一気に春めいて来て、荒川河川敷の麦も青さを増した(写真)。この畑の上方にパークゴルフ(PG)場があるが、プレイの合間に見ていると、今どきは機械で〈麦踏み〉をするのには驚いた。合理的だが何となく味わいが無い。子供の頃、晩秋に麦踏みをしたものである。勿論、大人がやっていることの真似に過ぎないが、霜柱に浮き上がった根元を踏み固めて行く作業は、結構、楽しかった。霜柱の崩れる音が靴の下で鳴る。遠くの山は雪で真っ白である。
雪はやがて里山にも届き、初雪となり、何回か消えては積りを繰り返しながら、遂にある夜(とも限らないが)、シンシンと降り続き、それが根雪となる。田畑が雪に覆われれば農家は一段落である。若手は出稼ぎに出、年配者は藁仕事などで長い冬を過ごす。昔の我が家にも「稲藁編み機」があった。左右から稲柄を差し込むと巧みに捩じり込んで編んで行く。今、この〈藁〉が刈入れの機械化で砕かれて無くなり、縄が手に入りにくくなった。現に我が町内では夏祭りでも街灯の注連縄が消えた。
雪国でも彼岸の頃から春の兆しは本格的になる。日射しは秋冬の鋭角さが鈍り、物の輪郭が心なし滲む。〈春は朧〉である。屋根の雪解けが頻りに雨樋から滴り落ちる。戸越しの陽は充分に暖かく、猫もそこを好んで丸くなる。雑木林の木々の根元の雪が丸く消えて、サークルが出来上がる。地面に日が当たり始めれば雪解けはどんどん進むが、なかなかスムーズには行かないもので、根雪になる過程と同じように、何度かの〈凍て返し〉を繰り返しをしながら、自然は変容する。
そして、里では晴れていながら雪が舞うと云う、〈風花〉などに見舞われながらも、斑に雪の消えた畑には麦が成長し這い上がる。湿り気を帯びた土の黒さと麦の青さが際立つ。思わず中学国語にあった島崎藤村の「千曲川旅情の歌」を想い出す。〈あたゝかき光はあれど 野に満つる香も知らず 浅くのみ春は霞みて 麦の色わづかに青し…〉。日本文学の誇り? の古文調が美しい。一面の麦に何となく元気を貰ったような気分で、また、PG遊びに立ち戻るのである。
雪はやがて里山にも届き、初雪となり、何回か消えては積りを繰り返しながら、遂にある夜(とも限らないが)、シンシンと降り続き、それが根雪となる。田畑が雪に覆われれば農家は一段落である。若手は出稼ぎに出、年配者は藁仕事などで長い冬を過ごす。昔の我が家にも「稲藁編み機」があった。左右から稲柄を差し込むと巧みに捩じり込んで編んで行く。今、この〈藁〉が刈入れの機械化で砕かれて無くなり、縄が手に入りにくくなった。現に我が町内では夏祭りでも街灯の注連縄が消えた。
雪国でも彼岸の頃から春の兆しは本格的になる。日射しは秋冬の鋭角さが鈍り、物の輪郭が心なし滲む。〈春は朧〉である。屋根の雪解けが頻りに雨樋から滴り落ちる。戸越しの陽は充分に暖かく、猫もそこを好んで丸くなる。雑木林の木々の根元の雪が丸く消えて、サークルが出来上がる。地面に日が当たり始めれば雪解けはどんどん進むが、なかなかスムーズには行かないもので、根雪になる過程と同じように、何度かの〈凍て返し〉を繰り返しをしながら、自然は変容する。
そして、里では晴れていながら雪が舞うと云う、〈風花〉などに見舞われながらも、斑に雪の消えた畑には麦が成長し這い上がる。湿り気を帯びた土の黒さと麦の青さが際立つ。思わず中学国語にあった島崎藤村の「千曲川旅情の歌」を想い出す。〈あたゝかき光はあれど 野に満つる香も知らず 浅くのみ春は霞みて 麦の色わづかに青し…〉。日本文学の誇り? の古文調が美しい。一面の麦に何となく元気を貰ったような気分で、また、PG遊びに立ち戻るのである。