私たちの「日ごとの」糧を「きょうも」お与えください。マタイ6:11
「日ごとの」「きょうも」、
これらの言葉を思い巡らしていた私は、礼拝での招詞:詩篇42編に、3節に「昼も夜も、私の食べ物でした。」8節に「昼には主が恵みを施し、夜には、その歌が私とともにあります」と書かれているのを読みました
そして、昼と夜、その日「今日」が積み重ねって、信仰を全うし、再臨を大喜びで迎えることになることを、礼拝讃美の中で思わされました。
628救い主イエスと・・「約束しませる 家に帰らば わが魂(たま)は歌わん 力の限り 君に守られて今日まで来(き)ぬと」
帰る家とは、父なる神様の身元。父が喜んで両手を広げて迎え入れてくださる。私達は様々な困難を日々神様に守られて来たこと振り返り、大喜びで父の懐に飛び込むのです。
日ごとの「糧」とは、
パン、食物、飲み物、最低限からだを維持するために絶対必要なもの。生命の糧です。人間にとって物質的な必要のすべてを神は満たし与えてくださいます。
さらに霊的な糧も与えられます。夫は癌で自宅で召されました。最後の5日間くらい、何も飲むことも食べることもできず、点滴を打つこともしなくて、讃美歌を聞き、みことばを聞いて、最後まで平安に生かされたのでした
6:33 だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。6:34 だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
私たちの日ごとの糧を
私たちとは、創造主である神が、地のちりから形作られ、鼻から神の息、霊を吹き込まれて生きる者となったものの、罪を犯してエデンの園から追放されたアダムとエバの子孫として生まれた者であり、やがて滅ぶべき者でした。
540:1 地の塵に等しかり何一つ取りえなし 今あるはただ主の 愛に生くる我ぞ
しかし、神は御子イエス・キリストを天から地に遣わして、十字架上で贖いのみわざを成し遂げて後、イエスをよみがえらせて神の右の座に着かせられました。そのイエス・キリストを信じる私たちは、もう一度、鼻から永遠に生きる息、霊を送り込んでいただいて、聖霊が内に住む神の宮としてくださいました。
日ごとに内に住む聖霊と息をするように祈り、へりくだり心砕かれている私達は、霊的な交わりを持っているキリスト者であり、そのからだに必要なものは、ちゃんと与えられるのです。
お与えください 求めるべきは、必要なものを
=1=
私たちが求めるものは贅沢なものや余分なものを求めよとは言っていない。約束もされていない。神の約束は必要な物だけを指している。そして何が必要かは、私たちの考える物と神の考えとは同じとは限らない。けれども、神は私達に必要なものを祈り求めよと言われる。
=2=
あなたがたはこう祈りなさいと、原文では主語がわざわざ書かれている。主の祈りは弟子達に教えられたものであるので、この命令を個人的に受け止めて、一人で祈るのはみこころではない。今日の祈祷会では兄弟姉妹が心を合わせて祈りましょう
=3=
すでに神が知っているのなら、どうして祈れと言われるのか==6:8 あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
子は欲しいものを父の元に来て、おねだりをする。すると父親は喜んで先の事まで考えて、状況を見て一番ふさわしいものを与える。このことを知って子は喜ぶ。このような喜びの交わりが父と子の間にあるのです。
まとめ
讃美629: 「恐れなく近寄れ」と 主は語りたもう 信仰の手伸ばしつつ 近づきまつらん いよいよ汝ながそばに 我を引き寄せ いよいよ主よ汝が愛の 広さ知らせよ
罪が赦されて神と子としていただいている私の喜びは、何にも代えがたいものです。
昼に夜に、神のあわれみによる救いのみわざを喜び、感謝します。
そしてこの喜びと祝福を、他の人々に伝えて行きましょう
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