goo blog サービス終了のお知らせ 

ひそひそiPhoneとMusicStudioとGZ-5(ときどきmicroKORG)で音楽を作りたい

iPhoneアプリのMusicStudioとかで初心者が音楽を作ってみようとして もがいて あがいてジタバタします…

重なる声について(八代亜紀を例に合唱とJpopの差を考えてみるてすと)

2016年11月29日 23時47分05秒 | iPhoneで音楽つくる
ハモり、ユニゾン、
そういう声の重ね方について思うこと。

合唱曲の作曲に取り組んでみて感じているのは、合唱で歌う曲って
パートを割り振ってもそれぞれの声の良さ、とかいうのは合唱の性質上、
人数を特定数に制限するか、あまり現実的ではないけれど、パート譜がものすごい数に分かれた曲とかでなければ
個々の声質というのは女性(男性)であるか、とかソプラノ(或いは他の各パート)であるか、
みたいに(当然のことではあるけれど)それなりの大枠でくくられる音楽、くくることを前提にした音楽なんだなぁと。

少人数で歌われることがほとんどの音楽アーティストの曲は、その人の声質が考慮されているような良い曲だと
微妙な声の重ね方(ハモらせ方)とかがうまくできる気がします(たまたま声質に合ったなんてこともあるかとは思いますけど…)。

一見(一聞)すると歪んでいる?というような、ほんとうに微妙な重ね方は合唱ではそんなにあるものでもないようで。
1パートを複数人で歌うことによる声の厚みというのはありますけど、そこで起きる歪みの場合は
意図していない(音譜の指定にない)場合、聞き苦しい、期待していないズレだったり。


ちょっと声質のみを取り立てて語ると、
先月あたり?BSの五木ひろしさんの司会の番組で八代亜紀さんのヒット曲を他の何人かの歌手がそれぞれ歌っていく、
という場面があったんですけど(ご本人は横にいるけど歌わないという笑)、
八代亜紀の歌には八代亜紀の声質がピッタリなんだなぁという検証実験(失礼)を見たような感想を抱きました。
もちろんビブラートしないとか、音をのばさない、とかそういう様々な歌うテクニック、
癖などで印象が変わってる面もあるでしょう。長年のご本人の曲という意識しきれない刷り込みもきっとあると思います。
ただ、あのかすれ声というか八代亜紀の声で歌われると歌詞も音符もまさに腑に落ちるという感じになるのです。

そこで、今度は八代亜紀の声を合唱の方に割り振るとなると、
あの声ですとおそらくはアルトに振り分けられると思うのですが、
合唱曲で歌われた場合、裏声かどうかに限らず八代亜紀の声としてではなく、
合唱のアルトの声質という枠で歌われます(改めて考えると当然なんですけど)。
歌い方も個人でのものと異なり、合唱っぽさを求められるかもしれません。

なんでしょう「合唱っぽさ」って。
なんとなく文章の流れで出てきましたけど、っぽさ、ってたぶんハッキリなりなんとなくなり
ちゃんと別の表現にしておいたほうが良いはず。
雰囲気、空気感をできるならそれに流される前に言葉にあてはめたい。実体を掴みにいきたいゞ(ΦдΦ)mシャー!

 斉唱(一つの旋律をみんなで歌うもの)があると合唱っぽさは一気に出てくると思います。
 でも3とか4部合唱みたいに複数旋律なり時によっては歌詞が分かれていても
 (「大地讃頌」の後半みたいに)重なったものでも合唱らしく感じます(らしく、っていうか合唱だけど)。
 音符に確実で音程通りに歌うと合唱らしくなります(個人的には崩すのもスキ…)。
 裏声で皆で歌うと確実に合唱らしく感じます。
 とはいえ地声でも合唱らしくなります。

ここにポルタメント(滑らか〜にある音程から別の音程に変える技)のような、
それもごく短い音程間の(かつもしかしたら速い)ポルタメントを適宜持ち込んでみると
少し合唱っぽさの空気が揺れるんではないかと。

地声とポルタメントの合わせ技、これで合唱っぽい空気が少し変わるのではないかと。
別の言い方をすると(少なくとも多くの人がよく言う歌=歌謡曲〜Jpopとして)合唱ではない普通の歌い方、
というのに地声〜ポルタメントが多用されてる、ということなのかな…。


で、合唱っぽさはひとまずそれで良いとして(本当にいいのか?)
この記事を書き始めたかったことにはまだ辿り着いていないのでしたoraッー。

途中ボソッと書きましたけど、
音符(もしくは添え書き)通りに歌うのが合唱らしいと思う要因の一つでしたが、
私、ズレてるの"も"大好きなのです。もちろん声質に差があってズレてるように聞こえるというのもありですが、
ほんのすこーし、1音程差 程はない音ズレ、肯定的に書きますと"ズラし"があるハモらせ方とか
個を潰さない、許容される曲というか、許容されることで活きる曲なんて大好きです。

ズレない音を出すことはもちろん大変素晴らしい技術ですし、良いと思います。
が、ズラしの良さもバッチリハマった場合なんてなかなか高等技術だと思います
(ズレてるのにハマってるってすごい矛盾表現)。

なんでズラしが良いのでしょう?
わずかな周波数の差による特徴なのか、帯域の妙なのか…
個人的には説明できる範囲をこえていてそれ以上なんとも言えないもどかしいとこなのですが、
音律とかそういうのが影響してることなのかな。

合唱曲に取り組んでみてる結果(来週中には完成させたい…という希望)、
合唱は合唱でそういう型を楽しむ面白さがあると分かってきた一方、
これではない歌の表現方法も楽しんでみたい、ということでJpopも作ってみたい欲求上昇。
軽妙洒脱なハモりはやっぱりJpopでの方が試しやすいはず。


八代亜紀を例に合唱とJpopを考え、
(頭の中ではPerfumeのハモりとYesのハモりを経由して
太陽とシスコムーンのハモりにたどり着いていたりする)、
一見するとだいたいの人には不思議な経過、でも本人は勝手に納得してしまった記事でしたヾ(・∀・)ノ゙ 。


余談、
昨日これいいなぁ、うまいなぁ、こういうの作れたら楽しいだろうなぁ、と思いながら見ていた
編曲動画
Keith Emerson: TARKUS for piano - Massimo Bucci (1st version)



合唱曲のパート割りふり返ればバスがいる

2016年11月28日 17時25分47秒 | iPhoneで音楽つくる
今回作ってる合唱曲は混声(男女)4部合唱にしようと思い、
さて、混声4部は
ソプラノ(女声)、アルト(女声)、テノール(男声)、バス(男声)
という構成でやっているつもりなのですが、
声色はこれ以外にもメゾソプラノ、とかバリトンなんてのもありまして、音域や声質にも沿って充てることになるわけです(ちなみに、声さえ出せるなら男女の縛りなく、男の人がソプラノをやる、なんてのもOKなのです)。

んが、私の初めて作る合唱曲でまさかそんな細かい指定なんぞ出てくるはずもありませんでして。
純粋に小学生(にしてはませ過ぎ)や、中学生(だとちょっと背伸びかな?)や
高校生(声質的にこの辺?)が歌えるようなものを想定してまして。

1番大事なのはそれぞれの音域を把握することでありました。
というか、これが分かってないとナンチャッテ4部合唱になってまう。
「そんな声出せるかぃ!(怒)」って怒られちゃう。
わて怒られたくないぼん、ちゃんと作る(なにか違う…)

混声4部合唱の場合の声域をおおまかに分けると
ソプラノの場合

(画像:Wikimedia Commonsより)

アルトの場合

(画像:Wikimedia Commonsより)

テノールの場合

(画像:Wikimedia Commonsより)

バスの場合

(画像:Wikimedia Commonsより)

と想定して作るのが良さそうだというのは分かりました。アルトだけ元画像が違うのね…
で、これを頭に置きながら実際に作ってみたところ、
主に旋律を担うソプラノがまずほぼ出来上がりました(これは完成)。
次いで取り掛かったのはアルトで、一部ハモりや一部ソプラノに代わって旋律を担わせたい箇所を作りました(未完成)。

ここまでは幸いそんなに苦労という苦労もなし。
そしてさぁ男性パートに取り掛かるどー、とやってみて気づく事の大きさ…。
最下部声域のバスって、音決めにくせっていうかなんか特徴あるっ…!?

ハッ!この既視感、これは…かつて…

「ベースBass(低音)ってやっぱりbase(土台)担ってるよなー」とかなんとか言いながら2作目の作曲に苦労してる頃のあの感じ…!

そうだよなぁ、声だって作ってるのは和音だもんね…。
ごちゃごちゃ動いたりするのは向いていないわけですわ。
ああ、私にも振り返ると後ろに道といえるものが少しずつ出来てきてるのかも。・゜・(ノД`)・゜・感…慨…っ…


ちなみに、どうでもいいんですけどわたくし、
バッソ・オスティナート(執拗低音)っていうのがす、す、好きなんです(ポッ
*今回の合唱曲ではやってません


間奏ショック

2016年11月21日 13時59分03秒 | iPhoneで音楽つくる
初めての合唱作曲のメドが付いたーついたーつきやしたーヾ(・∀・)ノ゙

メロディーのほとんどは作詞時に一緒にくっついてきてたのに、
途中で間奏入れたあたりからなんかえらい展開になり、
同時にそれ以降の最初に思いついたメロディーが間奏のショックでアタマの中からご退出になりました。
忘れたメロディは振り返らない主義、
サヨナラ三角またきて四角、要はオヤジの禿げ頭ですよ(。・`ω・´)(などと意味不明なことを申しておr)

結果、間奏以降は純粋に単語やことばの持つ音を頼りに作ることになりましてん。

そして最初で最後?のヤマ場、転調大好き(協和してる)不協和音好きが性格から
いつの間にか転調していたのを戻す作業(今まで作ってる練習作は極力
曲頭と終わりをG音のキーではじめたならG音キーのスケールに戻す、という修行ルール)。
これに着地点を見つけられたので、
これができりゃーもー後はたいがい楽ってもんですわさ。たぶん。

合唱曲なんて、どこから手をつけたらいいのだろう?
パート譜?伴奏?展開?どうすんべぇ~
と思っていたのも過去のこと。
取り掛かってしまえばどうにか始まらざるを得ないってんだ〜

…という調子で
だいたいの伴奏の使いたい音というか雰囲気が仮決めできまちた。
この後取り掛かるのは、肝心のパート割り。
伴奏音の本決めはパートとの兼ね合いで音がぶつからないように、とか
適度な重量感で、とかを気にしながら作りすすめる予定。

一応慣れるためにもとCubase(まだまだAI7)で各4パート、伴奏右手、左手、とにトラックを分けて作ってたら
そのうち初めての<落ちる>という体験をいたしまして。怖えぇ~。
その後も頻繁に起こりやすくなってきた様子だってので、VSTに選んでいたSample Tank3のピアノ音から、
HALion Sonic SEのピアノ音(GM002 Bright Acoustic Piano)に変更。
(Sample Tank3さんは他の音でもようエラー音が鳴るという印象は偏見…?)

と、ピアノの音を変えたついでにこんなページを見つけました~
「S-studio2」 さんの
徹底比較!! 特集:ピアノ音色聴き比べ
http://s-studio2.net/pf_compare/index.html

さ、っと聞きたいときにこういうの助かる~。ありがたい(-人-)。

…しゅ、しゅーとん(Xewton)MusicStudioのお、お、音源とか需要ないかななな…。


余談、
むかーしむかし、光GENJIというアイドルグループの影に平家派というジャニーズグループがありまして、
(現TOKIO、V6の数人と「相棒」で奮闘中の反町さんらがメンバー)その持ち曲をBSのジャニ系番組で流していますた。
見た目にはザ・昭和アイドルテイストだったのですが、曲の間奏(『剣の舞』というデビュー曲とのこと)がなんとも当時の切ない感じでちょっとグッときたりして
(ちなみに作曲は馬飼野康二 先生)。
今あの時代の感じで曲を作るっていうのは絶対面白いだろうなぁ…あぁ楽しそう、やりたい。そのうちこっそりw。
なんでしょう私の中に平野ノラ ムーブメントが花咲いちゃってる感じ?やだバブリ~♪

合唱曲音付け中(とひっそり作詞内容)

2016年11月17日 10時13分08秒 | iPhoneで音楽つくる
合唱曲を作る練習として、多くの合唱曲に習い詩先(作詞が先で曲付けが後のこと)で取り掛かることにしまして、
たぶん人生初の作詞をやってやりましたサー。
作詞と同時に音とリズムもほぼセットで比較的さらーと出てきたので
例によって今度は‟G(ソ)のキーでスケール(音階)を覚える回”として音付け中。

作詞のみ公開のこっ恥ずかしさというのはもうあきらめました(いつか境地に辿り着かねばなんべぇ)。
もうどんどんガシガシやっちまえってんだこんにゃろー。
こういう歌詞でも音が付いてくるとそれらしくなったりするもんなんで、
っていうか、こういう作詞でも音はのってきちゃうものなんで、
というか願った通りの音楽になってほしい…(-人-)。

くるしくったって〜♪
恥ずかしくったって〜♪
アタマ〜の中では平気 な の♪


「分裂人間(仮)」
分裂人間 あなたとわたし
分裂人間 あなたはわたし
電撃に分かたれた人類(ひと)の形態(かたち)
風吹けばわたしはあなた

追いかけてくるわたしの影踏み
どこへ行こうか迷ってる
どこへ行こうと誘ってる

ゲシュタルト ゲシュタルト
なやみはもはやない
ゲシュタルト ゲシュタルト
わたしもあなた

あなたに憧れるわたし
わたしを取り戻すあなた
一つの部屋 一つの目 二つの問い いくつもの応え
すべてを受け止める すべてを受け止められる器が 器は
このわたしからはじまる

分裂人間 あなたと わたし
分裂人間 わたしは あなた

分裂人間 あなたとわたし
分裂人間 あなたはわたし
電撃に分かたれた ひと の形態(かたち)
すべてをはじめる わたしとあなた

一面的にとらえることのあやうさ

2016年11月15日 17時58分36秒 | iPhoneで音楽つくる
一義的なもの、一面的なもののとらえ方、視点のせまさ
あまり好きまへん。

好きませんけど悲しいかな自分がやらかしてしまうこともあり得るもんだから
気を置かなければと、気を引き締めねばなんね


…といっても歌詞に関してダブルミーニング(複数の解釈しようがあること)や
その背景次第では歌詞とは裏腹の状況を思い起こさせるような歌というのはたまーにありまして、

例えば、ダブルミーニングだとカタカナ使いが一番簡単なやり方だと思うのですが、
 「シコウはばらばら」ということばだけでも
 <思考>、<嗜好>、<志向>など通じる変換候補がいくつかあります。
 これはいわゆる同音異義語から探ることもできるので扱いやすい例。

 隠語系、セクシャルな意味に関してもよく用いられるのは昔の古典時代などからで
 「桃」をお尻に思わせたりと大っぴらにしにくいものと比較的相性が良い分野。

 少し手の込んだものになると単語単体ではなくて、
 前後の文脈から~とか、タイトルと連携して引っかけてくる例も。
 といってすぐに例が思い浮かばない凡人orz。

 中田ヤスタカせんせーの「see new world」と「死ぬわ~」(『edge』って曲)を掛けた歌詞は
 大変決まった例だと思うております。

もひとつ、背景次第で歌詞と裏腹の状況を想起させるものというのは
例えば、小さい子がおままごとで楽しく遊んでいる一瞬を歌ったものが、
 実は戦渦の真っただ中に作られたものだった、とか
 かわいい寝顔に布団を掛ける仕草が、実はお亡くなりになったばかりの人に
 対してのものだった、とか(ひどい例ばかり…orz)


ところがこれらの比喩表現、もしくはユーモア、背景への思慮が、
余裕のない空気を前にすると 意味の化石化、
場合によっては看過を通り越して曲解からすぐに指弾につながることはちょくちょくあるようです
(分かりやすいやつだと戦いの最中にこどもが楽しむ歌など何事か!的なやつ)。

とりわけ ポチっと画面をクリックしたらその日に商品が届きます、な今のスピード重視時代で
1秒でも立ち止まったり振り返ったりする時間をも惜しみがちな空気間で
分からないことはすぐに調べてそれらしい答えを見つけた気になって安堵したり。


ああなんだか脱線しまくり。
本題である音楽のことに戻りまして…
今回作った合唱曲の作詞中で思い当たったことなのですが、

ダブルミーニングや比喩などの直接的でない文字表現というやり方以外にも
曲と詞とがなにか相反している(ことばだけが全てではない)という遊び方もあったなぁと気づきまして。

よく明るい曲調で悲しい歌詞、なんてパターンの曲もありますが(有名どころで『木綿のハンカチーフ』とか
『グリーングリーン』、『あの素晴らしい愛をもう一度』、『上を向いて歩こう』etc)、
それと似たもので、丸いと歌っているのにカクカクした曲とか
流れるような曲調で運んでいた歌詞がある時だけ裏腹な曲調になったり、とか。
勝手な思い込みかもしれないけれど、どうも歌詞となると、
「ことば第一主義」のような、ことばであらわされたものが全てです、そう受け取りましょう
という空気があるような、ないよーな。内容なんてないよ~なんちゃって。

あ〜ぐちぐち言ってるクダ巻いてるー
はいはい駄文だぶん(・3・)。


唱歌の作詞と作詩の違いから見出したMyルール

2016年11月08日 04時46分06秒 | iPhoneで音楽つくる
遅い夏休み旅行終了 ヽ(・ω・)/山登り過ぎて筋肉疲労中。
こんなときには寝っ転がったまま作曲!
寝たままで楽しめる趣味、作曲、さぁいかがですか!? こんな趣味そうそうありませんよ!?
今の時代ならiphoneスマホでどこでも作曲できますよ!?(勧誘)


それはさておきまして、
合唱曲のための作詞を始めて、
作詞 と 作詩 の違いに思い至り調べたりするうちに

ざっくり分けてみるなら
うたわれることを前提に作られるものが作詞、
うたのため につくられたわけではないものが作詩、
というような認識になるようになりまして、
あー、じゃぁ私がやっていることは「作詞」なのかー、と得心。

合唱曲には唱歌としてうたわれることを想定して作られたわけではない「詩」が合唱曲になることもよくあり、
詩人として有名な谷川俊太郎さんの詩から作られたものだと「信じる」、「はじまり」とか
それぁーもー なんてことだっていうくらい沢山ありまして。

一方、歌(曲と詩)の作者が同一人物というのは合唱曲ではややマイナーなのか?
よく聞く合唱曲はだいたい作詞と作曲が別人であることが多い印象。

なんでなんかな? なんでチコたんsh(略) by合唱曲「チコたん」
それぞれ得意分野としての(作曲家なら曲の、作詩家なら作詞/詩の)守備範囲を結果的に尊重して
そこを踏み越えない、という、意味で両方には手を出さない(作曲/作詞しない)のか、
単純に興味がたまたまわかなかったとかなのかな…
まぁきっとそれなりに色々理由があるのでしょう(お、ちょっと投げやり)。


で、今回合唱曲を目的にして作詞に取り掛かってるうちに、
「合唱曲」として歌われることを想定した上で作られる詞と、
そうでない詩とでは、のせられることばを異なるものとして選びたいという思いが出てきました。

 「え、どぅゆこと?」 はい、わかりにくいので改めます。
 作詩ではどのような立場でもOKだけれども、
 合唱曲の作詞では複数人で歌われるのもとして、似つかわしくないと言えばいいのか…
 概ねふさわしくないものがあるように感じる 文脈というか詩脈とでも言いたくなる、
 そういうものとして歌うことが好まれない歌詞があるように思うわけです(微妙なことの為えっらい婉曲な言い回しで申し訳ないです)。

 シンガーソングライターが歌うのと合唱曲で歌うのとはちょっと意味が違ってくる場合がある、
 というと少しは分かりやすさが増すでしょうか。

 誰かの代弁としての台詞的な歌詞(例えば子をなくした母の声、とか亡者の歌、みたいな)や、
 時代背景の異なるもの、というものならば、そうと判別しやすい環境が整うという意味で
 歌詞にも自然と違和感が振り込まれると思いますが(ちょっと主観的には何か感情が強いな、みたいな)、

 そうでないものだと、
 例えば…うーん、前時代的発想な愛を押しつけるような歌だとか、
 偏見的先入観を植え込むようなのや煽動的なものは合唱曲として皆で歌うのにはあまり好かない、ということです。
 (きっと全体主義とか一義的なものとか大きな団体とかに対しての懐疑心みたいなものが手伝っているのかな)

これがなんでか 詩作 の方だとそういうのも味があって良いんじゃないの〜と思えるわけです
(個人的に「好まない」ことはあるとしても「好まれない」というのとは違うのです)。

だから、自作の作詞ルールとして
そこ(どこ?)は大切にしていきたいな、なんてことを思ったのでした。


それとは別に
色々知恵袋見てたら、
作詩の意図は?とか。作者の、言いたかったことは?
などの質問をようけ見かけたのですが、
詩って必ずしも意図とか言いたいこととか、あるわけじゃ、なかんべ〜?
言いたいとかでなくて、ぽんっと、出てきちゃったものだってあるだろうし。
それを世に出すか出さないか、直したかどうかはまた別問題じゃないのかなぁ〜?
あぁ小学生の時、国語の時間に作者は何が言いたかったのか、という先生の問いに
ひとりだけ違うことを言ったら否定されたことに納得がいかなかった記憶がよみがえる…

などと、独り言をぶつぶつと言っており…。


しゃて、土壌改良(園芸のお話です)で土を作ることの大変さを学びつつあるおかげで
この年になって「大地讃頌」の歌詞が身にしみてます3X歳。
自然における土が作られる過程、はぁぁ土ってすんげぇ…。大地たたえますm(_ _)m。

作詞の小っ恥ずかしさについてあれこれ

2016年11月07日 20時38分19秒 | iPhoneで音楽つくる
どうにかひとつ合唱曲の作詞ができた…
バンザーイ嬉し恥ずかし初作詞。

ここだけの話…本当のこといいますと、
作詞? 小っ恥ずかしくてそんなことできるかぃっ、っという思いが少なからずありました。正直なところ。

これも作曲のためと、腹をくくって自分の中の厨二ならぬ中二スピリット引き上げましただ。
やってやれぬことぁーねぇ!そういう精神。

やってやりやしたサァ。

そしたらば どげんしたかとね、
大きなハードルだった作詞、いざ取り組んでみたら案外恥ずかしさとか気にならなかったとよ。なんでかに?
むすろ、あろうことか楽しくなってきちゃったですのよ。
何これ作詞の楽しさ目覚めちゃった??
あいやまぁ。
価値観の転換久しぶり〜(´∀`〜)。
なんでもやってみるもんどすなぁ(しみじみ)。


…ところで
なぜなぜどうして 作詞を恥ずかしく感じ、
また出来上がったら恥ずかしさ感じなくなったのか。(自己分析のお時間始まりまーす)

きっとまずは
やったことないことに対して、世の中の色んな曲を聞いたことがあるせいでそれらのような
「立派なもんこさえねば なんべぇ」という初心者のくせに初心者らしからぬ思いを抱いてしまう、
まさに初心者の陥りがちな罠、に引っかかっていた 説。有力。

次、
世間の、歯の浮いちゃうような、人となりとそぐわない(あんたが言うか!みたいな)歌詞に対しての嫌悪感があって、
そこに足を踏み込んだら自分も近いものを作ってしまうんではなかろうかという、
なんていうんでしょう、悪いバージョンの“朱に交われば赤”的な警戒心 説。うん有力。

次いで、
離見の見(世阿弥先生のお言葉)的な、もう1人の自分(いわゆる超客観視してくれる脳内監督)が
とても冷徹な視線で見守っている。嗚呼恐い。

そんでもって、
創作時特有の「何コレ、超ダッサ〜」という厨二ならぬ中二スピリット引き上げ中の身に大打撃を与えかねない、
見えない仮想敵による呪いの幻聴精神チクチク攻撃に対する防御策。心の壁。


そして恥ずかしさを感じなくなった理由は
1、心のハードルがやけに高かったわりに、作詞のふところはとても広くあたたかかった…こと

2、精神ねちねち初心者の芽をつむ攻撃を受けたとしても初心者には失える実績すらなかったこと。
 さながら「シーフはゴブリンAからぬすんだ! しかしなにも持っていなかった…」。あぁ無情

3、作詞の言葉にもともと乗っかっていた音とリズムによって
 早々にメロディーに誤魔化されてる(歌っちゃうと気にならなくなるアレ的魔力)

4、借りてきたことばを極力避け、自分からそう遠くない言い回しを使うようにしたこと

5、ひょっとしたらもしかしたら傑作をうみだしてしまった ←中二病罹患中


あーだcoda申し上げましたが、だいたいこれらを一言でまとめますと
ほとんど自意識と自己意識問題っちゅーことでした。


さて、肝心の出来た作詞の内容物でありますけれどね、

肝心の出来た作詞の内容物でありますけれどね、



作詞だけさらすのが恥ずかしい(自意識問題克服できてない(つд⊂))

合唱に思うこと、練習したいと思える歌

2016年11月01日 18時14分16秒 | iPhoneで音楽つくる
合唱曲を作ろうとするにあたって、「歌」という初めての分野に足を踏み入れる妙な警戒心(!)でもあるのか
調べ事多し。

義務教育期間、校内の合唱イベントが毎年のようにありまして、
個人的にはソプラノよりもアルトとかテナー、バスの方のハモるパートの方が好きでした。

でもどうやら一般的にはメインどころを歌うソプラノ的なパート、もしくはユニゾンで
主旋律みたいなのを歌える方が嬉しいようで、男性パートをそうしたら男子がやる気を出した、
という記事が何年か前に新聞であったそうです。

自分が直接記事を読んだわけではないので、この件にはそこそこに距離を置いて受け取るとしても、
確かに自分がふっと口ずさむ折に、どこを歌っても‟何かの断片”みたいなパートじゃ
音楽にあまり関わってこなかったような人だと歌っててもつまらなくなるかもしれない。
(慣れてる人だと頭の中で同時に別パートが鳴ってきちゃうとかあるかな?)
歯車の一つであるとしても、まわし甲斐のある歯車の方が断然イキイキするよなぁ。

(合唱だけでなく、オーケストラ、ブラスバンド編成の曲とかにも当てはまることだと思いますけど、
 練習し甲斐の見つけやすさは門戸や可能性を広げると思うのです)

そう考えると、合唱では比較的支える立場になることが多いように感じる男性パートが
なかなか聞かせる旋律だったりすると合唱練習の「男子がちゃんと歌ってくれません!」問題、
少しは改善するんだろうな、というのもガッテンガッテン。

儀式的な求めのある曲でない限り、合唱曲って歌いたいと思ってもらってナンボなとこあるし、
そういうのを作る上で、練習したいと思ってもらえるような良さはもちろんほしいです。
例によってそれを盛り込める能力があるかどうかは別問題orz。


何部合唱にするのかとか、各パートの音域(声域)想定してどう掛け合うかとか、
合唱曲を作ろうとするのに注意しなければいけない点も色々とあることが分かってきましたけれど、
分かればわかるほど、どこから作るか悩むぅ。
というか、そういう諸々を意識できる作曲能力があるかどうかも別問題…

とか言いだしたらね、なーんもいいもんできませんから
日々意識していくつもりでやってかにゃーなんねーってんだてやんでなやんでちくしょーばーろー。

…その前に今回の作曲は歌詞を元(いわゆる詩先)に曲を作っていくやり方にしているので、
歌詞、ぽいぽい完成せんといかんのだす。