浄土真宗(じょうどしんしゅう)は、国内最多の信者・寺院を抱える宗派です。宗祖の親鸞聖人(しんらん・しょうにん)は、真言宗を開いた弘法大師・空海と並んで日本でもっとも有名な僧侶です。
鎌倉新仏教の一つとして出発しますが、戦国時代に強大な結束力を作り上げます。そのため時の権力者と熾烈な抗争を繰り広げますが、見事に生き延びて現代に至ります。天台宗と並んで、日本社会の歴史に最も影響を与えた宗派です。
そんな結束力の原点はどこにあるのでしょうか? 浄土教系宗派の中でも特にスポットをあてて探ってみたいと思います。
宗派を立ち上げる意思はなかった「親鸞」
【西本願寺公式サイトの画像】 国宝・親鸞聖人「鏡の御影」
親鸞は、平安時代末期の1173(承安3)年に、京都・日野の法界寺の近辺で生を受けます。青蓮院に入り、比叡山で修業を重ねます。
次第に比叡山での修行に限界を感じるようになります。1201(建仁元)年、29歳の時に比叡山を下り、六角堂で修業したのち、浄土宗の開祖・法然がいる吉水草庵を訪ねます。法然の教えに薫陶した親鸞は、念仏の道に入ることを決意します。
1207(承元元)年、念仏が禁止され、法然が讃岐へ配流された「承元の法難」に巻き込まれます。親鸞は越後へ配流となり、その後は東国で20年ほど布教を進めます。なお流罪ではなく、京都での布教をあきらめ自らの意思で越後へ向かったとする説もあります。
茨城県笠間市の稲田草庵(現:西念寺)で1224(元仁元)年ごろ、浄土真宗のバイブルである教行信証(きょうぎょうしんしょう)の草稿を完成させます。浄土真宗はこの年を開宗年と定めています。親鸞の真筆の教行信証は今も東本願寺に伝えられています。もちろん国宝です。
なお浄土真宗では歎異抄(たんにしょう)もよく知られていますが、弟子が親鸞のことばをまとめたものです。教団内でもほとんど知られていませんでしたが、大正時代の小説「出家とその弟子」で有名になりました。
京都に戻って執筆活動を続けますが、1262(弘長2)年、末娘の覚信尼(かくしんに)らに看取られ、入滅します。親鸞は純粋に信仰に傾倒した人物でした。宗派として組織化する意思は見受けられず、弟子たちによって組織化していくのは入滅後60年ほどたった頃です。
【Wikipediaへのリンク】 親鸞
本願寺は当初は振るわなかった
覚信尼は親鸞が京都に戻ってから身の回りの世話をするようになり、親鸞没後は弟子たちのまとめ役になった教団としての「母」なる女性です。
1272(文永9)年、覚信尼は親鸞の墓・大谷廟堂(おおたにびょうどう)を大谷から、現在の知恩院の塔頭・崇泰院(そうたいいん)がある吉水(よしみず)に改葬します。吉水は浄土宗にとっても聖地であり、法然の法灯を受け継ぐ浄土真宗としてもとても大切にしたのでしょう。
吉水の大谷廟堂の地(現:知恩院塔頭・崇泰院)
覚信尼の死後に相続争いが起こりますが、覚信尼の孫の覚如(かくにょ)が勝利します。1321(元亨元)年、覚如は吉水の大谷廟堂の地に本願寺の号を掲げます。これが日本史を左右した一大宗教勢力である本願寺の発祥で、大谷本願寺と呼びます。
しかししばらく宗派としての勢いは確立できませんでした。隣接する青蓮院に上納金を治める末寺だったという説もあるように、細々と法灯を守っているのが現実でした。
【Wikipediaへのリンク】 浄土真宗
【Wikipediaへのリンク】 本願寺の歴史
戦国時代に民衆の心をつかんだ「蓮如」
本願寺8世宗主・蓮如(れんにょ)は、本願寺の寺勢を劇的に向上させ、中興の祖と呼ばれています。1465(寛正6)年、大谷本願寺は比叡山宗徒に破却され、蓮如は北陸に逃れます。「寛正の法難」です。
福井県あわら市・吉崎に御坊を開き、「講(こう)」と呼ばれる信仰の集まりを組織して急速に勢力を拡大します。1478(文明10)年、山科で本願寺の造営を始め、京都でも急速に信者を獲得します。
既存宗派に警戒されるようになり、1532(天文元)年、日蓮宗徒と戦国大名・六角氏により山科本願寺が焼討されます。「天文の錯乱」です。現在の大阪城の地に建立していた石山(いしやま)本願寺に拠点を移します。
【Wikipediaへのリンク】 蓮如
石山本願寺も今の大阪城のように巨大だった
信長に立ちはだかった「顕如」
顕如(けんにょ)は、戦国時代に本願寺を最盛期に導いた宗主で、石山本願寺をめぐる信長との対決でよく知られています。戦国時代、本願寺は地方の一向一揆を掌握するとともに、公家や地方の戦国大名との縁戚関係を深め、大名並みの力を持つようになっていました。
1570(元亀元)年から信長との対決、石山合戦が始まります。しかし敵を屈服させることで天下人となった信長は、10年かかっても石山本願寺を屈服させることはできませんでした。
石山本願寺は土塁や堀に囲まれ、普通の城以上の高い防御力を持っていました。また信長の軍勢に囲まれている間も兵糧の補給が密かに続けられていたと考えられます。周囲にそれだけの厚い支持基盤がないと、10年ももたなかったでしょう。
【文化遺産オンラインの画像】 和歌山市立博物館蔵「石山合戦配陣図」
合戦末期になって信長の天下統一がほぼ確実になったこともあり、厭戦ムードが漂い始めます。教団内で、顕如ら穏健派と、徹底抗戦を主張する顕如の長男・教如(きょうにょ)ら強硬派の対立が始まります。この対立が江戸時代の本願寺の東西分裂につながります。
1580(天正8)年、正親町天皇が仲介し、顕如は石山本願寺を退去します。しかし教如が素直に退去に応じなかったため、顕如は教如を一旦義絶します。
【Wikipediaへのリンク】 顕如
教えの誇りに最後までこだわった「教如」
石山本願寺を退去した顕如は、和歌山市の鷺森本願寺、貝塚市の願泉寺を経て、1585(天正13)年に秀吉から大坂に寺地を与えられ、天満本願寺を開きます。しかしわずか6年後に秀吉は京都への移転を命じます。現在の西本願寺はこの移転で境内が造られたものです。
1592(文禄元)年に顕如が入滅します。教如が宗主となりますが、穏健派を一切登用しなかったことから、内部対立は続きます。穏健派は秀吉に工作し、翌1593(文禄元)年に教如の弟・准如(じゅんにょ)を宗主とすることに成功します。
教如は隠居の身となり、秀吉から大坂に大谷本願寺(現在の南御堂)の土地を与えられますが、強硬派はまだ大きな勢力を保っていました。秀吉の死後、家康に接近した教如は現在の京都の東本願寺の地を与えられ、本願寺は分裂します。
東本願寺の遠景、御影堂は東大寺大仏殿より面積が大きい
京都人の間では「家康が本願寺の力を弱めるため、対立をあおって東西分裂させた」とまことしやかに伝説が語られることがあります。しかし対立は石山合戦から始まっており、収拾がつかないほどに亀裂が深まっていたとも考えられます。早期に分かれたことが、かえって宗派として安定したと考える向きもあります。
【Wikipediaへのリンク】 教如
浄土真宗の主な宗派と寺院
宗旨 | 宗派 | 本山 | 所在地 | 住職名 |
浄土真宗 | 浄土真宗本願寺派 | 西本願寺 | 京都市下京区 | 門主(もんしゅ) |
真宗大谷派 | 東本願寺 | 京都市下京区 | 門首(もんしゅ) | |
真宗高田派 | 専修寺 | 津市 | 法主(ほっしゅ) | |
真宗佛光寺派 | 佛光寺 | 京都市下京区 | 門主(もんしゅ) | |
真宗興正派 | 興正寺 | 京都市下京区 | 門主(もんしゅ) | |
真宗木辺派 | 錦織寺 | 滋賀県野洲市 | 門主(もんしゅ) |
東西本願寺以外の主な浄土真宗の宗派
- 親鸞没後に起こった相続争いで敗れた勢力は、大谷の南方、現在の方広寺がある渋谷(しぶたに)の地に佛光寺(ぶっこうじ)を建立します。応仁の乱の頃までは本願寺をはるかにしのぐ信者を獲得していました。現在の真宗佛光寺派です。
- 山科本願寺の造営が始まると、それまで浄土真宗では主流だった佛光寺派の大半の寺が蓮如に合流します。これにより本願寺は、佛光寺に代わって浄土真宗をリードする寺となります。合流した元・佛光寺派は興正寺(こうしょうじ)を建立、現在の真宗興正派に至ります。著名寺院に富田林の興正寺別院があります。
- 地方では、親鸞が東国で布教していた際に、現在の栃木県真岡市に高田専修寺(たかだせんしゅうじ)が建立されます。戦国時代にかけて関東から北陸・東海の広い範囲で信者を獲得し、佛光寺に次ぐ勢力となります。現在の真宗高田派です。本山は戦国時代に津市の専修寺に移転しています。
佛光寺境内に開業しているD&DEPARTMENT
浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の著名寺院(山内塔頭除く)は全国に数多くあります。いずれも都心にあって境内が広いことから、著名人や企業の葬儀会場によく使われます。同じ都市に存在する場合、東西で名前を区別しています。大阪だけは南北ですが、大阪城に向かって左側に西本願寺系、右側に東本願寺系があり、東西の場合と同じ左右の組み合わせになっています。
浄土真宗本願寺派(西本願寺)
本山
- 本願寺(通称:西本願寺)
宗祖墓所
- 清水寺の南隣にある大谷本廟(おおたにほんびょう)、通称:西大谷(にしおおたに)
直轄寺院
- 東京の築地本願寺
別院(=地方の主要拠点)
- 福井県の吉崎御坊(西御坊)、名古屋の西別院、京都の北山別院、大阪の津村別院(北御堂)、和歌山市の鷺森別院(雜賀御坊)、御坊市の日高別院、神戸別院(モダン寺)、宇佐市の四日市西別院
他の著名寺院
- 京都の日野誕生院、八尾の顕証寺、橿原の称念寺
- 尾道の耕三寺
真宗大谷派(東本願寺)
本山
- 真宗本廟(しんしゅうほんびょう)、通称:東本願寺
宗祖墓所
- 八坂神社の南隣にある大谷祖廟(おおたにそびょう)、通称:東大谷(ひがしおおたに)
別院(=地方の主要拠点)
- 富山県の井波別院瑞泉寺、福井県の吉崎御坊(東御坊)、名古屋の東別院、長浜の大通寺、京都の岡崎別院、大阪の難波別院(南御堂)、宇佐市の四日市東別院
- 1981(昭和56)年に、東京の拠点だった浅草本願寺が真宗大谷派から離脱しています。
他の著名寺院
- 京都の了徳寺、長浜の向源寺
【Wikipediaへのリンク】 浄土真宗本願寺派
【Wikipediaへのリンク】 真宗大谷派
【Wikipediaへのリンク】 真宗高田派
【Wikipediaへのリンク】 真宗佛光寺派
【Wikipediaへのリンク】 真宗興正派
寺内町と御坊、浄土真宗の団結力の象徴
- 室町時代から江戸時代にかけて、寺が自治を行う集落である寺内町(じないまち)が畿内を中心に発達しました。武家の支配を受けず、そのほとんどが浄土真宗寺院でした。現在も○○御坊・○○道場と呼ばれて親しまれています。御坊とは、自治を行う中心寺院と寺内町の双方を指します。
- 大阪の富田林や奈良の今井のように重要伝統的建造物群保存地区に指定されているところもあり、観光地としても注目されています。守山の金森、高槻の富田、貝塚、奈良の高田などが知られています。
重伝建・今井の街並み
浄土真宗はとても個性的
浄土真宗寺院は浄土宗寺院とよく似ている
- 本尊は阿弥陀如来です。伽藍は金堂と講堂ではなく、開祖を重んじるため阿弥陀堂と開祖を祀る御影堂(ごえいどう)が中心になります。
- 念仏は「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えます。
教えはいたってシンプル
- 阿弥陀仏が人々を救おうとする本願(ほんがん、仏による約束)を信じ、念仏を唱えれば往生できると説きます。信仰のために修行や巡礼を求めません。
- 加持祈祷を行わない、御朱印がない、おみくじ・お札・お守りを販売しない、といった他宗派にはない浄土真宗寺院の特徴は、こうしたシンプルな教えに基づくものです。
- 修行者が守る生活規範を定めた戒律がなく、「不殺生」を規定していません。そのため肉食が許されていました。
- 世の中の人はすべて善悪の判断ができない「悪人」であると定義し、自分が「悪人」だと悟った者が阿弥陀仏による救済の対象となる、とも教えます。武士だけでなく庶民でも戦で殺生を行うことが日常的だった戦国時代に、救いを求める民衆の心をぐっとつかんだ教えでした。
- 日本仏教の中でも教えや信仰のやり方が最もシンプルと言えます。世が最も乱れていた戦国時代に急速に信者を獲得できたのは、このシンプルさが大きく影響していると考えられます。
唯一僧侶に妻帯を認めた宗派
- 浄土真宗は、日本の仏教宗派で珍しい「妻帯を認める」宗派で、宗主職も世襲されます。明治以降はどの宗派でも妻帯が行われるようになりましたが、江戸時代は厳格に禁止されていました。
- 宗主職の世襲は浄土真宗以外にはありませんでしたが、門跡寺院のように皇族からの新たな入寺があっても、ポストを増やさずに継続できたというメリットもありました。
宗派の名称
- 蓮如が生きた時代、北陸・東海を中心に一向一揆が猛威を振るい、戦国大名を苦しめました。この一向宗を主導したのは本願寺宗徒にほかなりませんが、一向宗という名称は本来、他宗派が本願寺宗徒を呼んだ名称でした。
- 浄土真宗はこの呼び名を嫌い、浄土真宗と名乗れるよう江戸幕府に願い出ますが、幕府は浄土宗の増上寺の反対を受けて「一向宗」と名乗るよう命じます。そのため江戸時代は自らを門徒宗(もんとしゅう)と呼んだこともありました。
- 明治新政府は「真宗」と名乗ることを認めます。戦後になって西本願寺だけが「浄土真宗」を名乗るようになりました。西本願寺以外の宗派は現在も「真宗」を名乗っています。
報恩講(ほうおんこう)とは?
- 親鸞の祥月命日(しょうつきめいにち、年1回の忌日)の前後に営まれる年忌法要です。中でも50年毎に行われる遠忌法要(おんきほうよう)はより盛大です。
- 親鸞の祥月命日を決める暦が異なるため、宗派によって日程は異なります。西本願寺は現在の新暦に換算した日付を基準にし、毎年1月中旬です。東本願寺は旧暦の日付をそのまま基準にし、毎年11月下旬です。
- 浄土真宗にとって最も重要な法要であり、文化財の特別公開が行われることも少なくありません。