センバツ、聖隷クリストファー高校まさかの落選

2022年01月29日 | Weblog

センバツ甲子園の選考会が昨日開催され、晴れの出場校が発表されました。

静岡県からは東海大会優勝校として日大三島高校がセンバツされました。おめでとうございます!

ぜひ静岡県の代表としてもがんばっていただきたいと思っています!

 

ところが、センバツ出場が確実視されていた東海大会準優勝の聖隷クリストファー高校がまさかの落選・・・

理由は、『4強に残った大垣日大のほうが戦力が充実しているから』というまったくもって理不尽なものでした。

準決勝で日大三島に5点差で負けた大垣日大と、決勝で3点差で負けた聖隷クリストファー。

「?」「?」「?」・・・疑問符しか浮かびません。

この理由を述べたのは選考委員長の慶応大学の監督だったかたですが、

私見としては慶応大学の元監督を選考委員長にしてある時点で、高校野球のもつ本質を理解できていない

選考委員会ではなかったのかと感じます。そもそも彼からしたら六大学にくる選手はみんな「力量のある選手」

ばかりだからそれが選考基準かもしれませんが、高校野球は高校生の持つ無限の可能性に挑戦し、

ときにその可能性のカベを超えるキセキを引き起こすことがあるからこそ

高校野球そのものが尊い教育の場であり、高校生の心身の成長の場であると感じています。

ゆえに高校野球に多くのひとたちが魅了されているとも感じています。

昨秋の東海大会での聖隷クリストファー高校は、バッテリーを故障で欠くなか、準々決勝、準決勝とチーム全体の頑張りで、

全員があきらめることなく大逆転を2度までもやってのけて、限界のカベを見事に打ち破り準優勝までたどりついた。

まさに高校野球のあるべき姿を体現した高校だと感じていました。

それを落選させることは高校野球の精神に反するような気がしてなりません。

ほんとうに残念でなりません。

 

少なくとも、高野連は選考基準というものをきちんと検証すべきだ。

でないと高校野球の本質が変質し、「戦力があればいい」という安易な言葉に象徴されるような、

カネと偏見にまみれた格差社会の象徴のようになってしまうと、大いなる危惧を覚えます。

今後少なくとも選考委員会をガラス張りで行うべきだ、と思うのは私だけではないはずだ。

 

また、聖隷クリストフアー高校野球部や関係者のみなさんはには、ご無念のほどお察しして止みません。

お辛いとは思いますが前を向いていただきたいと思っています。

多くの高校野球ファンや心ある日本中のひとたちが、みなさんのがんばってきた姿、

実際2度までも起こしたキセキ、みなさまのなかにある無限の可能性を忘れてはいません。

その姿を必ずや夏の甲子園で魅せていただきたい、とみんなが応援しています。

自らの可能性を信じて、チームの可能性を信じて、がんばってください!

聖隷クリストファー高校ならきっとできる!

 

そして、はからずも悪役のような十字架を背負うようなかたちになってしまった大垣日大高校のみなさんには、

プレッシャーを感じないで、存分にがんばっていただきたいと、それだけは申し添えておきます。


新成人に贈ることば

2022年01月10日 | Weblog

浜松市では成人の日をまえに、成人式が1月9日が行われました。

新成人のみなさんには、”無限の可能性がある世界に、存分に羽ばたいてください!”と、

かつて、五木寛之が「青年は荒野をめざす」で謳い上げたような破天荒な青春のようなものを

イメージしつつこの言葉を贈りたいと思いつつ、近年の懸念も同時に伝えなければ、とも思っています。

 

それは「地球環境の保全と経済成長のための開発」のジレンマについてです。

地球の変調ぶりは、すでにみなさんが体感しているように気候変動というカタチで実感されています。

また、資源の枯渇も現実感を帯びてきています。

すでに旧来型の地下資源をエネルギーとした成長至上主義は事実上の終焉が見えており、

世界の成長至上主義者たちが意図的に無視してきた「不都合な真実」も、もはや無視しきれなくなっています。

 

ここにひとつの教訓があります。

みなさんは、イースター島をご存じでしょうか。

そう、あのモアイ像の島イースター島です。

イースター島は南太平洋にぽつんと浮かぶ絶海の孤島、日本の小豆島ほどのちいさな火山島です。

イースター島の先住民は、8世紀から12世紀ころポリネシアから移住してきたと考えられています。

ポリネシア人は高度な航海術をもつ民族でしたが、その後、18世紀ころには約1万7千人規模の人口を抱え、

島の自然資源である森林を切り倒しすぎて船がつくれなくなり、航海術を失い移住もできなくなり、

さらには漁業技術が廃れ、漁網をつくる植物も枯渇、森林が失われたことで土地が痩せて、自然災害が頻発し

土壌流出などもあって農業も困窮し、最後は限られた食料や資源を奪い合うために争いがおこり、

1888年にチリに併合されるときにはわずか111人の住民を残すのみとなっていました。

これは、地球の未来を暗示するようなイースター島の紛れもない史実です。

 

新成人のみなさんには「自分だけ良ければ良い」のではなく、

自然環境や世界のひとびとのことも考えた「共生の時代」を意識して、

これからの人生の荒野を切り拓いていってもらわねばなりません。

大変のことかもしれませんが、これからの人類と地球を担う役割を順送りしてゆかねばなりません。

私も政治家として、その役割を意識して全力で取り組んでゆきたいと思いますが、

みなさんにも思いを同じくしていただけると、きっと未来は明るくできると思います。

そんな、お願いもしつつ、新成人のみなさまに贈る言葉としたいと思います。

 


官庁御用始め

2022年01月04日 | Weblog

今日は官庁御用始め。

我々政治家は「常在戦場」のようなものですので、例年通り元旦から始動していますが、

官庁ならびに企業でも本日始動のところが多くこれで本格的に令和4年が動き出しますが、

日本は4月から3月の年度制ですので、社会的な感覚でいうと令和3年度の年度末の3ヶ月が始まるということにもなります。

 

さて、この3ヶ月。

大変になるだろうと予測しています。

予想通り年末年始の人流の活発化でオミクロン株の感染拡大が始まっていますので、

この年度末もやはりコロナ禍での対応を第一に考えながら、一方でほのかに見えてきた

トンネルの出口を目指して、新常態の平準化と並行して経済活動の活性化を実践してゆかねばなりません。

今年は世界的に「変化」の兆しを察知することや、激変への対応力が求められる一年になるでしょうから、

アンテナを高く、感覚を研ぎ澄ませておかないとなりません。

また、静岡県政も昨年の知事選、参議院選挙の対立の残滓に輪を掛けて、川勝知事の失言問題もあって、

前代未聞の不信任決議案を可決されるなど、引き続き不安定感があるのは否めません。

ただ、こういう状況下だけに、県民のみなさまの生活や県政の骨幹に関わる審議こそが大切であり、

ゆきすぎた政局化はいただけません。ここは、議会人としての良心を信じたいと思っています。

個人的には今年は会派会長は退任しているだけにできることは限られていますが、

県政のスムーズな運営のためにはできるだけのことは尽力してゆきたいと思っています。

 


2022年、新年あけましておめでとうございます。

2022年01月03日 | Weblog

2022年の年明けは、温暖の地静岡県でも厳冬の三箇日となりました。

厳冬ですが、少しだけ日常が戻ってきた感のあるお正月になっておられるのではないでしょうか。

 

ただ今年はいまだコロナ禍のなかでのお正月ですが、欧米ではオミクロン株が猛威を振るっており

12月31日の数字では過去最高の新規感染者数が記録されており、この大波がいつ日本に押し寄せるか

まったく予断を許しません。水際対策とは言いますが、これは「来る」と思っておかねばなりません。

静岡県も、3回目のワクチン接種体制を急ぎ、また健康上の理由でワクチン接種ができない方や、

12才以下のこどもたちをまずは対象とした無料のPCR検査も、主要駅だけでなくドラックストアなど

県内100カ所で実施できるように用意を進めています。

来たるべき大波に備えてぜひみなさまも注意を怠ることのないようお願い申し上げます。

 

さて、2022年を展望しておきたいと思いますが、

コロナ禍という感染症の襲来というだけでなく、歴史が示すようにアフターパンデミックは、

時代が激変してきたという史実があるように、今年も激動の一年になるだろうと考えています。

 

まずは世界のカタチがどうなってゆくのか。

資本主義の危機が叫ばれています。民主主義と資本主義という長く世界を支えた体制が揺らぎ

権威主義という独裁制の匂いのする危険な国々が台頭してきており、

それを牽制すべき民主主義国家群は自国内の混乱が目立ちます。

この先の世界秩序を考えると暗澹たる気持ちになります。

 

翻って日本はどうか。

日本は自民党・公明党政権が安定しているように見えますが、これは芯のある野党が育っていないことと、

国民が不都合な真実から目を背けているような気がしてなりません。

なぜ、各種の格差が広がることにも、各種問題が先送りされていることにも、安穏としていられるのか。

また、なによりもこんな困難に際して、新しいアイディアをだしたり挑戦をしようとする動きが少ないのか。

・・・これは国民性なのでしょうか。

もし日本の国民性がそうなってしまっているのであれば、この国は危ないと痛感します。

 

私は政治家として、これらの問題提起をしつつ、代案や新しいアイディアを想起し、挑戦をしてきたつもりです。

静岡県においては、これらの改善策や提言が具現化できてきたという自負はあります。

しかしながら、国においては、なかなか改革も新たな挑戦も具現化されてきていないる気がしてなりません。

 

今年は、どう転んでも、いろんな意味で次の時代を形作ってゆく激動の一年になるでしょう。

私も微力ながら、その激動の一年にコミットしてゆかねばと思っています。