ブログ随筆「ちょっと、散歩へ」

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「そこそこ」

2024年01月18日 19時30分30秒 | 日記
前回、つまらぬ小自慢をして仕舞ったが、このついでにもっと云えば、趣味事の俳句、短歌、川柳も「そこそこ」ではないかと自負している。俳句を作るか読むかは誰でも小中学校の時に1、2回は経験があるのではないか。日本人? であれば芭蕉の「古池や…」など、一つや二つは諳んじていよう。俳句的な気分は日本人に沁み着いているように思う。短歌はそれよりはちょっと縁は少ないか。川柳となると江戸川柳が生活の中に結構、入り込んでいる。

小生も普通の日本人的感覚で、それらに余り抵抗なく入り込んで来た。それぞれ10年以上の経験を積んでいる。俳句は定年前後にある結社の下部句会に入り、結構、熱心に取り組んだものである。句誌の我が名の順番に一喜一憂した。「朝日句壇」入選1回が自慢。短歌は本格的には10年足らずか。俳句を作るのは対象物を一刀で切り裂くとすれば、短歌は少しくそれを腑分けするように作るものと知った。こちらも「朝日歌壇」1回入選。川柳は人間の愚かさが主題と思う。

世間は川柳を「サラ川」「シニア川」のような笑い中心と思っているが、江戸川柳は置いて、近代川柳の6大家と云われる麻生路郎、村田周魚、椙元紋太、川上三太郎、岸本水府、前田雀郎らの句には人間の喜怒哀楽を通した〈詩〉がある。以前に地元で川柳句会を開いていた頃、『人と云うたった2画の難解字』の句にその作者の深さを知ったが、笑いでも『泣きなきもよい方をとるかたみわけ』(柳多留)には、川柳の基本中の基本の〈穿ち〉が明確にある。

さて、自分では「そこそこ」にやって来た積りだが、〈才は乏しく、道遠し〉である。ただ、我らは気楽なもので、句が出来ようが出来まいが生活に痛痒は無い。せいぜい句会が迫って、アタフタとするだけである。そこで出て来るのが、「そこそこ」ならぬ「そろそろ…」である。脳髄を叩こうが擦ろうがピンとも響かない。かつては多少は降って来た〈字句〉も落ちて来ない。ブログを捲ってみたら16年2月にも「そろそろ」と云っている。何と、二番煎じか…。


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