・マッカーサーの甥だが、軍人ではなく外交官の道を選び、北大西洋条約機構(NATO)軍最高司令官だったアイクの外交顧問を務めた。欧州での外交歴が長く知日派ではないが、前任のジョン・アリソンと違い、ホワイトハウスに太いパイプを持っていた。
だが、就任直前の1月30日に予期せぬ大事件が起きた。群馬県の米軍相馬ケ原演習場で米兵が空薬莢を集めていた主婦を射殺した「ジラード事件」だ。マッカーサーは就任前から対応に追われることになったが、おかげで岸と親交が深まった。叔父と違って物腰が柔らかく理知に富むマッカーサーは「反共」という共通点もあり、岸とウマがあったようだ。
4月13日、岸はマッカーサーと秘密裏に会い、2通の文書を渡した。
1つは沖縄と小笠原諸島の10年以内の返還を求める文書。もう1つは安保条約改定を求める文書だった。マッカーサーは即座にダレス宛てに公電を打った。
「日本との関係はターニングポイントを迎えた。可及的速やかに他の同盟国並みに対等なパートナーにならなければならない」
マッカーサーは、ジラード事件を通じて、日本でソ連が反米闘争を後押しし「国連加盟により米国と離れても国際社会で孤立することはない」として日本の「中立化」を促す工作を行っていることを知った。公電にも、中立化工作に危機感をにじませている。
ダレスは難色を示したが、マッカーサーは5月25日付で書簡を送り、「岸は反共主義者であり、米国の核抑止力の重要性にも理解を示している。岸とは仕事ができる」と再考を促した。
アイクの特命で米軍の海外基地に関する検証を続けていた大統領特別顧問のフランク・ナッシュも6月5日、ダレスに「岸に対する賭けは『最良の賭け』であるばかりか、『唯一の賭け』なのだ」と進言した。
ダレスの心境も次第に変わっていった。岸の訪米を目前に控えた6月12日、ダレスはアイク宛てのメモでこう進言した。
「岸は戦後日本で最強の政府指導者になる。注意深い研究と準備が必要だが、現在の安保条約に替わり得る相互安保協定に向けて動くことを岸に提案する時が来た」
協定という表現ではあるが、安保条約改定に向けての大きな一歩となった。
岸は、饒舌で気さくな人柄で知られる一方、徹底した秘密主義者でもあった。首相退陣後は取材にもよく応じ、多数の証言録や回顧録が残るが、マッカーサーとの秘密会談などにはほとんど触れていない。
政府内でも岸はほとんど真意を明かさなかった。外務省北米2課長として岸-アイク会談に同席した東郷文彦(後の駐米大使)さえも回顧録に「首相自身も恐らく条約改定の具体的な姿まで描いていたわけではなかったのではないか」と記している。
だが、岸はマッカーサーと秘密裏に会合を重ねていた。昭和32年末には、岸が「安保条約を再交渉する時がきた」と切り出し、その後は具体的な改定案まで検討していた。マッカーサーは昭和33(1958)年2月18日に条約改定草案を国務省に送付している。
ところが、色よい返事はない。業を煮やしたマッカーサーは草案を携えてワシントンに乗り込んだ。
「ダグ、私が交渉した条約に何か問題でもあるのかね?」
ダレスは開口一番、冷や水を浴びせたが、もはや改定する方向で腹を固めていた。アイクはこう命じた。
「議会指導者たちに会い、彼らがゴーサインを出したら交渉は君の責任でやってくれ」
日本に戻ったマッカーサーはすぐに岸と面会した。吉報にさぞかし喜ぶかと思いきや、岸は浮かない表情でぼやいた。「吉田茂(第45、48~51代首相)が改定に乗り気じゃないんだ…」
マッカーサーはすぐに米陸軍のヘリコプターで神奈川県大磯町の吉田邸に飛んだ。門まで出迎えた吉田は開口一番こう言った。
「私が交渉した条約に何か問題でもあるのかね?」
マッカーサーは「ダレスからも全く同じことを言われましたよ」と返答すると2人で大笑いになった。吉田も条約改定の必要性は十分理解していたのだ。
この間、外務省はずっと蚊帳の外に置かれていた。
外務省が「話し合いの切り出し方」をまとめたのは昭和33年5月になってからだ。しかも条約改定ではなく政府間の交換公文で処理する方針だった。
昭和32年7月の内閣改造で外相に就任した藤山愛一郎にも岸は秘密を貫いた。
藤山は、昭和33年5月の衆院選後に東京・渋谷の岸邸を訪ね「安保改定をやろうじゃありませんか」と持ちかけたところ、岸は「やろうじゃないか」と応諾したと回顧録に記している。岸とマッカーサーがすでに具体的な改定案まで検討していることを全く知らなかったのだ。
岸が安保条約改定を政府内で明言したのは、昭和33年8月25日に東京・白金の外相公邸で開かれた岸-藤山-マッカーサーの公式会談だった。マッカーサーが、旧安保条約の問題点を改善するため、(1)補足的取り決め(2)条約改定-の2つの選択肢を示したところ、岸は即答した。
「現行条約を根本的に改定することが望ましい」
交換公文などによる「補足的取り決め」での改善が現実的だと考えていた外務省幹部は仰天した。
暗躍するソ連・KGB 誓約引揚者を通じて反米工作 岸内閣を“核”で恫喝
昭和35(1960)年より少し前だった。産経新聞社の駆け出しの政治記者だった佐久間芳夫(82)は、東京・麻布狸穴町(現港区麻布台)のソ連大使館の立食パーティーで、3等書記官を名乗る若い男に流暢な日本語で声をかけられた。とりとめもない会話を交わした後、別れ際に「ぜひ今度一緒にのみましょう」と誘われた。
数日後、男から連絡があり、都内のおでん屋で再会した。男は日米安全保障条約改定や日ソ漁業交渉などの政治案件について執拗に探りを入れた後、声を細めてこう切り出した。
「内閣記者会(首相官邸記者クラブの正式名称)の名簿をくれませんか?」
佐久間が「それはできないよ」と断ると、男は「あなたはいくら給料をもらっていますか。家庭があるなら生活が苦しいでしょう」と言い出した。
佐久間は「失礼な奴だ」と思い、それっきり男とは会っていないが、もし要求に応じていたらどうなっていたか。半世紀以上を経た今も、思い出すと背筋に冷たいものが走る。
昭和31(1956)年10月19日、第52~54代首相の鳩山一郎が、モスクワでソ連首相のブルガーニンと共同宣言に署名し、日ソの国交が回復した。
これを機に、ソ連は在日大使館や通商代表部に諜報機関兼秘密警察の国家保安委員会(KGB)要員を続々と送り込み、政財界や官界、メディアへの工作を続けていた。昭和32(1957)年2月に岸信介が第56代首相に就任した後は動きを一層活発化させた。
警視庁外事課外事1係長だった佐々淳行(84)=初代内閣安全保障室長=は100人超の部下を指揮してKGB要員の行動確認を続けていた。
当時、警視庁が把握したKGB要員は三十数人。その多くが3等書記官など低い身分を偽っており、驚いたことにトップは大使館付の長身の運転手だった。
KGBの工作対象は政界や労組、メディアなど多岐にわたったが、佐々はシベリアに抑留され、ソ連への忠誠を誓った「誓約引揚者」との接触を注視した。シベリアで特殊工作員の訓練を積みながらも帰国後は口をつぐみ、社会でしかるべき地位についたところでスパイ活動を再開する「スリーパー」である可能性が大きかったからだ。
外事課ベテラン捜査員はある夜、KGB要員が都内の神社で日本人の男と接触するのを確認した。男の身元を割り出したところ、シベリアに抑留された陸軍将校だった。男は後に大企業のトップに上り詰め、強い影響力を有するようになった。佐々は当時をこう振り返った。
「誓約引揚者は社会党や労組などに相当数が浸透していた。安保闘争は『安保改定を阻止したい』というソ連の意向を受けて拡大した面は否定できない」
昭和32(1957)年6月の第34代米大統領、ドワイト・アイゼンハワー(アイク)と岸の会談は、日米同盟の絆を内外に印象づけたが、ソ連は危機感を募らせた。鳩山や第55代首相の石橋湛山が対米自主路線を掲げて、ソ連に好意的だっただけになおさらだった。
もし安保条約が改定され、日本の再軍備が進めば、オホーツク海~日本海~東シナ海を封じ込めるように「自由主義圏の鎖」が完成する。それだけは避けたいソ連は日本人の“核アレルギー”に目をつけた。
ソ連は昭和33(1958)年5月15日、日本政府に、米国の核兵器が日本国内に存在するか否かを問う口上書を突きつけた。日本がこれを否定してもその後2度同じ口上書で回答を求めた。
「日本国領域内に核兵器が存在することは、極東における戦争の危険の新たな源泉となる」
口上書でソ連は、核攻撃をちらつかせつつ「日本国の安全の確保は、中立政策を実施する道にある」として「中立化」を迫った。
日米間で安保条約改定交渉が始まるとソ連外相のアンドレイ・グロムイコは昭和33年12月2日、駐ソ大使の門脇季光を呼び出し、「新日米軍事条約の締結は極東の情勢をより一層複雑化し、この地域における軍事衝突の危険を更に深めるだけである」とする覚書を手渡した。
覚書では「中立」という言葉を4回も使い、米国主導の「侵略的軍事ブロック」からの離脱を要求。その上でこう恫喝した。
「大量殺戮兵器は、比較的小さい領土に密度の大きな人口と資源の集中度の大きい国家にとって特に生死の危険となる」
(敬称略)
米国の首都ワシントンから西南西に車で4時間あまり。アパラチア山脈の森を分け入ると唐突に視界が開け、ホワイトハウスを彷彿させる白亜の建造物が現れる。ウェストバージニア州ホワイト・サルファー・スプリングスの「グリーンブライヤー」。歴代大統領が避暑地として利用したことで名高い高級ホテルだが、この地下に連邦議会の巨大な核シェルターが存在することは、1992年5月にワシントン・ポスト紙がスクープするまで国家のトップシークレットだった。
バンカー(掩蔽壕)と呼ばれるこの核シェルターは、厚さ1・5メートルのコンクリートで覆われ、地下3階建て。ホテル内壁などに偽装された4カ所の鋼鉄製扉から出入りでき、居住スペースのほか、会議室や食堂、研究室、診療所、放送スタジオまで完備されている。発電機3基と約30万リットルの水タンクを備え、議員スタッフを含む1100人が2カ月以上暮らすことが可能だという。
施設の維持・管理を担う数人の政府要員は「テレビ修理工」を名乗った。78年からピアニストとしてホテルで働き、現在は広報担当のジェシカ・ライト(63)は、事務所の古ぼけたブラウン管テレビ2台を指さしながらこう語った。
「ホテルで働く人たちも本当に修理工だと信じ込んでいたんです。このようにテレビもたくさんありましたし…」
この核シェルター建設を提案したのは、第34代大統領、ドワイト・アイゼンハワー(アイク)だった。第二次世界大戦時に欧州戦線の連合国軍最高司令官としてノルマンディ上陸作戦を成功させた英雄であり、徹底した反共主義者でもあった。
56年3月、上院院内総務のリンドン・ジョンソン(後の第36代大統領)ら議会指導者はアイクの提案に同意し、ホテル経営会社と「米議会にとって死活的に重要な事項」に関わる秘密契約を結んだ。計画は「グリーク・アイランド(ギリシャ島)」というコードネームで呼ばれ、59年に着工、61年に完成した。
アイクが核シェルター建設を急いだのは、米ソ核戦争の危機が迫っていると判断したからだった。
ソ連の最高指導者であるニキータ・フルシチョフは56年2月、第20回ソ連共産党大会で、53年に死去するまで独裁制を敷いたヨシフ・スターリンを批判し、米国との平和共存路線を打ち出した。国際世論はこれを「雪解け」と歓迎したが、アイクは決して信じなかった。回顧録ではフルシチョフをこう酷評している。
「彼は世界革命と共産主義支配というマルクス主義理論への忠誠により盲目となっていた。彼にとって世界の諸国民の将来の幸福などは全くどうでもよく、共産主義思想実現のため彼らを組織的に利用することだけを考えているのだ」
50年代後半から60年代にかけて米ソ核戦争は切迫した脅威だった。国務長官のジョン・ダレスは54年1月、ソ連が欧州に侵攻すれば、圧倒的な核戦力で報復する「大量報復戦略」を宣言したが、ソ連が米本土を核攻撃する能力を持てば、この戦略は「絵に描いたモチ」となりかねない。
「(連合国軍総司令官の)ダグラス・マッカーサーは朝鮮戦争で核兵器の使用を検討しました。アイクも同様に地域紛争が米ソ戦争に拡大しかねないと考えたのでしょう。そんな事態となっても議会という制度、そして憲法の枠組みを残さねばならないのです」
グリーンブライヤー専属の歴史家(博士)のロバート・コンテ(68)はこう解説した。
57年に入ると、アイクを震撼させるニュースが次々に飛び込んできた。
8月26日、ソ連は大陸間弾道ミサイル(ICBM)実験成功を発表した。10月4日には人類初の人工衛星「スプートニク1号」、11月3日に「同2号」の打ち上げを成功させた。これはワシントンを含む米全土がソ連のICBMの射程圏に入ったことを意味する。これで戦略爆撃機を大量保有することにより優位性を保っていた米国の核戦略は覆った。アイクは回顧録に怒りをぶつけた。
「スプートニクは米国民の心理的な弱さを露呈させた。共産主義者たちは騒乱を扇動し、サーベルを鳴らし続けた…」
フォード財団のローワン・ゲイサー率いる諮問機関「安全保障資源パネル」は11月7日、「核時代における抑止と生き残り」と題した報告書をまとめた。
59年末までにソ連が核弾頭を搭載したICBM100発を米国に向け発射可能になると推計するショッキングな内容だった。米兵力の脆弱さを指摘し、大量報復戦略の有効性にも疑問を投げかけ、「われわれの市民は無防備状態に置かれる」として大規模核シェルター建設などを提言した。
ゲイサーから報告書を受け取ったアイクは動揺を抑えるように「われわれはパニックに陥ってはならないし、自己満足をしてもいけない。極端な手段は避けるのだ」と語り、報告書を極秘扱いにするよう命じた。ダレスも、とりわけ核シェルター建造に関する部分を問題視し「公表すれば欧州の友人(同盟国)を見限ることになる」と述べた。
11月7日夕、アイクはホワイトハウスの執務室からテレビとラジオで国民向けに演説し「核兵器の分野では質も量もソ連に大いに先んじている」と強調した。それでも「衛星打ち上げに必要な強力な推進装置により証明されたソ連の先進技術や軍事技術の能力には軍事的重要性がある」と認めざるを得なかった。
動き出した岸信介 「経済など官僚にもできる。首相ならば…」 ダレスに受けた屈辱バネに
スプートニク・ショック後、第34代大統領、ドワイト・アイゼンハワー(アイク)は戦略転換を迫られた。アイクはもともと、米軍の通常兵力を削減し、余った予算をICBMやSLBM(潜水艦発射弾道ミサイル)など戦略兵器の開発・増強に回す「ニュールック戦略」を進めていたが、この動きをさらに加速。63年までにICBMを80基に増やす計画も130基に上方修正した。
そしてアイクは同盟国との関係強化にも躍起になった。
わけても日本の戦略的重要性は抜きんでていた。日本海を隔ててソ連、中国、北朝鮮など東側陣営と対峙(たいじ)しているからだ。
駐日米大使のジョン・アリソンは、ダレスに「日本は独ルール地方と並ぶ工業地帯であり、もし共産主義勢力に乗っ取られれば、われわれは絶望的な状況に陥る」と報告していた。
にもかかわらず、日本には、冷戦下の切迫した国際情勢を理解する者はほとんどいなかった。政界は数合わせの政局に明け暮れ、メディアも安全保障や軍事には無知だった。大統領特別顧問のフランク・ナッシュはこう例えている。
「日本は不思議の国のアリスの夢の世界のような精神構造に置かれている」
ただ、昭和32(1957)年2月に第56代首相に就任した岸信介は違った。
岸は戦前に革新官僚として統制経済を牽引(けんいん)し、東條英機内閣で商工相を務めたことから、戦後はA級戦犯として巣鴨拘置所に収監され、不起訴となった経歴を持つ。国際情勢を見誤れば、国の行く末が危ぶまれることは骨身に染みていたのだろう。
それでも岸が就任直後に掲げた公約は、汚職・貧乏・暴力という「三悪」の追放だった。安全保障に関しては「対米関係の強化」「日米関係の合理化」という言葉しか使っていない。
その裏で、岸は就任当初から旧日米安全保障条約改定に狙いを定めていた。
昭和26(1951)年9月のサンフランシスコ講和条約と同時に締結した旧安保条約は、在日米軍に日本の防衛義務がないばかりか、条約期限も事前協議制度もなかった。しかも日本国内の内乱に米軍が出動できる条項まであった。岸はかねて「これでは米軍が日本全土を占領しているような状態だ」と憂慮していた。
女婿で毎日新聞記者から秘書官となった安倍晋太郎(後の外相、現首相・安倍晋三の父)が「得意の経済で勝負した方がよいのではないですか」と進言すると、岸は鼻で笑った。
「首相とはそういうものじゃない。経済は官僚がやってもできる。何か問題が生じたら正してやればよいのだ。首相であるからには外交や治安にこそ力を入れねばならんのだ」
にもかかわらず、安保条約改定を掲げなかったのは対米交渉の難しさを実感する苦い経験があったからだ。
昭和30(1955)年8月、岸は民主党幹事長として外相の重光葵の訪米に同行した。国務長官のジョン・ダレスとの会談で、重光は唐突に「日本は現行条約下で増大する共産主義の宣伝工作に立ち向かわなければならない。共産主義と戦うための武器がほしい。これを条約改定で得たい」と安保改定を求めた。だが、ダレスはけんもほろろに言い放った。
「偉そうなことを言うが、日本にそんな力はあるのか? グアムが攻撃されたとき、日本は米国を助けに来られるのか?」
屈辱ではあったが、やりとりを聞きながら岸は「ダレスが言うのももっともだが、やはり日米安保条約は対等なものに改めなければならない」と感じ入った。
以後、岸は安保条約改定を最大の政治課題と位置づけ、首相就任直後から着々と布石を打っていくが、日米両政府が公式に改定交渉で合意したのは昭和33(1958)年9月11日。その秘密主義は徹底していた。
アイクは、岸の首相就任を心から歓迎した。日米同盟を強化させる好機だと考えたからだ。岸は戦前に駐日米大使を務めたジョセフ・グルーらと親交があったこともあり、岸の去就はかねて米国から注目されていたが、アイクには岸の頑強な「反共」「保守」の姿勢が頼もしく映ったようだ。
条約改定は一国の意向では動かない。安全保障に関わる事案はなおさらだ。岸とアイク。この極めて個性の強い日米首脳がくしくもそろい踏みとなったことで安保条約は改定に向けて動き出した。
岸とアイクが示した日米新時代 「ゴルフは好きな相手としかできないものだ」
昭和32(1957)年6月19日朝、米ワシントンに到着した第56代首相、岸信介がその足でホワイトハウスに向かうと、第34代大統領のドワイト・アイゼンハワー(アイク)が笑顔で出迎えた。
アイク「午後は予定がありますか?」
岸「別にありませんが…」
アイク「そうか。それではゴルフをしよう!」
サプライズはこれだけではなかった。ホワイトハウスでの昼食会では、国務長官のジョン・ダレスが「国連経済社会委員会の理事国に立候補する気はないか?」と持ちかけ、応諾すると「米国は全力を挙げ応援する」と約束してくれた。
昼食後、岸とアイクらはワシントン郊外の「バーニング・ツリー・カントリークラブ」に向かった。岸の体格にぴったりあったベン・ホーガン製のゴルフセットも用意されていた。
アイクは官房副長官の松本滝蔵と組み、岸は上院議員のプレスコット・ブッシュ(第41代大統領のジョージ・H・W・ブッシュの父、第43代大統領のジョージ・W・ブッシュの祖父)と組んだ。スコアはアイク74、松本98、岸99、ブッシュ72だった。
1ラウンド終えてロッカー室に行くと、アイクは「ここは女人禁制だ。このままシャワーを浴びようじゃないか」と誘い、岸と2人で素っ裸でシャワー室に向かい、汗を流した。
ロビーに戻ると新聞記者に囲まれ、プレーの感想を聞かれた。アイクは笑顔でこう応じた。
「大統領や首相になると嫌なやつとも笑いながらテーブルを囲まなければならないが、ゴルフだけは好きな相手とでなければできないものだ」
まさに破格の歓待だった。アイクには、先の大戦を敵国として戦い、占領・被占領の立場をへて強力な同盟国となったことを内外にアピールする狙いがあったが、それ以上に「反共の同志」である岸に友情を示したかったようだ。
外相を兼務していた岸は21日までの3日間でアイクやダレスらと計9回の会談をこなした。アイクも交えた最後の会談で、岸はダレスにこう切り出した。
「これで日米は対等な立場となったが、1つだけ非常に対等でないものがある。日米安全保障条約だ」
ダレスは、昭和26(1951)年9月にサンフランシスコ講和条約と同時締結した旧安保条約を国務省顧問として手がけただけに条約改定に否定的だった。昭和30(1955)年に外相の重光葵が条約改定を求めた際は「日本にそんな力はあるのか」と一蹴している。だが、今回は苦笑いをしながらこう応じた。
「これは一本取られた。確かに安保条約改定に取り組まねばならないが、政治家だけで話し合って決めるわけにはいかない。日米の委員会を設け、今の条約を変えずに日本の要望を入れられるか、改正しなければならないかを検討しよう」
会談後の共同声明は、岸が唱える「日米新時代」が骨格となり「日米両国は確固たる基礎に立脚し、その関係は今後長期にわたり、自由世界を強化する上で重大な要素をなす」とうたった。安保条約に関しても「生じる問題を検討するための政府間の委員会を設置することで意見が一致した」と盛り込まれたが、会談で条約改定まで議論が及んだことは伏せられた。
岸-アイク会談がこれほど成功したのはなぜか。
岸が、アイクのニュールック戦略に応えるべく、訪米直前の6月14日に第一次防衛力整備三カ年計画を決め、“手土産”にしたこともあるが、それ以上の立役者がいた。
岸内閣が発足した昭和32年2月25日、駐日米大使に就任したダグラス・マッカーサー2世だった。
連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官だったダグラス・マッカーサーの甥だが、軍人ではなく外交官の道を選び、北大西洋条約機構(NATO)軍最高司令官だったアイクの外交顧問を務めた。欧州での外交歴が長く知日派ではないが、前任のジョン・アリソンと違い、ホワイトハウスに太いパイプを持っていた。
だが、就任直前の1月30日に予期せぬ大事件が起きた。群馬県の米軍相馬ケ原演習場で米兵が空薬莢を集めていた主婦を射殺した「ジラード事件」だ。マッカーサーは就任前から対応に追われることになったが、おかげで岸と親交が深まった。叔父と違って物腰が柔らかく理知に富むマッカーサーは「反共」という共通点もあり、岸とウマがあったようだ。
4月13日、岸はマッカーサーと秘密裏に会い、2通の文書を渡した。
1つは沖縄と小笠原諸島の10年以内の返還を求める文書。もう1つは安保条約改定を求める文書だった。マッカーサーは即座にダレス宛てに公電を打った。
「日本との関係はターニングポイントを迎えた。可及的速やかに他の同盟国並みに対等なパートナーにならなければならない」
マッカーサーは、ジラード事件を通じて、日本でソ連が反米闘争を後押しし「国連加盟により米国と離れても国際社会で孤立することはない」として日本の「中立化」を促す工作を行っていることを知った。公電にも、中立化工作に危機感をにじませている。
ダレスは難色を示したが、マッカーサーは5月25日付で書簡を送り、「岸は反共主義者であり、米国の核抑止力の重要性にも理解を示している。岸とは仕事ができる」と再考を促した。
アイクの特命で米軍の海外基地に関する検証を続けていた大統領特別顧問のフランク・ナッシュも6月5日、ダレスに「岸に対する賭けは『最良の賭け』であるばかりか、『唯一の賭け』なのだ」と進言した。
ダレスの心境も次第に変わっていった。岸の訪米を目前に控えた6月12日、ダレスはアイク宛てのメモでこう進言した。
「岸は戦後日本で最強の政府指導者になる。注意深い研究と準備が必要だが、現在の安保条約に替わり得る相互安保協定に向けて動くことを岸に提案する時が来た」
協定という表現ではあるが、安保条約改定に向けての大きな一歩となった。
岸は、饒舌で気さくな人柄で知られる一方、徹底した秘密主義者でもあった。首相退陣後は取材にもよく応じ、多数の証言録や回顧録が残るが、マッカーサーとの秘密会談などにはほとんど触れていない。
政府内でも岸はほとんど真意を明かさなかった。外務省北米2課長として岸-アイク会談に同席した東郷文彦(後の駐米大使)さえも回顧録に「首相自身も恐らく条約改定の具体的な姿まで描いていたわけではなかったのではないか」と記している。
だが、岸はマッカーサーと秘密裏に会合を重ねていた。昭和32年末には、岸が「安保条約を再交渉する時がきた」と切り出し、その後は具体的な改定案まで検討していた。マッカーサーは昭和33(1958)年2月18日に条約改定草案を国務省に送付している。
ところが、色よい返事はない。業を煮やしたマッカーサーは草案を携えてワシントンに乗り込んだ。
「ダグ、私が交渉した条約に何か問題でもあるのかね?」
ダレスは開口一番、冷や水を浴びせたが、もはや改定する方向で腹を固めていた。アイクはこう命じた。
「議会指導者たちに会い、彼らがゴーサインを出したら交渉は君の責任でやってくれ」
日本に戻ったマッカーサーはすぐに岸と面会した。吉報にさぞかし喜ぶかと思いきや、岸は浮かない表情でぼやいた。「吉田茂(第45、48~51代首相)が改定に乗り気じゃないんだ…」
マッカーサーはすぐに米陸軍のヘリコプターで神奈川県大磯町の吉田邸に飛んだ。門まで出迎えた吉田は開口一番こう言った。
「私が交渉した条約に何か問題でもあるのかね?」
マッカーサーは「ダレスからも全く同じことを言われましたよ」と返答すると2人で大笑いになった。吉田も条約改定の必要性は十分理解していたのだ。
この間、外務省はずっと蚊帳の外に置かれていた。
外務省が「話し合いの切り出し方」をまとめたのは昭和33年5月になってからだ。しかも条約改定ではなく政府間の交換公文で処理する方針だった。
昭和32年7月の内閣改造で外相に就任した藤山愛一郎にも岸は秘密を貫いた。
藤山は、昭和33年5月の衆院選後に東京・渋谷の岸邸を訪ね「安保改定をやろうじゃありませんか」と持ちかけたところ、岸は「やろうじゃないか」と応諾したと回顧録に記している。岸とマッカーサーがすでに具体的な改定案まで検討していることを全く知らなかったのだ。
岸が安保条約改定を政府内で明言したのは、昭和33年8月25日に東京・白金の外相公邸で開かれた岸-藤山-マッカーサーの公式会談だった。マッカーサーが、旧安保条約の問題点を改善するため、(1)補足的取り決め(2)条約改定-の2つの選択肢を示したところ、岸は即答した。
「現行条約を根本的に改定することが望ましい」
交換公文などによる「補足的取り決め」での改善が現実的だと考えていた外務省幹部は仰天した。
暗躍するソ連・KGB 誓約引揚者を通じて反米工作 岸内閣を“核”で恫喝
昭和35(1960)年より少し前だった。産経新聞社の駆け出しの政治記者だった佐久間芳夫(82)は、東京・麻布狸穴町(現港区麻布台)のソ連大使館の立食パーティーで、3等書記官を名乗る若い男に流暢な日本語で声をかけられた。とりとめもない会話を交わした後、別れ際に「ぜひ今度一緒にのみましょう」と誘われた。
数日後、男から連絡があり、都内のおでん屋で再会した。男は日米安全保障条約改定や日ソ漁業交渉などの政治案件について執拗に探りを入れた後、声を細めてこう切り出した。
「内閣記者会(首相官邸記者クラブの正式名称)の名簿をくれませんか?」
佐久間が「それはできないよ」と断ると、男は「あなたはいくら給料をもらっていますか。家庭があるなら生活が苦しいでしょう」と言い出した。
佐久間は「失礼な奴だ」と思い、それっきり男とは会っていないが、もし要求に応じていたらどうなっていたか。半世紀以上を経た今も、思い出すと背筋に冷たいものが走る。
昭和31(1956)年10月19日、第52~54代首相の鳩山一郎が、モスクワでソ連首相のブルガーニンと共同宣言に署名し、日ソの国交が回復した。
これを機に、ソ連は在日大使館や通商代表部に諜報機関兼秘密警察の国家保安委員会(KGB)要員を続々と送り込み、政財界や官界、メディアへの工作を続けていた。昭和32(1957)年2月に岸信介が第56代首相に就任した後は動きを一層活発化させた。
警視庁外事課外事1係長だった佐々淳行(84)=初代内閣安全保障室長=は100人超の部下を指揮してKGB要員の行動確認を続けていた。
当時、警視庁が把握したKGB要員は三十数人。その多くが3等書記官など低い身分を偽っており、驚いたことにトップは大使館付の長身の運転手だった。
KGBの工作対象は政界や労組、メディアなど多岐にわたったが、佐々はシベリアに抑留され、ソ連への忠誠を誓った「誓約引揚者」との接触を注視した。シベリアで特殊工作員の訓練を積みながらも帰国後は口をつぐみ、社会でしかるべき地位についたところでスパイ活動を再開する「スリーパー」である可能性が大きかったからだ。
外事課ベテラン捜査員はある夜、KGB要員が都内の神社で日本人の男と接触するのを確認した。男の身元を割り出したところ、シベリアに抑留された陸軍将校だった。男は後に大企業のトップに上り詰め、強い影響力を有するようになった。佐々は当時をこう振り返った。
「誓約引揚者は社会党や労組などに相当数が浸透していた。安保闘争は『安保改定を阻止したい』というソ連の意向を受けて拡大した面は否定できない」
昭和32(1957)年6月の第34代米大統領、ドワイト・アイゼンハワー(アイク)と岸の会談は、日米同盟の絆を内外に印象づけたが、ソ連は危機感を募らせた。鳩山や第55代首相の石橋湛山が対米自主路線を掲げて、ソ連に好意的だっただけになおさらだった。
もし安保条約が改定され、日本の再軍備が進めば、オホーツク海~日本海~東シナ海を封じ込めるように「自由主義圏の鎖」が完成する。それだけは避けたいソ連は日本人の“核アレルギー”に目をつけた。
ソ連は昭和33(1958)年5月15日、日本政府に、米国の核兵器が日本国内に存在するか否かを問う口上書を突きつけた。日本がこれを否定してもその後2度同じ口上書で回答を求めた。
「日本国領域内に核兵器が存在することは、極東における戦争の危険の新たな源泉となる」
口上書でソ連は、核攻撃をちらつかせつつ「日本国の安全の確保は、中立政策を実施する道にある」として「中立化」を迫った。
日米間で安保条約改定交渉が始まるとソ連外相のアンドレイ・グロムイコは昭和33年12月2日、駐ソ大使の門脇季光を呼び出し、「新日米軍事条約の締結は極東の情勢をより一層複雑化し、この地域における軍事衝突の危険を更に深めるだけである」とする覚書を手渡した。
覚書では「中立」という言葉を4回も使い、米国主導の「侵略的軍事ブロック」からの離脱を要求。その上でこう恫喝した。
「大量殺戮兵器は、比較的小さい領土に密度の大きな人口と資源の集中度の大きい国家にとって特に生死の危険となる」
(敬称略)