メッセージの後の分かち合いの時、ペアーになる予定だった姉妹が欠席になり、同じように分かち合いをする人がいなくなった別の姉妹から、一緒にしましょうと声をかけてもらった。
椅子に座ってほどなくして、始めの祈りをする前に、彼女が「私の娘は主管牧師に厳しく言われたことがあって、嫌がっているので、副牧師の説教の時に来るかも知れない」と言った。
娘さんとは、数か月前に、教会の若い人から伝道をしてもらって、イエス・キリストを受け入れるお祈りをした方です。その後、主管牧師と個人的に会った時に、何かがあって、バーンと叩かれたような思いになったのだと思われます。
彼女の口ぶりから、私からも「大変だね。そうだね。主管牧師の言い方は厳し過ぎるよね。」と同意する言葉を期待している雰囲気を感じたので、躊躇しないで、「私はそうは思いません。キリストのいのちのみことばを、ご自分の命をかけて取り次いでくださっている主管牧師を私は尊敬し、愛しています。」とはっきり言いました。
信仰者になるまで、母子で、様々に苦しい問題の中におられた事情は耳にしているので、教会の人達も、そっといわたるような接し方をしているのでしょう。彼女は、またまたバーンと叩かれたような思いですと、後になって、実は自分でも良くないと思っていたのだと告白して、感謝の言葉をわざわざ私に伝えに来てくださいました。
その日の、分かち合うべきメッセージは、「一致して信仰を全うする」というテーマだったのですから、落ち着いてメッセージを振り返ったらなら、娘さんとともに、神の恵みとあわれみにより頼んで信仰生活、教会生活をしていこうと悔い改める時が与えられると信じます。
私の言い方が高慢ではなかったか、私の中に感じた「怒り」は罪であった等と、色々とその後も思い巡らしていました。
今朝、ゼカリヤ書を読んでもう一度考えました。
お母さんから、礼拝での説教内容をかいつまんで説明されたものを聞いて、母子一緒に祈るのではなく、独り立ちして、みことばを真正面から聞いて、正しく従って霊的に成長されていくようにと祈り願います。仏教について卒論を書いたという娘さんです。はっきり悔い改めて、謙遜にキリストに聞いて、キリストとともに歩む道を選択することができますように。
ゼカリヤ書 2:8 主の栄光が、あなたがたを略奪した国々に私を遣わして後、万軍の【主】はこう仰せられる。『あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ。
詩篇 17:8 私を、ひとみのように見守り、御翼の陰に私をかくまってください。
マタイの福音書25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』