近年教育の混乱ぶりは目に余るものがあります。
「部活動を地域に委ねる」なんて、各種スポーツクラブが林立する都市部とちがい地方には受け皿になる組織や人材はいない。
「インクルーシブ教育」。確かにそうであるべきだしそうしたい。でも、現場にはそれを実践できる教育人材が圧倒的に不足している。
また、発達障害児は全国で激増しており、発達障害児に対する幼児期からの対応さえしっかりできればインクルーシブにできるのに
肝心の幼児期の対応支援が国としてひどすぎるので、現場が疲弊する。地方自治体におまかせ丸投げでは、あまりにも酷である。
ほかにも「ゆとり教育からの転換」「プログラミング義務化」などなど、理想はよくわかるのだけれど、
なんとなく”付け焼き刃”な気がするのは私だけではないはずです。
本来なら、教育こそじっくり腰をすえて、ひとりの人間のライフサイクルをしっかりにらみながら、土台となる基礎をしっかり造り、
そのうえに筋の通った教育方針を貫き、さらには、さまざまな可能性への挑戦への選択肢をちりばめる。
そうでなくてはならないはずです。
なのに、「○○国のこれがよい」「△△のあれがよい」「××は世界みんながやっているみたいなのでとりいれよう」などと
一部だけを切り取ってきて、切り貼りするようにしてしまうので、ニッポンの教育に一本の筋というか背骨というか、
「軸」ができないようになってしまっていると思います。
本来、日本には「道を究める」という精神性の高い教育の規範がありました。
「武道」「華道」「茶道」・・・・などなど。
それは世界に誇るべき教育であるはずなのに、なぜか軽んじられているように感じます。
世界基準も大切ですが、まずは日本人の土台となる基礎部分がどこになのか、
ということをきちんと整理してから教育改革なるものをすべきではないでしょうか。
「私が経済産業大臣であったら」と先日書きましたが、不遜ながら文部科学大臣もぜひやらせていただきたく存じます。
少なくともいまよりは、もっとしっかりと日本の国風にそった土台と基礎をつくり、
もっと現場目線で人材育成や末端組織づくりからきちんと準備できそうな気がします。
教育は誰しも人生の中で関わりをもつ社会づくりの重要なパーツです。
もっと国民参加で議論したら、相当よい意見が飛び交う豊潤な議論がなされ、よりより教育方針ができると感じています。
私は、そんな教育議論ができる国にしたいと考えています。
まずは、静岡県、ふじのくにから始めます!