「嘘」についてのトピックがありましたので哲学において古代ギリシアよりその倫理やあり方についての議論がなされている課題ですので語らずにはいられませんでした。
アリストテレス曰くは、嘘そのものではなく嘘をもって成し得るものがなにかが重要であるとのこと。Virtue 美徳こそ人生においてもっとも追求するべきものであり、真実の方が残酷であることも然り。そもそもアリストテレス曰く真実そのものは常に変化していて、究極の真実とは Unmovable Mover なるこの世の源泉みたいなもののみであるとのこと。これをアリストテレス後継者であり後期スコラ哲学者の大家であるトマス・アクィナスがそれを 神であり Divine Law 神聖法と称したわけです。人間の知りえ干渉できる法は自然法や市民法レベルであり Unmovable Mover に当たるものはそれこそトライアンドエラーを繰り返しながら永遠に歩み続ける矢先になのです。
このブログでもおなじみになりましたイマヌエル・カントは嘘は Categorical Imperative に抵触する不道徳行為であるとのこと。確かに Categorical Imperative の原則に従ってより良い人間性と世の中を目指すなら嘘を許容し罷り通る世の中はよろしくない。そもそもカント倫理学では結果や美徳よりも行動や思考そのものの善悪をより追求します。ただ、カント自身も人間の自然状態そのものがそのように崇高に生きられないことを存じていて、それよりも自然状態の混沌から脱出し市民的に生きるための原則を格言や指標とし意識し続け極力実践することを示しています。つまり、嘘もついてしまわざるを得ない事態なら仕方ないしどうしても嘘をつかざるを得ない何かがあるが、嘘をつくことそのものを意識して考え迷うプロセスが重要であるとのこと。
上記の対比の話だけでなく、そもそも形而上学的に我々は嘘と真を果たして認知し区別できているのか?そしてそれそのものが意味を成しているのか?という課題に突き当たります。特にテスラの社長のイーロン・マスクが「この世は仮想現実である!」と発言したことは暴論や極論の類ではないのです。そもそも我々はこの世を認知するために体の機関そしてそこに張り巡らされた神経から脳へ伝達された情報によって脳内にインプットされ処理されそしてイメージや記憶などのアウトプットとなるわけです。そもそも現代科学そのものも人類が認知できる次元でしか理解は及んでいないわけですし。
ヴィトゲンシュタイン曰く、各々は各々の異なる世界で生きているわけです。そして各々の世界規模と体系における論理体系や理論性が成立するわけです。故に各々の基準の中では論理が成立していてかつ真理と虚偽もその中での定義に依存し、そしてその各々の世界から持ち出してきた世界観において別の各々の世界の真理と虚偽を判断するわけです。そもそも伝達するということは伝言ゲームのようなもので、受けての演じているゲームによっても受け答えが変わるわけです。それで真理だけで形作られた虚偽の無い世界は「氷のお城はとても綺麗で荘厳だが床がつるつる滑ってあるけない。ざらざらした土の大地に戻ろう。」ということになる。つまり必然的に存在する歪や虚無を含めて世界や我々は形作られているわけです。
アリストテレス曰くは、嘘そのものではなく嘘をもって成し得るものがなにかが重要であるとのこと。Virtue 美徳こそ人生においてもっとも追求するべきものであり、真実の方が残酷であることも然り。そもそもアリストテレス曰く真実そのものは常に変化していて、究極の真実とは Unmovable Mover なるこの世の源泉みたいなもののみであるとのこと。これをアリストテレス後継者であり後期スコラ哲学者の大家であるトマス・アクィナスがそれを 神であり Divine Law 神聖法と称したわけです。人間の知りえ干渉できる法は自然法や市民法レベルであり Unmovable Mover に当たるものはそれこそトライアンドエラーを繰り返しながら永遠に歩み続ける矢先になのです。
このブログでもおなじみになりましたイマヌエル・カントは嘘は Categorical Imperative に抵触する不道徳行為であるとのこと。確かに Categorical Imperative の原則に従ってより良い人間性と世の中を目指すなら嘘を許容し罷り通る世の中はよろしくない。そもそもカント倫理学では結果や美徳よりも行動や思考そのものの善悪をより追求します。ただ、カント自身も人間の自然状態そのものがそのように崇高に生きられないことを存じていて、それよりも自然状態の混沌から脱出し市民的に生きるための原則を格言や指標とし意識し続け極力実践することを示しています。つまり、嘘もついてしまわざるを得ない事態なら仕方ないしどうしても嘘をつかざるを得ない何かがあるが、嘘をつくことそのものを意識して考え迷うプロセスが重要であるとのこと。
上記の対比の話だけでなく、そもそも形而上学的に我々は嘘と真を果たして認知し区別できているのか?そしてそれそのものが意味を成しているのか?という課題に突き当たります。特にテスラの社長のイーロン・マスクが「この世は仮想現実である!」と発言したことは暴論や極論の類ではないのです。そもそも我々はこの世を認知するために体の機関そしてそこに張り巡らされた神経から脳へ伝達された情報によって脳内にインプットされ処理されそしてイメージや記憶などのアウトプットとなるわけです。そもそも現代科学そのものも人類が認知できる次元でしか理解は及んでいないわけですし。
ヴィトゲンシュタイン曰く、各々は各々の異なる世界で生きているわけです。そして各々の世界規模と体系における論理体系や理論性が成立するわけです。故に各々の基準の中では論理が成立していてかつ真理と虚偽もその中での定義に依存し、そしてその各々の世界から持ち出してきた世界観において別の各々の世界の真理と虚偽を判断するわけです。そもそも伝達するということは伝言ゲームのようなもので、受けての演じているゲームによっても受け答えが変わるわけです。それで真理だけで形作られた虚偽の無い世界は「氷のお城はとても綺麗で荘厳だが床がつるつる滑ってあるけない。ざらざらした土の大地に戻ろう。」ということになる。つまり必然的に存在する歪や虚無を含めて世界や我々は形作られているわけです。

