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中韓の“蜜月”にくさびを打ち込めたのか? 日韓首脳会談で安倍首相がとった戦術とは…

2015年11月08日 17時47分35秒 | 国際・政治
 約3年半ぶりの開催となった11月2日の日韓首脳会談は、韓国のいびつな思考回路を際立たせた。中国を厚遇する一方で、安倍晋三首相への待遇を軽んじる外交非礼もいとわない韓国の姿勢は、自国の恥を国際社会にさらし、日本側の不信感を増幅させるだけだった。安倍首相は中国に傾斜する韓国を引きはがし、「日米韓」の連携を強めたい考えだが、しばらくは韓国に手を焼く場面が続きそうだ。

自民党「無礼な対応」

 「会談は大変無礼な対応だった。対話は必要だが、代償を伴うことを韓国に知ってもらうべきだ。ご機嫌取りで対話の窓口を開くことがないように願いたい」

 4日に開かれた自民党の外交部会・外交・経済連携本部合同会議で、日韓首脳会談の報告を受けた議員が次々と発言した。これまでさんざん裏切られてきた韓国に対する不信感の根強さをうかがわせた。

 日韓外交は、韓国のちゃぶ台返しの連続だった。韓国は1965年の日韓請求権協定で法的に解決している慰安婦問題を蒸し返し続け、朴槿恵大統領は首相による謝罪を求めている。最近でも国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産への「明治日本の産業革命遺産」登録をめぐり、外相会談合意を無視して「強制労働」を声明に盛り込もうとしてきた。

 しかし、日本の歴代政権は「これが最後」と妥協を続け、韓国をつけあがらせてきた。安倍首相はその教訓を踏まえ、韓国側が求めてきた前提条件をのまず、辛抱強く対応してきた。


外交ラッシュが絶好の機会

 「南シナ海の現状は国際社会共通の懸念事項だ。米軍の行動は国際法に合致し、日本は直ちに支持した。開かれた自由で平和な海を守るため、さまざまな機会で韓国や米国と連携していきたい」

 ソウルの大統領府(青瓦台)で約1時間40分にわたって行われた2日の日韓首脳会談で、安倍首相は朴氏にこう語りかけた。朴氏の返答は明らかにされていないが、日本政府同行筋は「問題意識は共有していた」と断言する。

 韓国は歴史認識で中国とそろって対日批判を強め、経済分野でも中国への傾斜を強める。朴政権は、中国が南シナ海で岩礁を埋め立て人工島を造成していることに対する米軍の「航行の自由作戦」に明確な態度を示していない。苦々しく感じているのは日本政府だけではない。米政府も同じだ。

 オバマ米大統領は先の米韓首脳会談で、中国の国際規範に反する行為に「同じ声」を上げるよう朴氏を促した。だが、朴氏はこれに応じていない。

 本来であれば、東アジアで軍事的脅威を一方的に高める中国と北朝鮮に対し、「日米韓」による安全保障体制が韓国にとっても望ましく、相互利益になるはずだが、歴史認識に拘泥し、中国と共闘する韓国の存在が不安定要素になっている。米国という同じ同盟国を持つ韓国に対し、首相は日韓首脳会談で「米軍」「米国」というお互いに共感し合えるはずの言葉を投げかけ、「日米韓」の連携を取り戻そうとした。
 首相は今月中旬から年末にかけ、外交ラッシュを迎える。20カ国・地域(G20)首脳会合、アジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議、東南アジア諸国連合(ASEAN)関連首脳会議、気候変動枠組み条約第21回締約国会議(COP21)と国際会議が続く。中国の南シナ海問題を国際社会に共通する懸念事項とする“中国包囲網”を形成するには絶好の機会だ。中国を牽制すると同時に、韓国に対する強いメッセージにもなる。

 首相は朴氏との間で国際会議の場を利用し、対話を積み重ねる方針で合意している。韓国を中国傾斜から引きはがし、日米側に取り込む…。歴史認識を振りかざす韓国を相手に今後も見通しは厳しいが、日韓首脳会談はその出発点になったといえる。

【歴史戦】

2015年11月04日 15時24分11秒 | 国際・政治
慰安婦問題、日韓首脳会談でも埋まらぬ溝 「年内妥結」迫られるも安倍首相突っぱねる

 安倍晋三首相は2日の韓国の朴槿恵大統領との首脳会談後、慰安婦問題について記者団に「早期の妥結を目指して交渉を加速させていくことで一致した」と強調したが、具体的中身や方向性には言及しなかった。日韓間の認識の隔たりは「一度の会談で埋まるものではない」(政府筋)。今回の会談の成果は、目に見える前進よりも、交渉継続の確認による当面の日韓関係の安定化だった。

 「慰安婦問題は、日本は日韓基本条約を含めたさまざまな条約の中で、解決済みという認識で今日まで対応している」

 首脳会談後、同行筋は記者団にこう述べ、「現段階で合意がある事実はない」と指摘した。韓国側は「早期妥結」について、安倍首相に「年内」と明言することを求めたが、首相はこれを突っぱねたという。

 韓国側は首脳会談に向けた事前折衝では、朴氏主催の昼食会などを交換条件に譲歩を迫ってきたが、日本側はこれも拒んだ。安倍首相は周囲にこう苦笑した。

 「昼飯なんかで国益を削るわけにはいかない」
 一方で、同行筋は記者団に「解決済みの問題と、人道的な見地に立ったこれからのさまざまなフォローのあり方についてすみ分けをしている」とも述べた。補償などは法的に解決済みでも、何らかの形での元慰安婦への支援は可能だということに含みを残している。

 例えば、元慰安婦に償い金を支給したアジア女性基金が平成19年に解散した後も外務省が続けるフォローアップ事業がある。外務省は年間1500万円の予算をつけ韓国や台湾などの元慰安婦に生活必需品を届けており、自民党の河村建夫・日韓議員連盟幹事長も朝日新聞のインタビューで事業の拡充を提案している。

 ただ、韓国側は人道的支援よりも、日本政府の関与を重視する。政府による補償や謝罪は、日本が慰安婦問題でより公的に「罪」を認めたことになるからだ。

 23~24年には、当時の野田佳彦政権が李明博政権に(1)元慰安婦へのおわび(2)日本政府予算を使った支援金-などを柱とする解決案を示したと報道された。李氏も回顧録で同じような提案があったと明かしている。

 この案は24年の衆院解散・総選挙で雲散霧消。実現するには「慰安婦問題は解決済み」との立場の変更が前提条件になり、安倍政権が受け入れる余地はない。
 今回、日韓両国が慰安婦問題の協議加速を「演出」した背景には、米国の要請もある。米側は日本側に慰安婦問題での譲歩を求め、韓国側にも日本との関係修復を迫ってきたからだ。

 日韓両政府は昨年4月以来、慰安婦問題に関する外務省局長級協議で話し合いを続けている。ただ、韓国では、慰安婦問題は「反日団体の韓国挺身隊問題対策協議会が事実上の拒否権を持っている」(元韓国外務省高官)といい、政府のコントロールは必ずしも効いていない。

 日本側も「慰安婦問題はこれで最後だとならなければ、今まで以上のことはできない」(政府高官)というのが原則で、「妥結」の行方は見通せない。

習近平氏の訪米は完全な失敗 失地挽回の大盤振る舞いの「金満外交」に離反し始めた民心

2015年10月08日 11時07分48秒 | 国際・政治
 先月下旬の習近平国家主席の訪米は、あらゆる意味において外交的失敗であった。念願の米議会演説はかなえられず、国賓の彼を迎えたワシントンの空気はいたって冷たく、オバマ大統領との会談では南シナ海問題や人権問題などに関する米中間の対立がよりいっそう深まった。

 「サイバー攻撃しない」との合意に達したことは首脳会談の唯一の成果というべきものだが、それはあくまでもオバマ大統領にとっての成果であって、習主席にしては単なる不本意な譲歩にすぎない。その一方、主席自身が熱心に持ちかけている「新型大国関係の構築」に対し、オバマ大統領は最初から最後まで完全無視の姿勢を貫いた。

 ワシントンでの1日半の滞在は、習主席にとってはまさに「失意の旅」であった。

 その代わり、習主席はワシントンより先にシアトルに入り、中国と関係の深い大企業を相手に自らの訪米を盛り上げた。そのために中国企業にボーイング機300機の「爆買い」もさせたが、カネの力で「熱烈歓迎」を買うような行動は逆に、習主席の対米外交が行き詰まっていることを浮き彫りにした。
ワシントン訪問の後に続く国連外交でも、習主席はやはり「カネの力」を頼りにした。9月26日に開かれた国連発展サミットで、習主席は発展の遅れた国々などに対し、2015年末に返済期限を迎える未償還の政府間無利子融資の債務を免除すると宣言した。同時に、いわゆる「南南協力援助基金」を設立し、第1期資金として20億ドルを提供すると発表した。

 いかにも習主席らしい、スケールの大きな「バラマキ外交」であるが、国民の稼いだお金をそこまで自分の外交に使ってしまうと、思わぬ波紋が国内から広がった。

 同28日、人民日報の公式モバイルサイトが「中国による債務免除は“貧者の大盤振る舞い”なのか」と題する長文の論説を掲載した。論説は、習主席が発表した債務免除に対しネット上では「国内2億人貧困層の苦しみを無視した“貧者の大盤振る舞い”」とする反対意見があることをあっさりと認めた上で、それに対する反論を延々と述べた。

 習主席の債務免除発表からわずか2日後に人民日報がこのような反論を出さなければならないことは逆に、国内の反発が急速に広がっていることをわれわれに教えた。

 人民日報がこのような反論を発すると、当然、国内メディアは一斉に転載して「討議」を展開した。
 たとえば大手ポータルサイトの「捜狐(SOHU)」はさっそくネット上の世論調査を行い、債務免除の是非を問うた。このコラムを書いた2日午前では、債務免除を批判する意見に対して、「反対意見の背後にある民心を直視すべきだ」とする回答が何と56%近くに達している。つまり回答者の半数以上が債務免除への反対意見に同調しているのだ。習主席の展開した華やかな「金満外交」に対し、国民の大半はやはり冷ややかな目で見ているのである。

 習近平政権は成立以来、腐敗摘発運動の展開や民衆の声に耳を傾ける「群衆路線」の推進で国民からの一定の支持を勝ち取ってきているが、ここへ来て彼自身の独断専行が逆に国民の多くの不信を買い「民心」は徐々に離反し始めているようだ。今回の「金満外交」に対する民衆の批判はまさに、民心の「習近平離れ」の表れではないのか。

 結局、彼の場合、「大国の強い指導者」という自分自身のイメージを国民向けに演じてみせるために強硬な外交路線を進めた結果、アメリカとの対立を招き、国際社会の中国に対する風当たりが強まった。そして挽回するために大盤振る舞いの金満外交を行ったわけだが、逆に国民の反発を買い、国内における彼自身の人気を落とす結果となった。独裁者のやることはいつも裏目に出てくるものだ。

首脳会談を開いても何も変わらない米中関係

2015年09月26日 06時36分03秒 | 国際・政治
米国のベテラン研究者が指摘、中国はオバマ政権を見下している

 中国の習近平国家主席が9月22日から米国を訪問し、25日にオバマ大統領との米中首脳会談に臨む。オバマ政権としては、与党の民主党内も含めて米国内に高まる中国への反発を考慮しながら、一方で米中協調の側面も明示せねばならず、難しい対応を迫られている。

米国ではこのところ、中国の(1)軍拡および南シナ海や東シナ海での領有権拡張の動き、(2)米国の官民に対するサイバー攻撃、(3)中国国内での人権弾圧――などに対する不満が改めて高まってきた。そんな時期に習主席が来訪することは、ワシントンでも非常に強い関心を集めている。

対中関係まで失敗させたくないオバマの本音

 まず大統領選挙予備選キャンペーンでは、これを機に共和党候補がこぞってオバマ政権の対中政策が弱腰で融和的に過ぎると非難し、習主席の国賓待遇を見直すべきだという要求まで出した。

 議会では、習氏訪米に合わせて米中関係の現状を探る各種の公聴会が開かれた。特に議会と政府が合同で中国の人権問題などを調査する「中国に関する議会・政府委員会」は、習氏の米国到着に合わせて大規模な公聴会を開催し、中国当局に弾圧される側の代表たちを招いて証言を聞いた。
 民間の大手研究機関でもブルッキングス研究所、ヘリテージ財団、戦略国際問題研究所(CSIS)などが軒並み習主席訪米にタイミングを合わせて討論会や研究会を開催した。
 こうした集いにおける発言や発表は、そのほとんどが中国の最近の軍事的威嚇やサイバー攻撃などの好戦的な行動を非難する内容だった。

 オバマ政権当局者も、こうした国内での対中批判の盛り上がりを意識して、オバマ大統領と習主席との首脳会談では中国のサイバー攻撃を議題に取り上げる方針を明らかにした。「中国のサイバー攻撃は米国官民にとって受け入れがたい行為であり、大統領は米側のその懸念を習主席に直接に伝える」(アーネスト大統領報道官)という。

 すでにオバマ政権は対米サイバー攻撃の首謀者として中国人民解放軍の幹部ら5人を名指しして、起訴までしている。オバマ政権の司法省は、その起訴に合わせて中国側のサイバー攻撃の関連組織に対する経済制裁措置を取る構えも見せた。

 だが、政権全体としては、習氏の来訪前にはその措置を取らないという結論に落ち着いていた。アーネスト大統領報道官も、「両首脳は、米中両国間に存在する協調できる領域についても討議する」と述べている。

 オバマ大統領の外交には、後退や挫折のイメージがついてまわる。残る任期が1年4カ月ほどとなった今、対中関係まで失敗させるのはぜひとも避けたいところである。だからこそオバマ大統領には、中国への非難をきちんと表明しながらも「基本的には中国との互恵の関係を崩したくない」という意図が見てとれる。

米国の対中政策は再構築されない

 さて、こうした状況の中での習近平主席の訪米は、今後の米中関係にどのような影響をもたらすのだろうか。ワシントンでは多数の専門家や識者がその展望を語っているが、ここでは米中関係のベテラン研究者であるロバート・サター氏の見解を紹介しておこう。

 サター氏は中国研究専門家として米国政府に入り、30年以上も国務省、中央情報局、国家情報会議、議会調査局などの諸機関で、対中政策の形成や分析に関わってきた。現在はジョージワシントン大学教授を務め、政治的には民主党支持であることを明確にしている。
 最近、サター氏は習近平主席の訪米についての見解を小論文として発表した。以下はその骨子である。

・オバマ、習両首脳が今回ワシントンでの会談を実施しても、米中関係が米国にとって大幅に改善される可能性はまずないだろう。オバマ政権の外交姿勢は、中国をはじめアジア各国から弱体と見られ、特に中国はオバマ政権から非難され、要求を突きつけられても、あまり動じないからだ。

・オバマ政権は中国の理不尽な行動に対して、政治、経済、安全保障のいずれの面でも効果的な力の行使を示すことができなくなった。イラクやアフガニスタンからの撤退に加え、中東や欧州東部での後退がその原因だと言えよう。中国指導層はオバマ政権の外交面での衰えをよく知っていて、反発を恐れずに大胆な行動に出ることが多い。

・米国では圧倒的多数の中国専門家たちが、習主席の掲げる「米中新型大国関係」や「中国の平和的発展」というスローガンを信じなくなった。中国は米国に対して響きのよい協調的な言辞を弄しながら、実際には国際的な規範に反して、米国の国益を支える利害関係を侵害する行動をとっている。そんな認識が米側では確立された。

 サター氏は以上のように述べ、米国の対中政策は2016年11月の大統領選挙の結果が判明するまでは再構築されず効果を発揮しないだろうという悲観的な見通しを示した。

安保改定の真実 [下]

2015年09月23日 17時59分58秒 | 国際・政治
ソ連の「中立化」工作が奏功 朝日新聞幹部は「闇の司祭」と兄弟分だった…

 「中立化」こそがソ連の対日工作のキーワードだった。露骨に社会主義圏に入るべきだとは言わず「中立化」という言葉を用いた効果は絶大だった。

 学者・文化人の多くがまだ社会主義への幻想を抱いていた時代。終戦から15年しか経っておらず、国民の反米感情が強かった。安保条約改定に対して「米国の戦争に巻き込まれる」という宣伝は次第に効果を上げていった。

 だが、ソ連が恫喝を強めれば強めるほど、岸は対米関係強化に突き進んだ。

 昭和35(1960)年1月19日、岸は、病に倒れたジョン・ダレスに代わり国務長官となったクリスチャン・ハーターと新安保条約に調印した。アイクとの会談後は共同声明で「新安保条約が極東の平和と安全を大いに強化し、全世界の平和と自由を増進すると確信している」とうたった。

 ソ連は怒り狂った。同年4月に漁業交渉のため訪ソした農相の福田赳夫(後の第67代首相)は、最高指導者で首相のニキータ・フルシチョフと会談した。
 フルシチョフは鳩山政権時代を懐かしみ「日本はいま安保で騒いでいるが、岸が悪い。鳩山だったらあんなにソ連に挑戦的なことはしないだろう」と論難した。福田が反論すると、フルシチョフは小声で「キシ、キシ」と呟いた。ロシア語で「キシ」は「腐る」の意。こんな子供じみた悪態をつくほど岸は目障りな存在だった。

 ソ連が反発を強めるにつれ、朝日新聞を中心に多くのメディアは安保改定への批判一色となっていった。「日本は中立化すべき」「安保改定すれば米国の戦争に巻き込まれる」-。スローガンまでもなぜかソ連の主張とそっくりだった。

 そもそもメディアは安保改定には無関心だった。

 「日米安保条約を改定/近く米側と交渉/藤山外相 具体案の作成指示/片務性を解消へ」

 産経新聞朝刊1面をこのスクープが飾ったのは昭和33年7月1日だった。記事を書いたのは産経新聞政治部記者の松平吉弘(86)。記事では、旧安保条約の問題点を指摘し、国民が米軍駐留のメリットを享受できるよう片務性を解消する方向で改定する方向だと報じた。同時に外相の藤山愛一郎が渡米し、米側と正式協議に入る見通しだと伝えた。
 岸は昭和32年2月の首相就任直後から駐日米大使のダグラス・マッカーサー2世と水面下の交渉を始めたことを考えると決して早いとは言えないが、各紙はこのニュースを黙殺した。

 7月3日の参院外務委員会で社会党の羽生三七は産経新聞を片手に記事の真偽を質した。藤山は「忌憚なく私が考えているところを米側に率直に言ってみる」と事実関係を大筋で認めたが、各紙はこの答弁を小さく報じただけだった。

 記事通り、藤山は昭和33年9月11日、ワシントンでダレスと会談し、安保条約改定の交渉入りを合意した。各紙が安保条約改定について大きく報じ始めたのは、この前後からだった。

 1950年代後半から80年代にわたり、ソ連の対日工作の責任者は、ソ連共産党中央委員会国際部副部長などを務めたイワン・コワレンコだった。

 「闇の司祭」の異名を持つコワレンコはソ連崩壊後、ジャーナリストの加藤昭の取材に応じ、加藤の監修で回顧録を残した。
 コワレンコは、「灰色の枢機卿」と呼ばれたソ連共産党イデオロギー担当書記のミハイル・スースロフの意向を受け、「日本の中立化」を目指す民主統一戦線を作るべく政界や労働界を奔走したことを回顧録に赤裸々に綴った。安保闘争についても「日本の民主勢力にかなり大きな援助を与えた」と明かしている。

 ソ連と日本共産党はギクシャクした関係が続いたため、コワレンコが選んだ新たなパートナーは社会党だった。回顧録でも鈴木茂三郎、浅沼稲次郎、勝間田清一、石橋政嗣、土井たか子ら歴代委員長を「ともに仕事をして実り多かった愛すべき闘志たち」と絶賛している。日ソ友好議員連盟などを通じて元労働相の石田博英ら自民党議員にも接触を続けたという。

 メディア工作にも余念がなかった。

 特に朝日新聞政治部記者で後にテレビ朝日専務になった三浦甲子二とは「兄貴」「弟」と呼び合う仲で「よき友であり同志」だった。「こうした協力者を旧ソ連ではアジェンダ・ブリヤーニ(影響のエージェント)と呼び、三浦の他にも財界人や学者等に多数いた」と明かしている。
 同じく朝日新聞のモスクワ支局長、編集局長を経て専務となった秦正流も親しく「ジャーナリストとして非凡な才能の持ち主」「秦の下で朝日新聞の内容は一層よくなった」と称えた。昭和52(1977)年に朝日新聞は、フルシチョフ後の最高指導者、レオニード・ブレジネフとの単独会見を実現させたが、これもコワレンコがすべて取り仕切ったという。

 加藤は産経新聞の取材に応じ、こう解説した。

 「ソ連にとって中立化とは傀儡政権を作るという意味だ。その候補を探すのがコワレンコの役割だった。結局、社会党は日和見で力にならないから彼は自民党にシフトしていく。この時代は、米ソ冷戦の枠組みで国際情勢がすべて動いた。安保改定も安保闘争も、米ソ冷戦のあだ花にすぎないのではないか」


岸信介の誤算 社会党の転向と警職法改正で一転窮地に 禅譲密約で乗り切ったが…


 昭和33(1958)年4月18日、第56代首相の岸信介は、社会党委員長の鈴木茂三郎との会談で、野党の内閣不信任決議案提出を受け、衆院を解散することで合意した。25日、岸は約束通り衆院を解散した。この「話し合い解散」を受けた第28回衆院選(5月22日投開票)は、保守合同と社会党再統一による55年体制後初の総選挙となった。

 この時点で岸は、日米安全保障条約を改定する意向を外務省にも漏らしていなかったため、争点のない選挙となった。結果、自民党は絶対安定多数の287議席を得て大勝。他の議席は社会党166、共産党1、諸派1、無所属12だった。

 6月12日、第57代首相に指名された岸は直ちに組閣に入り、実弟の佐藤栄作(第61~63代首相)を蔵相に、池田勇人(第58~60代首相)を国務相に、三木武夫(第66代首相)を経企庁長官に起用した。自民党では副総裁に大野伴睦、幹事長に川島正次郎、総務会長に河野一郎、政調会長には腹心の福田赳夫(第67代首相)を充てた。挙党態勢の強力な布陣だといえる。

 「総選挙に示された国民の意志は、大多数が現実的かつ進歩的な政治を信頼し、急激かつ冒険的な変革を欲しないということであります。(略)わが国の民主政治の健全な発達を図るには、極左、極右の活動を抑制せねばなりません。最近ややもすれば、公然と法の秩序を無視し、集団の圧力によって国会活動を不当に掣肘するような傾向が見受けられますことは極めて遺憾であります。このような非民主的な活動には毅然たる態度で臨みます」
 6月17日の特別国会で、岸は所信表明演説で社会党や共産党との対決姿勢を鮮明に打ち出した。国民の信を得たことによる自信の表れだと言えるが、どこか奢(おご)りも見てとれる。

 そして満を持して日米安全保障条約改定に取りかかった。9月11日に外相の藤山愛一郎が訪米し、国務長官のジョン・ダレスと安保条約改定で合意、10月4日に正式交渉が始まった。

 これが岸の絶頂期だった。すべて順風満帆で死角はないように見えた-。

 後に「昭和の妖怪」と呼ばれる岸は、権謀術数をめぐらす老獪な政治家というイメージがあるが、根は楽天家だった。安保条約改定についても、米軍の占領状態が事実上続く旧安保条約をより対等に改定するのだから、与野党はもとより、大多数の国民が支持してくれると考えていた。

 そう思うのも無理はない。社会党でさえも安保条約改定を声高に求めていたからだ。

 「8千万民族は、われわれの同胞は、他民族の軍政下にあることは忘れてはなりません。不平等条約の改正をやることが現在日本外交に与えられた大きな使命なり、と私は断ぜざるを得ないのであります」

 社会党書記長の浅沼稲次郎(後の委員長)は昭和32(1957)年2月27日の衆院本会議の代表質問で、首相に就任したばかりの岸をこう質した。

 委員長の鈴木も同月の衆院本会議で「日本民族独立のために、不平等条約の改廃を断行するため、力強く一歩を踏み出す決意を持っていないか」と迫った。後に社会党委員長として「非武装中立論」を唱える石橋政嗣も同年11月の衆院内閣委員会で「不平等条約を平等なものにしたいという国民の熱願」として安保条約改定を求めている。
 とはいえ、条約改定は相手国との合意なくしてできない。まして米国相手であり安全保障という国家の存亡にかかわる条約だ。岸は機が熟すまで安保条約改定に関して曖昧な答弁を続けざるを得なかった。回顧録でも岸は「安保条約の改定については、むしろ私の方が慎重であった」と述懐している。

 そもそも岸は、若い世代は安保条約改定を強力に支持してくれるはずだと信じていたふしがある。昭和32年6月に第34代米大統領のドワイト・アイゼンハワー(アイク)と初会談した際、岸はこう語っている。

 「憲法改正を実現するには3分の2の議席が必要なのだが、保守政党はここ数年若者に人気がない。(旧安保条約の不平等性により)日本は独立できていないと言い立てるナショナリズムがわき起こっているからだ…」

 安保条約改定を支持してくれるはずだった社会党は態度を一変させた。

 すでに昭和33年5月の衆院選で、安保条約「改廃」から「廃止」に公約を変更していたが、まだ政府に改定の動きがなかったため、争点にならなかった。

 社会党が安保条約「廃止」に転向するきっかけとなったのは、昭和32年10月のソ連の人工衛星スプートニクの打ち上げ成功だった。これが米ソの軍事的パワーバランスを逆転させ、11月には中国国家主席の毛沢東が「東風が西風を圧した」と宣言した。

 社会党内の左派は勢いづいた。これに前後してソ連が「日本の中立化」を促す対日工作を活発化させたこともあり、社会党は反米路線を旗幟鮮明にしていく。
 昭和33年5月の衆院選中には、ソ連、中国の露骨な“選挙介入”もあった。

 5月2日に長崎市内で開かれた中国物産展に男が乱入し、中国国旗を踏みつけ破損させる「長崎国旗事件」が発生すると、中国外相の陳毅は日中貿易の全面停止を通告した。ソ連が、米軍の核兵器が日本国内に存在するか否かを問う口上書を日本政府に突きつけたのも同じ時期だった。

 昭和34(1959)年3月28日、社会党は総評などとともに「安保改定阻止国民会議」を結成し、議会制民主主義を否定したかのような激しい反対闘争を繰り広げることになる。岸の社会党への淡い期待は完全に裏切られた。

 もう一つ大きな誤算があった。昭和33年10月8日、臨時国会に提出した警察官職務執行法(警職法)改正案だ。

 警職法は、連合国軍総司令部(GHQ)占領下の昭和23(1948)年に施行され、警察官の職務権限は大きく制限されていた。岸は安保条約改定を控え、騒乱を避け秩序を維持するには、職務質問や所持品調べなど警察官の権限を強める必要があると考えたのだ。

 これに先立つ7月11日、岸は駐日米大使のダグラス・マッカーサー2世と極秘裏に会った。ここで岸は、安保条約改定に先立ち、国会に警職法改正案や防諜法案を提出し、野党・左翼勢力と対決する決意を明かした。同時に国民年金法案や最低賃金法案も提出し、一般国民の支持を得る考えだった。

 警職法改正は、岸が就任当初から掲げる「三悪」(汚職・貧乏・暴力)追放の一環でもあったが、予想以上の反発を招いた。
 社会党や総評などは10月16日に警職法改悪反対国民会議を結成した。戦時中の特高警察への恐怖が人々の心に色濃く残っていた時代。「オイコラ警察ハンターイ」「デートもできない警職法」「新婚初夜に警察に踏み込まれる」-などキャッチーなフレーズも手伝い、反対運動は一気に広がった。24日には国会周辺で8000人が抗議の提灯デモを行った。

 社会党が審議拒否に出ると、自民党の三木や池田、松村謙三、石井光次郎ら反主流派の領袖は「法案の無理強いは避けるべきだ」と申し合わせた。

 「これ以上警職法で自民党内がグラつけば安保条約改定さえおぼつかなくなる」。こう考えた岸は警職法改正を断念、法案は審議未了で廃案となった。

 だが、この譲歩が逆に自民党内の反主流派を勢いづかせる結果となった。

 自民党内の不穏な空気を感じ取った岸は昭和33年12月、翌34年3月に予定された自民党総裁選を1月に繰り上げた。これが「対抗馬の動きを封じる策略だ」と受け止められ、池田、三木、灘尾弘吉の3閣僚が辞表をたたきつけた。

 「私が世の中で一番嫌いな奴は三木だ。陰険だよ。あの顔つきをみてごらんなさい。あの顔を…」

 後にこう語るほど三木を嫌っていた岸にとって、少数派閥の領袖にすぎない三木が閣外に去ることは別に構わなかった。だが、池田の後ろには、なお隠然たる影響力を持っていた元首相の吉田茂がいる。文相として教職員の勤務評定問題などに取り組んでいた灘尾を失ったのも痛かった。

 さらに深刻だったのは、党人派の実力者である大野が池田らと呼応し、反主流派を形成しようとしていたことだった。

 窮地に陥った岸は昭和34年1月3日、静岡・熱海の静養先で大野、河野と密かに会い、大野に「次はあなたに譲る」と明言し、政権への協力を求めた。これを受け、1月16日には東京・日比谷の帝国ホテルで岸、大野、河野に、佐藤や右翼大物の児玉誉士夫らを加えた会合を開き、政権禅譲の密約を書面で交わした。

 これで岸はどうにか総裁の座を守ることができたが、政権の行く末には暗雲が広がっていた。

 「社会党がソ連、中共の謀略に乗せられてその使嗾(しそう)のままに動く傾向が強まってきているとき、自民党の団結は、国家、民族の将来にとって最優先の命題である」

 岸は当時の心境を回顧録にこう綴っている。



先鋭化する社会党「米帝は日中の敵!」 5・19強行採決で事態一転…牧歌的デモじわり過激化 そして犠牲者が

「台湾は中国の一部であり、沖縄は日本の一部であります。それにもかかわらず、それぞれの本土から分離されているのはアメリカ帝国主義のためだ。アメリカ帝国主義について、お互いは共同の敵とみなして戦わなければならない」

 昭和34(1959)年3月12日、社会党書記長の浅沼稲次郎(後の委員長)は中国・北京でこう演説し、万雷の拍手を浴びた。

 人民帽をかぶり意気揚々と帰国した浅沼は数日後、駐日米大使のダグラス・マッカーサー2世に面会を申し入れ、東京・赤坂の米国大使館を訪ねた。

 ほどなくマッカーサーが現れた。浅沼が立ち上がるとマッカーサーは機先を制するように問いただした。

 「中国の共産主義者たちが言う『米国は日中共通の敵だ』という主張に、あなたは同意したのか?」

 浅沼が釈明しようとするとマッカーサーは拳(こぶし)で机をたたき、怒声を上げた。

 「同意したのか? イエスか、ノーか!」

 浅沼はすごすごと引き返すしかなかった。

 中国もソ連と同様に第57代首相の岸信介が進める日米安全保障条約改定に神経をとがらせていた。毛沢東が進めた「大躍進」で餓死者が続出した混乱期にもかかわらず、昭和35(1960)年5月9日には北京・天安門広場に約100万人を集め、「日米軍事同盟に反対する日本国民を支援する大集会」を開いている。
 中国の対日工作が奏功したのか、昭和34年3月の浅沼の訪中後、社会党は安保条約改定への批判を強めた。3月28日には総評(日本労働組合総評議会)や原水禁(原水爆禁止日本国民会議)などと安保改定阻止国民会議を結成。統一行動と称する組織的な反対デモを行うようになった。

 ただ、運動は大して盛り上がらなかった。昭和34年の通常国会は大きな混乱もなく、岸内閣は最低賃金法や国民年金法など雇用・社会保障制度の柱となる法律を粛々と成立させている。

 6月2日投開票の第5回参院選(改選127)も安保改定は大きな争点とならず、自民党が71議席を獲得した。社会党は38議席、共産党は1議席だった。

 安保闘争はむしろ社会党内の亀裂を深めた。

 社会党右派の西尾末広ら32人は、社共共闘を目指す左派を批判し、秋の臨時国会召集前日の昭和34年10月25日に離党した。

 秋の臨時国会は、南ベトナムだけを賠償請求権の対象とするベトナム賠償協定に社会党などが反発し「ベトナム国会」となった。11月27日未明の衆院採決を機に社会党議員の誘導で安保反対派の群衆約1万2千人が国会内に乱入、300人以上の負傷者を出す事件が起きた。これが安保闘争の前哨戦といえなくもないが、議会制民主主義を否定する手法に批判が集まり、反対運動は沈静化した。
 岸は昭和35年(1960)1月16日に全権委任団を率いて米国に出発し、19日に新安保条約に調印した。この前後のデモも散発的だった。西尾ら衆参57議員は24日に民主社会党(後の民社党)を結党、社会党や労組は分裂含みの余波が続き、動けなかった。

 転換点は、昭和35年5月19日の衆院本会議だった。

 第34代米大統領のドワイト・アイゼンハワー(アイク)の訪日予定日は6月19日。それまでに何としても新安保条約を承認する必要があった。社会党は審議拒否に入り、参院審議は望めず、もはや衆院で可決した条約案を憲法61条に基づき30日後に自然承認させるしかない。タイムリミットは5月20日だった。

 19日午後10時半、本会議開会のベルが鳴ったが、社会党議員や秘書がピケを張り、議長の清瀬一郎は議長室に閉じ込められたまま。清瀬は院内放送で「名誉ある議員諸君、このままでは議長の行動も自由になりません」と呼びかけたが、埒(らち)が明かない。

 11時5分、清瀬はついに警官隊を動員した。警官隊とピケ部隊の乱闘の中、間隙(かんげき)を突いて清瀬は本会議場に突入し、11時49分に自民党だけで50日間の会期延長を可決した。
 清瀬は岸らと協議の上で強行策に出た。いったん散会を表明し、20日午前0時5分に再び開会。そこで新条約承認案を緊急上程し、強行採決した。

 「アンポ反対」「国会解散」「アイク訪日阻止」「岸倒せ」-。5月19日を境に安保闘争は、岸への個人攻撃にすり替わり、国会周辺のデモは雪だるま式に膨れあがった。

 それでも当時のデモは牧歌的だった。男はワイシャツ姿や学生服、女はスカート姿も多かった。もっとも過激とされた全学連でさえ基本的には非暴力戦術をとり、70年安保闘争のようにヘルメットにゲバ棒で武装する人はいなかった。

 流行したのは、両手をつないで並んで進む「フランスデモ」。仕事帰りのデート代わりにデモに参加するカップルも多く、デモの合間を縫うようにアイスクリーム屋が「アンポ反対アイス」を売り歩いた。

 岸もしばらくは余裕綽々(しゃくしゃく)だった。東京・渋谷の岸邸は連日デモ隊に囲まれたが、記者団に「声なき声に耳を傾ける。今日も後楽園球場は満員だったそうじゃないか」と語り、自宅では普段通りにくつろいだ。5歳だった孫の安倍晋三(第90、96、97代首相)が「アンポ反対!」とまねたときも目を細めた。

 6月19日の自然承認。期限を切ったことは、安保闘争に「目標」を与える結果となり、6月に入るとデモはさらに肥大化した。

 「至急来てくれないか」

 岸から電話で呼び出された郵政相の植竹春彦は、闇夜に紛れて首相官邸に通じる裏口をくぐった。
 「デモ隊がNHKを占拠して革命的放送を流したら大変なことになる。すぐに警視庁と話をしてNHKの防備を固めてくれ」

 岸にこう命じられた植竹はすぐに警視庁とNHKに出向き、対応を協議した。深夜になり再び裏口から官邸に入ると、岸は首相執務室のソファで大いびきをかいていた。植竹が声をかけると、岸はむっくり起き上がり、「NHKの防備の手配は無事終わりました」との報告を聞くと「ご苦労さま」と笑顔でねぎらい、再び横になった。

 外ではまだ「安保反対」「岸辞めろ」の大合唱。それでも爆睡できる岸の豪胆さに植竹は心底驚いた。

 事態は悪化の一途をたどった。6月10日、アイクの新聞係秘書(現大統領報道官)のジェームズ・ハガチーが、アイク訪日の最終調整のため来日した。

 午後3時35分、米軍機で羽田空港に到着したハガチーは、デモの実態を確かめるべく米海兵隊のヘリコプターではなく米大使館のキャデラックに乗り込んだ。

 だが、首都高が京橋-芝浦間で初開通するのは昭和37(1962)年暮れ。羽田から都心に向かうには多摩川の土手沿いなど一般道しかなかった。ハガチー一行の車は弁天橋手前の地下道出口で全学連反主流派に囲まれ、立ち往生した。

 初めは学生たちもおとなしく、ボディーガードの靴を踏んだ学生は「アイムソーリー」と頭を下げた。だが、一人が車上に登り「ハガチー出てこい」と叫ぶと窓ガラスや車体を叩く者が続出、現場の警察官だけでは排除できなくなった。
 結局、ハガチー一行は米海兵隊のヘリコプターに救出された。アイク訪日に黄信号がともった。

 6月15日夕。断続的に雨が降る中、約20万人が国会議事堂を幾重にも包囲した。全学連主流派の学生約7500人も集結した。

 全学連主流派は、リーダーの唐牛健太郎ら幹部の多くが逮捕されていた。その焦りもあり、「国会突入」という過激な行動に出た。

 午後5時半ごろ、学生たちは国会南通用門の門扉に張り巡らされた針金をペンチで切断。敷石をはがして投石を始め、バリケード代わりに止めた警察のトラックを動かそうとした。

 国会敷地内には鉄製ヘルメットをかぶった警察部隊約3500人が待機しており、放水で応酬した。

 午後7時すぎ。学生たちが雪崩を打つように敷地内に突入し、警察部隊と激しくぶつかった。

 東大文学部4年の長崎暢子(77)=東大名誉教授=は、卒論用に借りた書籍を国会図書館に返却したその足でデモに参加した。

 長崎は最前列から十数列後ろでスクラムを組み国会敷地内に突入した。数列前に友人の東大文学部4年の樺(かんば)美智子=当時(22)=の姿が見えた。

 デモ隊と警察部隊に挟まれる形で猛烈に押され「苦しい」と思ったが、身動きできない。頭上からは警棒が容赦なく振り下ろされた。腹も突かれた。「痛い」と悲鳴を上げたが、逃げようがない。「倒れたらダメだ。死んじゃうぞ!」。誰かにこう励まされたが、長崎の意識は次第に遠のいた。
「女子学生が死んだらしい」-。午後7時半すぎ、こんな噂(うわさ)がデモ隊に流れた。午後8時すぎ、社会党議員が仲裁に入り、午後9時すぎ、国会敷地内で全学連の抗議集会が開かれた。ここで女子大生の死が報告され、黙祷(もくとう)をささげた。

 集会後、学生の一部は暴徒化し、警察車両にも放火。翌16日未明、警察は催涙ガスを使用し、デモ隊を解散させた。この騒動で負傷した学生は約400人、逮捕者は約200人に上った。警察官も約300人が負傷した。

 死亡した女子大生は樺だった。検死結果は「胸部圧迫と頭部内出血」だった。

 長崎は入院先の病院で樺の死を知った。「まさかデモで死んじゃうとは…」とショックだった。

 長崎と樺は大学1年からの友人だった。3年で長崎は東洋史、樺は国史を専攻したが、交流は続いた。樺は学者を目指して徳川慶喜に関する卒論に取り組んでいたという。

 「こんな安保改定を行う岸信介はけしからん。われわれの卒論も哀れな末路をたどりそうだ。学問を邪魔するとはけしからん」

 笑顔でこう語ったのが、樺との最後の会話だった。


岸信介の退陣 佐藤栄作との兄弟酒「ここで二人で死のう」 吉田茂と密かに決めた人事とは…

 昭和35(1960)年6月に入ると、社会党や全学連に扇動された群衆は連日のように国会と首相官邸を幾重にも囲み、革命前夜の様相を帯びた。安保条約の自然承認は6月19日午前0時。それまでに国会や首相官邸に群衆が雪崩れ込み、赤旗を掲げるのだけは防がねばならない。

 当時の警察官数は警視庁で約2万5千人(現在約4万3千人)、全国で約12万7千人(現在約25万8千人)しかおらず、装備も貧弱だった。警視総監の小倉謙は「国会内への進入を防ぐ『内張り』だけで手いっぱいです」と音を上げた。

 通産相の池田勇人(第58~60代首相)と蔵相の佐藤栄作(第61~63代首相)はしきりに自衛隊出動を唱えた。自民党幹事長の川島正次郎も防衛庁長官の赤城宗徳を訪ね、「何とか自衛隊を使うことはできないか」と直談判した。

 困った赤城は長官室に防衛庁幹部を集め、治安出動の可否を問うと、旧内務省出身の事務次官、今井久が厳しい口調でこう言った。
 「将来は立派な日本の軍隊にしようと、やっとここまで自衛隊を育ててきたんです。もしここで出動させれば、すべておしまいですよ。絶対にダメです!」

 赤城は「そうだよな。まあ、おれが断ればいいよ」とうなずいた。それでも自衛隊の最高指揮官である首相が防衛庁長官を罷免して出動を命じたら断れない。防衛庁は万一に備え、第1師団司令部がある東京・練馬駐屯地にひそかに治安出動部隊を集結させた。

 6月15日、恐れていた事態が起きた。全学連主流派が率いる学生デモ隊が国会敷地内に突入して警察部隊と衝突、東大文学部4年の樺(かんば)美智子=当時(22)=が死亡したのだ。

 樺の死を知った岸は悄然とした。反対派は殺気立つに違いない。そんな中、第34代米大統領のドワイト・アイゼンハワー(アイク)訪日を決行すれば、空港で出迎える昭和天皇に危害が及ぶ恐れさえある。

 岸はアイク招聘を断念、退陣の意を固めた。だが、公にはせず、腹心で農相の福田赳夫(第67代首相)をひそかに呼び出した。

 「福田君、すまんが内閣総辞職声明の原案を書いてくれ…」

 「こんなに頑張ってこられたのに総辞職ですか?」
 福田は翻意を促したが、岸の決意は固かった。

 6月16日未明、岸は東京・渋谷の私邸に赤城を呼んだ。

 岸「赤城君、自衛隊を出動させることはできないのかね」

 赤城「出せません。自衛隊を出動させれば、何が起きてもおかしくない。同胞同士で殺し合いになる可能性もあります。それが革命の導火線に利用されかねません」

 岸「武器を持たせず出動させるわけにはいかないのか?」

 赤城「武器なしの自衛隊では治安維持の点で警察より数段劣ります」

 岸は黙ってうなずいた。

 6月16日午後、岸は臨時閣議でアイクの来日延期を決定した。これでデモが収束するかと思いきや、ますます気勢を上げた。

 翌17日、警視総監の小倉が官邸を訪れ、「連日のデモ規制で警察官は疲れ切っており、官邸の安全確保に自信が持てません。他の場所にお移りください」と求めたが、岸はこう答えた。

 「ここが危ないというならどこが安全だというのか。官邸は首相の本丸だ。本丸で討ち死にするなら男子の本懐じゃないか」

 新安保条約自然承認を数時間後に控えた18日夜、岸は首相執務室で実弟の佐藤と向き合っていた。
 「兄さん、一杯やりましょうや」。佐藤は戸棚からブランデーを取り出し、グラスに注いだ。

 「兄さん、ここで2人で死のうじゃありませんか」

 佐藤がうっすらと涙を浮かべると岸はほほ笑んだ。

 「そうなれば2人で死んでもいいよ…」

 深夜になると、福田や官房長官の椎名悦三郎らが続々と官邸に集まってきた。

 ボーン、ボーン…。19日午前0時、官邸の時計が鳴った。福田や秘書官らは安堵の表情で「おめでとうございます」と声をかけたが、岸は硬い面持ちでうなずいただけだった。

 自然承認といってもこれで条約が成立するわけではない。両政府が批准書を交換しなければならない。

 このため、「反対派が批准書強奪を企てている」という情報もあった。自民党副総裁の大野伴睦や総務会長の石井光次郎らは批准書交換を円滑に進めるため、岸に内閣声明で退陣を表明するよう求めた。

 福田は6月18日夜、東京・紀尾井町の赤坂プリンスホテルに出向き、大野らに「実は10日前にハワイで批准書交換を済ませている」と説明して納得させた。

 これは岸が思いついたうそだった。日本政府の批准書は、外相の藤山愛一郎が18日に東京・青山の親族宅で署名し、菓子折りに入れて運び出していた。

 批准書交換は23日に東京・芝白金の外相公邸で行われることになった。ここもデモ隊に包囲されるかもしれない。
 「外相公邸の裏に接するお宅二軒にお願いして、いざという場合には公邸の塀を乗り越えて、その家を通り抜け、向こう側へ抜け出せるようにした」

 藤山は、回顧録で批准書交換の「極秘作戦」を明かし、「幸い正門から出ることができた」と記した。

 真実はどうだったのか。

 産経新聞政治部記者の岩瀬繁(86)は外相公邸敷地内で批准書交換が終わるのを正門で待っていた。

 だが、待てど暮らせど藤山は出てこない。暇つぶしに敷地内をぶらぶらしていると、藤山が外相公邸の裏の垣根を乗り越えようとして警護官に持ち上げられているのが見えた。藤山の回顧録はうそだった。「絹のハンカチ」と呼ばれた財閥の御曹司にとって、泥棒のように塀を乗り越えたことは誰にも知られたくない恥辱だったのだろう。

 岸はこの日、臨時閣議を開き、こう表明した。

 「人心一新、政局転換のため、首相を辞める決意をしました…」

 辞任表明したとはいえ、岸は後継問題で頭を抱えた。ソ連の「日本中立化」工作はなお続いており、自民党が政局でぐらつけば、苦労して築いた日米同盟まで危ぶまれる。この難局を乗り切れるのは誰か-。

 福田は、社会党と決別した民主社会党(後の民社党)と連立を組み、初代委員長の西尾末広を後継指名する奇策を編み出した。これならば自民党の内紛を押さえ込むだけでなく社会党も追い込める。岸も乗り気となったが、肝心の西尾が煮え切らず水泡に帰した。
 では自民党で誰を後継指名するのか。岸は神奈川・箱根温泉の「湯の花ホテル」を訪ねた。ホテルを所有するのは、西武グループ創業者で元衆院議長の堤康次郎。岸に遅れて到着したのは、第45、48~51代首相を務めた吉田茂だった。

 岸は首相在任中、堤の仲介で月に1度の割合で吉田との密会を続けてきた。通算2616日もの長期政権を敷いた吉田は、有能な官僚を次々に政界に入れ「吉田学校」と呼ばれる一大勢力を築いていたからだ。

 岸と吉田が後継候補で一致すれば、自民党内の帰趨は決する。堤は、吉田学校のエースである佐藤を推したが、吉田は渋い表情を崩さなかった。

 「姓は違っていても岸さんと佐藤君が兄弟であることは、国民もよく知っているよ…」

 岸は、吉田が誰を推しているのかピンときたが、あえて「それではどなたがよいでしょうか」と問うた。

 「まあ、ここは池田君にした方がよいだろ」

 岸もうなずいた。第58代首相に池田勇人が決まった瞬間だった。

 昭和30(1955)年の保守合同後、自民党には「8個師団」といわれる派閥が存在したが、それよりも深刻なのは「官僚派」と「党人派」の対立だった。

 岸や吉田は官僚派であり、党人派の代表格が副総裁の大野や、農相などを歴任した河野一郎だった。
 岸が政権運営でもっとも苦労したのが党人派との駆け引きだった。昭和34年1月には、党人派の協力を得るため大野と政権禅譲の密約を交わした。岸は、その後の河野の入閣拒否などにより「政権運営に協力する」という前提条件が崩れたので密約は無効だと考えていたが、後継に官僚派の池田を選んだことへの党人派の恨みは深かった。

 昭和35年7月14日、自民党は日比谷公会堂で党大会を開き、池田を新総裁に選出した。午後には官邸中庭で祝賀レセプションが催された。

 岸が笑顔で来客をもてなしていたところ、初老の男がやにわに登山ナイフで岸の左太ももを突き刺した。岸は白目をむいて病院に運ばれたが、幸い全治2週間で済んだ。

 逮捕されたのは、東京・池袋で薬店を営む65歳の男だった。警視庁の調べに「岸に反省をうながす意味でやった」と供述し、背後関係を否定したが、永田町では「大野の意をくんだ意趣返しだ」とまことしやかにささやかれた。

 岸の退陣後、安保闘争はすっかり下火となり、ソ連や中国が狙った民主統一戦線による政権奪取は果たせなかった。

 とはいえ、自民党にも後遺症が続いた。安全保障は議論さえもタブー視されるようになり、結党時に「党の使命」とした憲法改正はたなざらしにされた。

 「安保改定が国民にきちんと理解されるには50年はかかるだろう…」
 岸は長男の岸信和にこう漏らした。安保改定から今年で55年。確かに安保反対派はごく少数となったが、岸の孫である第90、96、97代首相の安倍晋三が進める集団的自衛権の解釈変更などへの野党や一部メディアの対応を見るとあまり進歩は見られない。日本は「不思議の国のアリスの夢の世界」をいつまで彷徨い続けるのか-。(敬称略)

=おわり