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曹洞宗のダブル本山に納得 ~仏教宗派の個性(10):美術鑑賞用語のおはなし

2018年06月06日 | 美術鑑賞用語のおはなし



もう一つの禅宗・曹洞宗(そうとうしゅう)は、何より座禅を重んじます。地方を中心に永らく信者を拡大してきました。案外知られていませんが、信者数と寺院数では現在、浄土真宗本願寺派(西本願寺)を上回って日本最大の宗派です。

同じ禅宗でも、京都では圧倒的に臨済宗が目立ちますが、地方では真逆です。臨済宗と曹洞宗は布教のターゲット層はもちろん、マーケティングのやり方まで見事に異なります。両者とも、とても賢明に生き残る道を選択したのだと思えてなりません。そんな曹洞宗の魅力を探ってみたいと思います。


「道元」の曹洞禅は厳格だった

道元(どうげん)は、鎌倉新仏教の開祖の中では第三世代にあたります。第一世代で禅宗のもう一派・臨済宗の扉を開いた栄西より60歳ほど下、第二世代の親鸞より30歳ほど下の世代です。

【福井県文書館公式サイトの画像】 道元像

道元は1200(正治2)年、京都の名門の公家に生まれますが、出家することになります。比叡山や園城寺で学んだ後、禅を学ぶために建仁寺の明全(みょうぜん、栄西の弟子)に弟子入りします。1223(貞応2)年、明全とともに渡った南宋で、臨済禅ではなく曹洞禅に感銘を受けます。

南宋で入滅した明全の遺骨を携え1228(安貞2)年に帰国した道元は、一旦は建仁寺に入りますが、まもなく深草に興正寺(こうしょうじ)を開きます。


現在の興聖寺「琴坂」(宇治に江戸時代に再興)

道元は臨済宗のように既存仏教との融和姿勢を見せず、ひたすら無心になって座り続ける只管打坐(しかんたざ)を奨励します。また当時根強かった末法思想も否定したことから、仏や経典を学んで祈ることが常識だった当時の仏教界にはまるで“カルト”に映ったのかもしれません。

深草で道元は、のちに法灯を継ぐことになる孤雲懐奘(こうんえじょう)ら支持者を獲得していきますが、曹洞禅を極めるのは京都では困難と考え始めたようです。

1243(寛元元)年、親交のあった有力武士・波多野義重から寄進された越前に入ります。この寄進地に道元が建立した道場が、現在の曹洞宗大本山・永平寺(えいへいじ)です。

永平寺で道元は、生涯の集大成となる曹洞宗のバイブル「正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)」を完成させ、1253(建長5)年に入滅します。

曹洞宗の修行の仕方は、臨済宗の看話禅(かんなぜん)に対し、黙照禅(もくしょうぜん)と呼ばれます。師が雲水に公案を与えるのではなく、専ら座禅に徹することで悟りを開きます。また悟りを開いてからも、さらなる高いレベルを求めて座禅を際限なく続けます。

道元は信者の獲得や教団の運営はそっちのけの職人肌の人物だったようです。この人柄が道元の死後に教団が進む道を変えることになります。

【Wikipediaへのリンク】 道元
【Wikipediaへのリンク】 曹洞宗


永平寺と総持寺、総本山が二つあるのに宗派は一つ

曹洞宗は日本最大の仏教宗派ですが、長い歴史の中で分裂せずに運営し続けた日本では稀有な宗派です。でも不思議なことに総本山は2つあります。こうした不思議に曹洞宗の強さの秘密があるようです。

道元の入滅後、孤雲懐奘が永平寺を率います。孤雲懐奘の存命中は、道元の禅風を守りながら伽藍整備や経営基盤の確保に努め、宗派内をうまくまとめていました。孤雲懐奘の入滅後、改革派と保守派の対立は収束不能に陥り、改革派の徹通義介(てっつうぎかい)は1293(永仁元)年頃に永平寺を出て、金沢に大乗寺に入ります。

この時曹洞宗は一時的に分裂状態になりますが、保守派が残った永平寺は波多野氏からも賛同を得られなくなり、運営そのものに行き詰まるようになります。

一方大乗寺は順調に寺勢を固めていき、徹通義介の後を継いだ瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が、1321(元亨元)年に能登に拠点を移します。これが現在のダブル総本山の一つ、総持寺(そうじじ)です。

 【総持寺公式サイトの画像】 瑩山紹瑾

曹洞宗内では瑩山紹瑾を道元と並ぶ「両祖」としており、総本山と同じく開祖もダブルです。瑩山紹瑾が教団としての発展の基礎を固めたためです。

  • 修行の進め方を詳しく示したマニュアルのようなものを用意し、それにのっとって修行を続けると悟りのレベルを高めることができるシステムを考案。厳格な座禅生活を求めた道元の禅風を志しやすいようにした。
  • 女性の出家も許容し、生活に困った女性の駆け込み寺として受け入れた。
  • 在家信者にもわかりやすいよう、密教の加持祈祷や神道の祭祀も取り入れ、身近な現世利益を祈るニーズにも対応した。
  • 胡人に戒名を与えて僧侶とし、死後も供養を続けるという現代の葬式仏教を初めて提案し、檀家を獲得していった。



豊川稲荷の巨大伽藍は信仰の厚さをうかがわせる

瑩山紹瑾は、斬新な禅宗を伝えた偉大な道元を看板にしながら、情報や選択肢が限られる地方でも受容されやすいよう、現実的なニーズに着々と応えていったのです。曹洞宗寺院は全国に広がり、地方武士の支持を大いに集めました。地方の有力寺院に地方大名の菩提寺が多いことからわかります。

  • 座禅で悟りを開く曹洞宗の教えは地方でも、戦に向き合い厳しい判断を迫られる武士に受容された。
  • 臨済宗は公案ができる高僧の師が必要だが、地方にはそうそういない。
  • 同じく地方で信者を増やした浄土真宗は、武士には敵対勢力にもなりえたので受容しにくい。


地方に生きる武士や庶民にとって、曹洞宗は角がなくとても受容しやすかったのです。これが室町時代以降に地道に信者を伸ばしてきた最大の秘密です。


曹洞宗に厚く帰依した大内氏は瑠璃光寺を遺した

なお能登の総持寺は明治になって失火で全焼し、1911(明治44)年に現在の横浜・鶴見に移転する大英断を下します。東京は地方から人口が流入する巨大マーケットと考えたのでしょう、総持寺らしいマーケティングを重視した決断だと思います。

曹洞宗の約15.000の寺院は大半が、総持寺系列だと言われています。それだけ信者獲得には成功しています。心の原点の永平寺、現実を支える総持寺。両者の絶妙なバランスが、分裂することをよしとしなかった宗派としての知恵でしょう。


曹洞宗の主な寺院

宗旨 宗派 本山 所在地 住職名
曹洞宗 永平寺 福井県永平寺町 貫首(かんしゅ)
総持寺 横浜市鶴見区


総本山以外の著名寺院

  • 能登の總持寺祖院、永平寺東京別院長谷寺
  • 京都の天寧寺・源光庵・詩仙堂・大石寺、宇治の興聖寺、宇治田原の禅定寺、桜井の平等寺
  • 青森の恐山菩提寺、岩手の正法寺、米沢の林泉寺
  • 東京の泉岳寺・とげぬき地蔵・豪徳寺、鎌倉の大船観音、伊豆の修善寺
  • 上田の安楽寺、高岡の瑞龍寺、金沢の大乗寺、愛知の豊川稲荷
  • 尾道の向上寺・天寧寺、山口の瑠璃光寺、長門の大寧寺、下関の功山寺、熊本の大慈寺


【Wikipediaへのリンク】 永平寺
【Wikipediaへのリンク】 総持寺
【Wikipediaへのリンク】 瑩山紹瑾


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