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「清張日記」

2015年10月23日 08時00分00秒 | 読書
『清張日記』(松本清張・著、文藝春秋)を拾い読みしている。彼の71歳の1月1日からのものである。当然のことながら、死後に発表されることを意識してのものだろうが、晩年の最大テーマである「古代史」を中心とした探求は、専門学者を〈辟易〉させただろう詳しさに溢れている。アカデミックな教育を受けていないと云うコンプレックスを逆の発条にして、学者間ではタブー視されている説にも平気で踏み込み、新しい展開を見せたことも多々あったろう。

それは彼の出世作となる『或る「小倉日記」伝』の内容を、ある意味地で行ったようなもので、市井の研究者が中央論壇の常識に小石を投げることの虚しさを暗示している。森鴎外の小倉時代の日記(当時は行方不明)を鴎外の短編などから推定して行く作業を続ける障がいのある青年は、清張の自己投影の姿でもあろう。芥川賞を取ったこの小説は、直木賞候補から回されたもので、坂口安吾の激賞を受けた。現在では両賞の検討は同時に行われているから、こういうケースは有り得ないらしい。

この『小倉日記』から鴎外のことに話題を移せば、いろいろと面白いことがある。鴎外の二度目の妻・志げ子(つまりこの『日記』の中の人物)は、相当の美人だったらしい。鴎外自ら「好イ年ヲシテ少々美術品ラシキ妻ヲ相迎ヘ」の手紙を終生の友人・賀古鶴所(かこ つるど)に送っていることでも判る。だが、結論的には悪妻の部類だった。賀古は東大医学部で鴎外と同窓、同じように軍医の経歴があるが、後にドイツに留学(これも鴎外と同じ)、耳鼻咽喉科を学んでいる。

更に帰国してから赤十字病院に勤める傍ら開業。明治23、4年頃、「耳科新書」と云う翻訳本を出すが、訳語は鴎外が大分、助けたらしい。その時に内耳、外耳の間を中耳にした(間耳ではおかしいので)との説もあると云う。賀古は鴎外の臨終にも立ち会い、有名な「…余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス…墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可(べか)ラス…」の遺言を筆記した。なお、「日記」は清張の「…伝」が受賞する1年前の昭和26年2月に、志げ子の箪笥の中から発見されている。彼女が故意の紛失を演出したのか…。

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