黒猫のつぶやき

法科大学院問題やその他の法律問題,資格,時事問題などについて日々つぶやいています。かなりの辛口ブログです。

ビザンツ帝国滅亡の「真相」

2013-07-08 02:29:11 | 歴史
 予告どおり,今回は法科大学院と何の関係もない,歴史関係の記事です。

 古代の地中海を支配したローマ帝国は,ゲルマン人の侵攻などによって次第に衰退し,4世紀末には東西に分裂します。西ローマ帝国は5世紀末に滅びてしまいましたが,東ローマ帝国の方はその後も長く生き延び,最終的に滅亡したのは1453年です。東ローマ帝国は,その首都コンスタンティノープル(現:イスタンブール)の旧名ビザンティウムを取って,ビザンツ帝国(ビザンティン帝国)と呼ばれることもあります。
 ローマ帝国の歴史として日本人に最も知られている本は,おそらく塩野七生さんの『ローマ人の物語』でしょう。歴史学者の文献ではなく小説であるにもかかわらず,最近は学者の本でもローマ帝国に関するものであれば『ローマ人の物語』に言及するのが当然のようになりました。もっとも,『ローマ人の物語』は西ローマ帝国の滅亡と,その後ユスティニアヌス帝の時代に言及している程度で,その後千年近くにわたって続いた東ローマ帝国の歴史には触れられていません。
 黒猫は,中世ビザンツ帝国を舞台にした小説を書こうという構想を以前から持っているので,折に触れてビザンツ帝国の歴史をいろいろ調べているのですが,ビザンツ関係で最近読んだ本に『ビザンツ帝国の最期』(ジョナサン・ハリス著,井上浩一訳)があります。この本は,ビザンツ帝国の末期約50年間について,最新の研究に基づく考察が述べられているものですが,同時代について書かれた書物,例えば塩野さんの『コンスタンティノープルの陥落』や『海の都の物語』と比較すると,その「真相」についてずいぶん違う描かれ方をしているのに驚きました。
 すなわち,塩野さんの本は,概ね以下のような史観に立脚しています。
① 15世紀,ビザンツ帝国は衰退し,イスラム教国であるオスマン帝国の従属化に置かれていたが,スルタン・ムラト2世の下で両国とその民は平和裡に共存しており,当時のオスマン帝国にとって,ビザンツ帝国を滅亡させるべき理由は何もなかった。
② しかし,ムラト2世の跡を継いだメフメト2世は,アレクサンダー大王に憧れ,日頃「大王は東へ向かったが,私は西へ向かう」などと公言しており,自らの手でビザンツ帝国を滅ぼしこれをイスラムの帝国として再建する野望を持っていた。
③ ムラト2世の時代から仕えていたオスマン帝国の大宰相・ハリルは,両国の平和維持に尽力していたが,わがままなメフメト2世はハリルの強い反対を押し切ってコンスタンティノープル攻撃を強行し,これによってビザンツ帝国は滅亡した。ビザンツ帝国最後の皇帝コンスタンティノス11世は,最後までオスマン軍に立ち向かい英雄的な最期を遂げた。

 塩野さんに限らず,西欧ではこれまで上記のような史観が通説的地位を占めていたようなのですが,『ビザンツ帝国の最期』では,これとずいぶん異なる史観が示されています。要旨は以下のとおりです。
① 14世紀初め頃に成立したオスマン帝国は,当時アナトリア半島に存在したイスラム教国の中でも特に強大な存在ではなかったが,キリスト教徒に対してはきわめて寛容であり,領土拡大にあたり抵抗を受けることがあまりなかったことから,ビザンツ帝国の内紛と混乱に乗じてその領土を吸収し,徐々に勢力を拡大していった。
② 15世紀末になると,ビザンツ帝国はオスマンの臣下となることを余儀なくされたが,ビザンツ帝国の内部には,様々な謀略をめぐらせて何とかオスマンに対抗しようとする一派と,オスマンとの共存を図る一派が対立を繰り返しており,オスマン帝国の転覆を謀る謀略が何度となく行われた一方,帝国内部の一派がオスマン帝国のスルタンに援助を求めることもあった。
③ ビザンツ帝国によるオスマン転覆の陰謀として最も知られるものは,西欧諸国への十字軍の呼びかけである。歴代のビザンツ皇帝は,イスラム教徒が「コーランか剣か」の二者択一を迫る暴力的な不信仰の徒であるなどという嘘の宣伝をたびたび行って対オスマンの十字軍を呼び掛け,これに応じて1396年及び1443年に西欧諸国の十字軍(らしきもの)が結成されたものの,いずれもオスマン軍に撃退された。
 なお,現代でも西欧諸国に残っているイスラム教徒が暴力的であるという偏見には,概ねこの時代にその起源があるらしく,2006年にはローマ教皇ベネディクト16世が,イスラムは邪悪で残酷であるとするビザンツ皇帝マヌエル2世の発言(十字軍を出してもらうためのあからさまな嘘宣伝)を無批判に引用し,イスラム諸国から厳しい非難を浴びている。
④ 1421年にオスマン帝国のムラト2世が即位すると,時のビザンツ皇帝ヨハネス8世は,ムラトの叔父ムスタファを擁立してオスマン帝国の力を削ごうとしたが,ムスタファはあっさり敗れて処刑されてしまい,1424年にビザンツ帝国はオスマンに臣従する形での講和を余儀なくされた。しかし,オスマン軍に包囲されていた帝国第二の都市テッサロニケはヴェネツィアに引き渡されていたため講和の対象とならず,1430年に陥落。一方,皇帝ヨハネス8世の弟で好戦的な性格の専制公コンスタンティノス(後のコンスタンティノス11世)は,モレア地方で軍事行動を繰り返して帝国の領土を若干拡大させたが,この軍事行動はオスマン,ローマ教皇双方との関係を悪化させた。
 それでも皇帝ヨハネス8世は西欧諸国に十字軍の派遣要請を続け,1443年にはハンガリー王ウラ―スロー1世らの率いる十字軍がオスマンの領土に侵攻。最初の進撃は順調で,これに乗じてアナトリア半島のカラマン侯国も反乱を起こしオスマン帝国は危機に陥ったが,翌年には十字軍が冬の寒さでそれ以上進撃できなくなり,ウラ―スローはオスマンと単独講和。その間にムラトはカラマンの反乱を鎮圧し,十字軍側の海軍も撃退した。ウラ―スローはローマ教皇庁の強い要請で和平条約を破棄するも,黒海沿岸の町ヴァルナでオスマン軍に大敗し,ウラ―スロー自身も殺された。
 十字軍派遣に対するビザンツ帝国の関与は明らかであったが,ヨハネス8世は十字軍とビザンツ帝国は無関係であると言い張り,ムラトにはヴァルナの勝利を祝う使節を送った。ムラトが不誠実なビザンツ帝国への報復に出なかったのは,ひとえにムラトが学問を好む平和的な性格であり,無用な戦争を好まなかったからである。
⑤ メフメト2世は,1446年に父のムラト2世からスルタンの位を譲られたが,当時12歳のメフメトが単独で帝国を統治できるはずもなく,実権は大宰相のハリル・パシャが握っていた。これに乗じて,コンスタンティノスはオスマン帝国の直轄領であるテッサリア地方を攻撃。この攻撃は一時期成功したが,ハリルの求めに応じ隠退していたムラト2世が復位すると為す術無く,コンスタンティノスはスルタンへの臣従という形での講和を余儀なくされた。
⑥ 1449年,コンスタンティノスは兄(ヨハネス8世)の死によりビザンツの帝位を継いだ。一方,オスマン帝国では1451年にムラト2世が亡くなり,メフメト2世が再びスルタンの位に就いたが,新スルタンの若さに乗じて臣下のカラマン侯国が再び内乱を起こしたほか,親衛隊のイエニチェリ軍団が不満を唱え,メフメト2世はこれを鎮めるために多額の金貨を与えざるを得なかった。ビザンツ皇帝コンスタンティノス11世はこれに乗じ,ビザンツ帝国で預かっているオスマンの王族の監護料(ムラト2世の時代から支払われていた)を2倍にするよう,メフメト2世に要求した。
⑦ メフメト2世は,カラマンの内乱を鎮圧したものの,自分の支配を盤石にするにはより大きな軍事的成功,すなわちコンスタンティノープルの征服が必要であると考えた。また,大宰相ハリル・パシャは留任させていたものの,一度自分をスルタンの位から引きずり下ろした前歴があり,ビザンツ帝国などから多額の賄賂を受け取っていたハリルをメフメトは深く恨んでいた。
⑧ 1453年,メフメト2世は大軍を率いてコンスタンティノープルを攻撃し,陥落させた。3ヶ月にも満たない期間で大都市を陥落させたのは,当時としては異例の速さである(帝国第二の都市であったテッサロニケの攻略に,父のムラト2世は約8年を要している)。これによってスルタンの地位を盤石にしたメフメト2世は,その年の夏には無用となったハリルを処刑。その後もメフメト2世は征服戦争を繰り返し,領土を大幅に広げてオスマン帝国の基礎を築く一方,気分次第でどんな高官をも容赦なく処刑する専制君主ないし暴君として恐れられた。なお,コンスタンティノス11世は首都陥落の際に戦死したものと考えられているが,その最期は明らかでなく,様々な書物に書かれている英雄的な最期の有様は偽作であることがほぼ確実である。

 このようなビザンツ帝国の最期について,感じ方は人それぞれあると思います。現在でも英語のByzantine(ビザンティン)には「理解しにくい」「複雑な」「権謀術数の」などという意味がありますが,まさしく「策士策に溺れる」だったという一面もありますし,滅亡寸前まで内部分裂と混乱を繰り返す様に呆れるという一面もありますが,逆に上記では書ききれなかった部分(ローマ教会内部の分裂を利用して自分たちに有利な合意を取り付ける)など,滅亡寸前の国とは思えないほどのしたたかさを持ち合わせていたと感心するような一面もあります。また,当時の人々にとってキリスト教とイスラム教の違いはそれほど重要でなく,キリスト教徒とイスラム教徒が公然と手を組むこともあった事実に驚く方もいるかも知れません。
 ビザンツ帝国の歴史は,これまで西欧人によって極めて偏向的に語られており,具体的には異教徒の侵略に対する抵抗者として美化されるか,あるいは徹底的に非難されるかのどちらかでした。『ローマ帝国衰亡史』を書いたエドワード・ギボンが後者の立場を採ったこともあって,従来はどちらかというとビザンツ帝国など全く無価値であったかの如く徹底的に非難する見解が通説的地位を占めており,日本人である塩野さんの本も,そのような見解の影響を非常に強く受けているようです。
 しかし,最近の歴史学界ではこのような偏向を廃して,ビザンツの歴史について真実を追究しようという動きが高まっており,ビザンツの歴史に関する研究が盛んになっています。それは同時に,これまでキリスト教徒とイスラム教徒は徹底的に憎み合い,殺し合い続けてきたという従来の史観に疑問を投げかける試みでもあります。
 その中で,キリスト教徒,イスラム教徒のいずれにも属しない日本人は,中立的・客観的な立場でビザンツの歴史を検証できる数少ない民族の一つであり,その果たすべき役割は決して小さくないのかも知れません。