お寺に様々ある建物の中でも、ほぼ中央にあって最も大きくて目立つのは、本堂(金堂・仏殿)・講堂(法堂)・御影堂といった宗教行為を行う建物です。これら建物にも建てられた時代の流行を取り入れ、歴史の生き証人としてとても魅力的な姿を今に伝えています。
本堂・講堂・御影堂は、本尊など寺で最も大切な信仰対象を安置しているため、方丈・書院など住居・執務に使う建物に比べて、より頑丈かつ華麗に造られる傾向があります。
住宅の場合と同じくお寺の建築も、過去の建築例や複数の様式から優れた点をブレンドして造られています。このブレンドに大いに利用されたのが、鎌倉時代に中国からもたらされた建築様式です。お寺でよく目にするデザインの特徴の多くが、中国に起源があることがわかります。
1)よく耳にする和様・大仏様・禅宗様とは?
お寺のガイド本の解説によく出てくる用語です。鎌倉時代以降の寺の堂宇の建築様式を分類する用語ですので、平安時代以前の寺の堂宇建築には用いません。
和様(わよう)は、鎌倉時代に中国から大仏様・禅宗様が輸入される以前から存在した寺の堂宇の建築様式です。時代が下るにつれ和様と大仏様・禅宗様がブレンドされ、互いの特徴を活かした折衷様(せっちゅうよう)もみられるようになります。
以前まで、大仏様(だいぶつよう)は天竺様(てんじくよう)、禅宗様(ぜんしゅうよう)は唐様(からよう)と呼ばれてきました。
なお寺の建築様式の時代変遷と、屋根の形状の時代変遷はあまり一致しません。奈良時代以前は寄棟造が多く、中世以降は入母屋造が多くなるという、おおまかな傾向は見られますが例外は多数あります。
平安時代までの寺の建築様式
寺の建築様式は、仏教そのものの伝来と一緒に飛鳥時代に伝えられたと考えられます。飛鳥時代の寺の建築で現存するものはなく、建築様式はわかりませんが、仏像と同じく朝鮮半島に近い様式であった可能性が高いでしょう。
お寺の建築で最古の法隆寺・金堂や薬師寺・東塔は、白村江の戦いで一時的に朝鮮半島や中国大陸との交流が絶たれていた白鳳時代の建築様式で、中国風のデザインがあまり目立ちません。
奈良時代後期から平安時代初期にかけて、再び遣唐使による中国大陸との交流が活発に行われるようになります。中国風のデザインが目立つようになり、唐招提寺・金堂や室生寺・金堂にその姿を確認することができます。
平安時代中期以降は遣唐使が廃止されたこともあって、国風文化と呼ばれる日本独自の好みが寺の建築様式にも現れます。徐々に屋根は入母屋造が多くなり、大きさ自体がコンパクトで天井が低い建物が多くなります。宇治の平等院鳳凰堂やいわき市の白水阿弥陀堂が代表例です。
平安時代以前はこのように、明確な建築様式は確認できず、文化全体のおおまかな流れに即したものでした。
とにかく頑丈な「大仏様」
平安時代末期の平重衡による南都焼討により東大寺の大仏殿が焼失します。当時の朝廷にとっては権力の象徴を揺るがす一大事であり、平家に代わって武家の権力者になろうとしていた源氏の協力も取り付け、すぐさま復興に着手します。
復興の責任者に任命された重源(ちょうげん)が、巨大建築を遂行するために導入したのが、自ら中国・南宋の福建省で学んだ建築様式でした。それが現代でいう「大仏様」です。
東大寺・南大門の「貫」(緑線で示した部材)
平安時代の国風文化で主流となったコンパクトな建築様式では、大仏殿のような巨大建築は対応できません。大仏様は木造建築として、シンプルで頑丈であることがその最大の特徴です。
柱は直径が太い巨木の円柱をふんだんに使います。柱を水平方向に支える「貫(ぬき)」を多用し、天井板がなく屋根裏が見えます。床は土間で、窓は採光や通風に優れた連枝窓が目立ちます。
東大寺・南大門や兵庫県・小野市の浄土寺・浄土堂などが代表例です。鎌倉時代初期以降は純粋な大仏様は見られなくなります。大きいものより小さいものを好む日本人には合わなかったのでしょうか。
大仏様はほんのわずかな期間だけ花を咲かせたことになりますが、建築技術としてはその後、綿々と受け継がれていきます。「貫」がその代表例です。地震や暴風雨災害が多いにもかかわらず、日本で木造建築が現代まで生き残ったのは、「貫」による補強が大きく貢献していると考えられています。
現代でも、四つ足の木製の椅子の足元に、水平方向に貫がよく用いられています。シンプルながらもとても合理的な技術の原点が、とにかく頑丈な「大仏様」なのです。
浄土寺・浄土堂
【Wikipediaへのリンク】 大仏様
繊細なデザインの「禅宗様」
栄西があらためて日本に伝えた禅宗が鎌倉幕府の庇護により本格的に広まると、禅宗寺院の建築様式である「禅宗様」も広まってきます。コンパクトで繊細なデザインであるため、同じ頃に中国から伝来した「大仏様」とは異なり、その後も長く採用され続けました。
上海・玉佛禅寺
最大の見た目の特徴は、屋根の四方の先端が強く上方に反っていることです。この反りが建物を実に優美に見せています。大仏殿ほど大きくない建物でこそ、しっとりと落ち着くデザインです。他にも中国風のデザインも多く見られます。天井板がなく屋根裏が見える、柱は円柱、土壁はほとんどない、床は瓦の「四半敷」、窓は釣り鐘型に見える「火灯窓」、扉は重厚感がない薄手の「桟唐戸」、などが禅宗様の特徴です。
日本人好みに合った禅宗様は禅宗以外の寺院にも広まります。中でも「火灯窓」は、お寺や城など古い建築の象徴のように現代の日本人にすっかり定着しています。
【Wikipediaへのリンク】 禅宗様
優美な「和様」
滋賀県の西明寺・本堂、和様の代表例
和様は漢字の意味から推測できるように、日本人の好みに最も合った建築様式です。用語としては、中世以降に大仏様・禅宗様に該当しないお寺の建築を区別するために生まれました。
その特徴をあえて言えば、よりコンパクトな空間と優美なデザインです。床が張られ天井板があるため室内空間が小さい、柱が細い、縁側がある、などがあげられます。寝殿造の京都御所のような印象を受けます。
【Wikipediaへのリンク】 和様建築
ブレンドの賜物「折衷様」
漢字の意味のごとく、中国からもたらされた「大仏様」「禅宗様」と、それに該当しない「和様」の特徴をブレンドしたとみなされる様式です。
近世にかけて一般的になり、お寺の建築様式そのものの区別ができなくなっていきます。「和様」以上に定義が難しい様式です。大阪の観心寺・金堂が代表例としてよくあげられますが、学術的には明確にあげるのは困難とされています。
山岳寺院に多い「懸造」
平安時代になって山の中に寺が建立されることが多くなると、平地が限られるため斜面や川に突き出るように堂宇が建てられます。床下を長い柱で支える懸造(かけづくり)です。京都・清水寺本堂、奈良・室生寺金堂、鳥取・三仏寺投入堂が代表例です。
江戸時代には川や海に張り出した町屋でも見られるようになります。
巨大な懸造、清水の舞台
2)寺院建築のパーツ
お寺の中には寺院建築特有の意匠が数多くあり、ファンも少なくありません。「お寺に来た」と感じさせる逸品が勢揃いです。
本尊を安置するパーツです。
須弥壇(しゅみだん)
- 本尊など、その堂宇の主役となる仏像を安置するための場所です。多くは床より一段高く設けられます。須弥壇のある区画は、堂宇の中でも「内陣」と呼ばれます。
【Wikipediaへのリンク】 須弥壇
厨子(ずし)
- 仏像など重要な信仰対象を納める箱。納める対象に応じた大きさで造られます。秘仏開帳の場合は、厨子の扉を開けて内部の仏像が実際に見えるようにします。
【Wikipediaへのリンク】 厨子
奈良・称名寺の厨子(青線で囲んだ部分)
堂宇の外側の周囲、いわゆる縁側に張り巡らされたパーツです。
高欄(こうらん)
- 縁側の外側の淵に設けられえた手すり(欄干)のこと。勾欄(こうらん)も同じ意味です。
擬宝珠(ぎぼし)
- お寺・神社・橋の高欄や階段の柱の上部に付けられる装飾のこと。形状がネギの花に似ていることから葱坊主(ねぎぼうず)とも呼ばれます。素材は主に銅です。
- 魔除けの意味や、柱の腐食防止の目的があります。
【Wikipediaへのリンク】 擬宝珠
京都・清凉寺の擬宝珠(黄色で囲んだ部分)と高欄