腹話術人形けんちゃんの日記

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源河朝達28歳の時の写真・・2020年01月31日(金)

2020-01-31 20:43:52 | 日記
    『空手発祥の地 沖縄』(2017年)からの掲載です。

    (屋部家『在アメリカ』の御厚意により掲載)

明治41年(1908年)沖縄師範学校にて(明治13年生まれなので28歳の時)

    前列―番右が源河朝達 二列目右から5番目が山口辰吉

上記の写真は友人の新垣基さんが収集した源河朝達資料の一部です。

源河朝達の日記・その2・2020年01月31日(金)

2020-01-31 08:46:57 | 日記
私が持っている祖父の日記は1966年、満87才のものです。

今、拾い読みをしています。

馬鹿正直=狂人。余り正直も狂人の如さ。正直と狂人や紙の一重?

 人間は臍から上におはします。臍から下は馬と同格。

理屈より力 法より力 共存共栄。

 不老不死は不可。

生きていく為めには夢を持たねばならない。

 長寿より健康。真心は真珠よりも美しい。果たして霊魂は不滅?

文明化とは機械の発達により人間の機能が衰える事。

 人間はパンのみでは生きない。ただしパン無くしては生きない。


源河朝達の日記・その1・2020年01月30日(木)

2020-01-30 08:00:45 | 日記

         祖父(源河朝達)の日記を読んでいます。その1

                   記

14才までは病弱の母を助ける。14の時母の死亡により宮古の父のもとに行く。

満20才に沖縄師範学校に入学する。4年間入学試験、始め卒業まで一番で卒業する。

 卒業の翌年、渡嘉敷通睦名医の真子と結婚。

東京高等師範学校図画手工専修科入学2カ年の後沖縄師範学校教諭を拝命。

 月給40円。訓導時代の3倍の月給を頂く依って妻の代用教員を止めさせ家庭に専任。

絶望名言2・黒澤明・2020年01月28日(火)

2020-01-27 08:28:49 | 日記
   絶望名言2の066ページ~068ページからのの転載です。

 黒澤明が68歳のときに書いた「蝦蟇の油ー自伝のようなもの」(岩波現代文庫)というタイトルの自伝

を読むと、決して強い一方の人ではないんです。

 意外なことに、幼い頃は身体が弱く、気も弱く、泣き虫だったそうです。

 小学校の勉強にもついていけなくて、ひとりだけ離れたところに机と椅子を移されて、

授業中、先生はときどき、「これは黒澤君には、わからないだろうが」とか「これは黒澤くんにはとても無理だが」

などと言って、他の生徒たちがクスクス笑ったそうです。

 しかも実際、先生が説明していることが自分にはわからなくて、悲しく苦しかったと、黒澤明は書いています。

 朝礼では気を失って倒れる、ドッチボールのときはみんなからボールをぶつけられ、それをうけとめることもできない。

 学校生活は地獄の責め苦だったそうです。

そんな黒澤明が変わったのは、図画の時間に描いた絵を、立川という先生がほめてくれたことがきっかけでした。

 しかし、その先生は学校をやめさせられ、新しい先生は黒澤明の絵を徹底的に罵倒します。

それでも黒澤明は後に画家を目指すようになるのですが、美術学校、現在の東京藝術大学の美術学部ですね、

そこの受験に失敗します。

 あきらめきれずに絵を描き続けますが、ついには挫折します。

黒澤明が強くなっていったのには、尊敬する兄の励ましもあったのですが、その兄は何度も自殺未遂をし、

 ついに心中をしてしまいます。

身内の死ということでは、やさしかった姉も若くして病死しています。
 
 黒澤明自身も、61歳のときに、自殺未遂をしています。もっと若いときに、もうこれで映画が

撮れなくなるかもという危機もありました。

 そういうふうに、黒澤明は、決して悲しみを知らない人ではないんです。むしろ、

弱さも悲しみもたっぷり持っているからこそ、強さを魅力的に描くこともできたのかもしれません。