腹話術人形けんちゃんの日記

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絶望の中でキリストに出会う(金城重明牧師)No2・2019年4月9日(火)

2019-04-09 15:42:07 | 日記
     絶望の中でキリストに出会う(金城重明)No2

 太平洋戦争勃発後、軍国主義が生み出した”鬼畜米英”の思想は、非戦闘員を悲劇に追い込

んだのです。鬼畜生見たいな米軍に捕らえられたら、耳や鼻を削ぎ落とされたり、戦車の下敷き

にされたり、女性は凌辱されると洗脳されていたのです。従って、自らの手で愛する肉親の

命を絶つことが、残された唯一の選択であり、せめてもの慰めだったのです。

 「集団死」を遂げた325名の住民の遺体は塁をなし、流された血は小川を赤く染め、その色は、

残酷な死を語り伝えるかのように、幾日も消えませんでした。

 沖縄戦終結後、正常な心理状態を取り戻すことによって、私の脳裏にはあの「集団死」体験

が鮮烈によみがえり、日々苦悩にさいなまれるようになります。絶望のどん底にあった時、私は

一人のキリスト者との出会いを体験します。

 生まれて初めて聖書を目にしたのです。食い入るように不思議な書物を読み続け、いつの間にか

信仰に引き込まれていきます。戦場で、虫けら同様に扱われ、自らもあの生き地獄を体験し、

 九死に一生を得た一人の少年に、キリストの力強い救いのみ手が差し伸べられたのです。

人生に新たな地平が開かれました。私にとって晴天の霹靂とも言うべき一大事件でした。

絶望のどん底から希望へ、死の絶望からキリストの生命へ、闇から光へ導き入れられたのです。

 キリストの十字架の苦難及び死と、私の「集団死」体験の苦悩が、ぴったり重なり合った時に、

私は、あの絶望からの根源的開放が与えられ、更に、不条理な「集団死」や沖縄戦と向き合い、

それらの真相を証言するように導かれていったのです。「集団死」や戦争の悲劇は、再び起こしては

ならない、神と人類に対する最大の罪ののです。

 

絶望の中でキリストに出会う(金城重明牧師)No1・2019年4月9日(火)

2019-04-09 13:46:38 | 日記
     絶望の中でキリストに出会う

 沖縄は、73年前に激しい地上戦を体験し、今も尚、戦争に直結

する米軍基地があるために、戦争体験の風化現象はゆるやかにしか

進んでいません。しかし風化は時間の経過とともに確実に進行しつつ

あります。

 沖縄戦での「集団死」は、数箇所で起こりました。悲惨を極めたのは、

慶良間諸島の三島の島々(座間味、慶良間、渡嘉敷)においてであります。

犠牲者の総数は約700名です。

 私の集落の阿波連では人口の約3分の2が失われました。我が家は

両親と弟妹が死にました。1945年3月28日、米軍上陸翌日の惨劇だったです。

 渡嘉敷島では、米軍上陸一週間前(1945年3月20日頃)に、

日本軍から島の男性約10数名に手榴弾が手渡されるという出来事がありました。

一人に2個ずつ配られましたが、手渡す時、担当の下士官が、”敵に遭遇したら

一個は敵に投げ込み、残る一個で自決せよ”、と命令したのです。

 如何なる理由があっても、皇軍(天皇の軍隊)が非戦闘員に武器を手渡すと言う

ことは、絶対にあり得ません。まして戦場で重要な武器である手榴弾を住民に配る

と言うことは、既に軍が重大な決断をしていたことを意味します。

 その内実は、住民が軍隊との”共死”を強要されていた、と言うことです。

因みに、沖縄戦のキーワードは”軍・官・民共生共死”で、公務員や住民は、

軍との死の運命を共にすべく洗脳されていたのです。

 「集団死」の第一段階は、手榴弾によって試みられました。米軍が島に上陸し、

最接近した時点で、あの悲劇が起こりました。因みに、離島に関する限り「集団死」

が起こったのは、日本軍が駐留した島々だけだったのです。しかも、住民は、米軍の

ターゲットになる日本軍陣地のすぐ近くに移動させられました。米軍が接近して来る

に連れ、私共は、軍隊との連帯感の高揚をひしひしと感じながら、死に追い詰められて

いったのです。

手榴弾一個の回りに10名、20名の家族・親戚が輪をつくりました。共に死を遂げるため

であります。暫くの間爆発音が響き、子供や女性たちの悲鳴が聞こえてきます。

しかし、操作ミスがあって、犠牲者は少数に止まりました。その事が、より

衝撃的な結末を招いたのです。

 親が我が子を、夫が妻を、兄弟が姉妹を、愛するが故に、カミソリや鎌などの刃物

で頸動脈や手首を切ったり、紐で首を絞めたり棍棒や石で頭部を叩くなど様々な方法

で死に至らしめたのです。

 私共の家族に関して、兄と私が一番最初に手を掛けたのは、自分たちを産んでくれた

母親でした。あの、瞬間、私は、悲痛の余り号泣しました。母も泣いていました。

色々と方法は試みられましたが、最終的には、頭部を石で叩くという惨事にいたりました。

 母は息絶えました弟や妹も先立たせました。私の年齢は16歳でした。

100 cmの視界から=あまはいくまはい=45=・2019年4月2日(火)

2019-04-02 15:39:18 | 日記
 下記は、琉球新報の2019年4月2日(火)からの転載です。

       ペーパー離婚完了!

 2009年、夫と事実婚をし「未届けの妻」になった私。

結婚後もずっと「伊是名」の名字を使いたかったので、

婚姻届は出さないことを選んだのです。

戸籍ではできませんが、住民票では妻になることができ、

ーつの家族になることができます。

那覇市で住民票を提出したのですが、手続きも簡単。

婚姻届のような証人もいりません。

 でも妊娠をした時、子どもを非摘出子にするか悩みました。

私だけの戸籍のままで子供を生むと、私が事故などで亡くなった時、

親権が自動的には夫にいきません。また出生届けも、夫が出す場合は

代理届も一緒に出さないといけません。ハイリスクな出産だったので

煩わしいことを避けたく、出産前に婚姻届を出すことにしました。

婚姻届を記入する時、離婚届も一緒に記入。出産後すぐに離婚をする

ためです。でもいろいろな事情が重なり、出すタイミングを逃し、

6年が経過しました。

 病院でも市役所でも、戸籍通りの夫の名字で呼ばれるので、

いつも違和感が。自分の名前という実感がありません。

子どもは夫の名字なので、保育園、幼稚園の先生方からも、

夫の名字で呼ばれます。自分を偽っている感じがしていました。

 仕事ではできる限り「伊是名」を使いますが、それもややこしい。

どこかしら、いつも夫や子どもに合わせている気がしていました。

意を決して、離婚届を提出し、事実婚に戻ることにしたのです。

 離婚後、私は夫の生命受取人になれないので、息子に変更したり、

相続に関する遺言書を作ったりしました。区役所の弁護士にも相談しました。

 そして先月、離婚届提出!戸籍を出す窓口で「夫婦別姓を通すため、

離婚をし、事実婚にします。住民票では未届けの妻でお願いします。」

と伝えると、係の人は、ぽかん。何度説明しても「私には分かりかねます。

住民票の窓口で確認してください」ー点張り。

「夫婦別姓が話題になる今、私たちのような事実婚も増えるかもしれません。

勉強してください。」と伝える私。私の勢いに押されてたのか、係の人も調べてくれ

「住民票では未届けの妻と記載することができます。」

と言ってくれました。

 戸籍の担当者が知らなかっただなんて、夫婦別姓はまだまだ広まっていないのですね。

でも裁判も起こる今、新しい風は吹いています。私の事実婚も、その一歩になるでしょう!

 祝ペーパー離婚!正真正銘の伊是名夏子、再び‼本当にうれしいです。

偽りのない、ありのままの私をよろしくお願いします。